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新世界編 第二話 ~ツカサの過去~

【ツカサ視点】


「――以上が、次期四半期における市場予測と、我がチームが提案する抜本的なコストカット案です。……ご質問は?」


凍りつくような沈黙が、重厚なマホガニーの会議室を支配していた。

 プロジェクターの光だけが、数十人の役員たちの険しい顔を青白く照らし出している。

 彼らの視線の先に立つのは、仕立ての良いタイトスーツに身を包み、完璧な姿勢でレーザーポインターを握る一人の女――前世の私、藤堂とうどう つかさだった。


「……君の言うことは、机上の空論に過ぎないな。現場の痛みが全く分かっていない」

「第一、このスキームでは我が部門の予算が三割も削られる。こんな暴論が通ると思っているのか」


次々と飛んでくる、論理を伴わない感情的な反発。

 私は内心で冷たい溜息を吐きながら、顔には一片の動揺も出さず、冷徹な笑みを張り付けた。


「現場の痛み、ですか。……では、その痛みを放置してこのまま四半期連続の赤字を垂れ流し、会社ごと沈むのが現場の総意であると、そう議事録に残してもよろしいでしょうか、専務?」

「なっ……!」

「私はコンサルタントとして、冷酷な『数字』という事実のみを提示しています。感情論で会社が救えるのなら、どうぞ私をクビにして、皆様のその素晴らしい精神論で株主を説得してくださいませ」


ぐうの音も出ない正論で、古狸の役員たちを次々と論破していく。

 反感を買うことは百も承知だ。だが、外資系コンサルティングファームにおいて最年少でシニアマネージャーに上り詰めた私に、周囲に媚びを売る暇など一秒もなかった。


彼らは私の「上司」ではない。数千億円の売上を誇る、国内有数の老舗大手メーカーの取締役たち――つまり、我々が外部から委託を受けた『クライアント(顧客)』だ。

 外資系コンサルティングとは、自社で製品を作って売るわけではない。大企業が自力では解決できない経営課題に対し、第三者の専門家として入り込み、解決策ソリューションを提示して莫大な報酬を得るビジネスだ。


今回、我々のファーム(会社)は、この傾きかけたメーカーのトップから直接「事業再生」の特命を受けてアサインされた。

 サプライチェーンの無駄を洗い出し、重複する部署を統廃合し、徹底的な人員削減を行う。わずか三ヶ月という短期間のプロジェクトで、クライアントが我々に支払うコンサルティング・フィー(報酬)は、実に一億円を下らない。


だからこそ、現場の役員たちは私を激しく憎悪する。

 数千万円の報酬を受け取った外部の若造が、現場の苦労も歴史も知らずに土足で踏み込み、「ここは不採算だから切り捨てろ」「この部署は解体しろ」と冷酷なメスを入れてくるのだから当然だ。彼らにとって私は、忌むべき『外資の冷血な死神』でしかなかった。

 しかし、一億円の対価として「企業を存続させるための最適解」を叩き出すのが私の仕事だ。ファームの看板を背負い、プロジェクトの現場責任者マネージャーを務める私に、彼らの感情的な抵抗に寄り添うような甘さは許されない。


私は、常に完璧でなければならなかった。

 女だから。若いから。少しでも隙を見せれば、ハイエナのような同僚や、手柄を横取りしようとする上司たちに一瞬で食い殺される世界。

 私の武器は、誰よりも早く、正確に弾き出す計算能力と、一切の情を挟まない合理的な判断力だけ。


『藤堂さんはすごいね。でも、可愛げがないっていうか……ロボットみたい』


陰口など、日常茶飯事だった。

 誰も私を助けてはくれない。誰も私の責任を肩代わりしてはくれない。

 何十億円というプロジェクトの成否が、何百人という社員の生活が、すべて私の細い両肩に重く、重くのしかかっていた。


(……私が、やらなければ。私が、完璧に計算しなければ……)


深夜のオフィスで一人、エナジードリンクの空き缶の山に囲まれながら、血を吐くような思いでパソコンのキーを叩き続けた日々。

 胃がキリキリと痛み、慢性的な睡眠不足で視界が歪んでも、決して立ち止まることは許されなかった。

 私が弱音を吐けば、私が決断を間違えれば、すべてが終わる。

 【自己決定権】という名の、逃げ場のない絶対的な孤独。それが、前世での私の人生のすべてだった。


プロジェクトは成功した。クライアントの株価は持ち直し、不採算部門は計画通りに切り捨てられた。

 だが、私の周りから人はさらに消えていった。


「藤堂マネージャー、お疲れ様です。……あの、私、来月から別の部署へ異動願を出しました」


ある夜、右腕として育てていたはずの後輩が、目を伏せながらそう告げてきた時のことだ。


「そう。引き継ぎの資料は週末までにまとめておきなさい。次の部署でも論理的思考を忘れないように」

「……藤堂さんは、冷たいですね」


私がキーボードを叩く手を止めずに事務的に返すと、後輩は微かに声を震わせた。


「私たちがどれだけ必死についていこうとしても、あなたは一人で全部の答えを出してしまう。私たちの感情や事情なんて関係なく、ただ最適な『数字』だけを見て……私たちは、藤堂さんにとってただの計算式のパーツでしかないんですね」


パタン、とドアが閉まる音。

 誰もいなくなったオフィスで、私はふと、真っ黒なモニターに反射する自分の顔を見た。

 酷く疲れた、血の気のない能面のような女がそこにいた。


(パーツでしかない?)


パーツになれるなら、ただの駒になれるなら、どれほど楽だっただろうか。

 誰かの指示に唯々諾々と従い、自分の責任の範囲内だけで働き、失敗すれば上司や環境のせいにして居酒屋で愚痴をこぼす。そんな「普通の生き方」が、私にはどうしてもできなかっただけだ。


私が手を抜けば、プロジェクトに関わる何百人もの人間が路頭に迷う。私が計算を間違えれば、巨額の資金が消し飛ぶ。

 その恐怖が常に背中に張り付いているからこそ、私は誰よりも冷酷に、誰よりも正確に、自分自身という歯車を狂いなく回し続けるしかなかった。


「……誰かに、甘えたい……」


深夜の帰りのタクシーの中、冷たい窓ガラスに額を押し当てながら、ぽつりとこぼれ落ちたその言葉は、エンジンの音に掻き消されて誰の耳にも届かなかった。

 甘える相手など、どこにもいない。両親は早くに他界し、恋人を作る暇も、友人と弱音を吐き合う余裕もなかった。

 私にあるのは、「優秀なコンサルタント」という肩書きと、それに伴う殺人的な重圧だけ。


自分で選び、自分で決める。

 それは自立や自由の象徴などではない。私を永遠に歩き続けさせるための、最も重く、冷たく、残酷な鎖だった。


そして、その鎖が限界を迎えたのは、ある冬の朝だった。

 連日の徹夜がたたり、駅のホームで電車を待っていた時。ふいに、視界が真っ暗に明滅した。


(……あ、まずい。今日のプレゼン資料、まだ最終確認が……)


胸を鷲掴みにされるような激痛。呼吸ができない。

 崩れ落ちる視界の端で、人々が驚いてこちらを見るのが分かった。冷たいコンクリートの感触が頬に伝わる。


(ああ……誰か、助けて。もう、私に……決断させないで……)


誰かに全てを投げ出して、ただ庇護されたい。

 責任も、重圧も、プライドも、すべてを手放して、暗くて温かい誰かの支配ハコの中に閉じこもってしまいたい。

 優秀なキャリアウーマンとしての仮面の下に隠し続けてきた、どうしようもなく弱くて、惨めで、女としてのドロドロとした本音が、死の淵でようやく声を持った。


だが、手を差し伸べてくれる者は誰もいないまま、私の意識は孤独の中でぷつりと途切れた。

 過労で一人寂しく。それが、前世の私――藤堂とうどう つかさの、惨めな結末。


*****



「……っ、はぁっ、……ぁっ」


呼吸が、うまくできない。

 カチャカチャと、自分の指先から伝わる振動で、ソーサーに乗ったティーカップが下品な音を立てている。それを止めることすら、今の私にはできなかった。


「私、泣く理由なんてないのに……っ。あんな一般人、知らないのに……なんで、こんなに胸が……痛いの……っ」


隣で、アイリが顔をくしゃくしゃにして泣き崩れている。

 トップアイドルとして常に笑顔と完璧な姿を保ってきた彼女が、メイクが崩れるのも構わずに、ただの迷子のように泣きじゃくっているのだ。


それを「見苦しい」と切り捨てるべき私の【完璧な魔導演算】のスキルは、先ほどから完全にショートし、沈黙していた。


(あり得ませんわ……。これは、何かの精神攻撃? いいえ、周囲に魔法の残滓はない。ならば、なぜ……)


私は、自らの腕を強く抱きしめ、必死に論理の糸を手繰り寄せようとした。

 あのナオキという男は、私の記憶にない。私のデータベースに存在しないイレギュラーだ。

 私は前世の記憶を持ったまま転生し、この世界で己の知略だけを武器に成り上がった。誰の力も借りず、誰の庇護も受けず、自分自身の完璧な計算で、この圧倒的な富と安全な地位を築き上げたのだ。

 その事実に、一点の曇りもないはずだった。


『あなたたちが一点の曇りもなく、誰よりも美しく光り輝けたのは、ナオキさんが裏で、すべての「泥汚れ」を被ってくれていたからです』

『自分は常に陰に隠れて、一番タチの悪くて、一番しんどい役回りを引き受けてくれた』


トウヤの、あの静かで、悲痛な声が脳内でリフレインする。


(泥汚れを、被る……?)


その言葉が、私の魂の奥底、厳重に封印していたはずの「前世のトラウマ」の箱を、こじ開けるようにノックした。


前世の私――藤堂司は、いつだって泥を被る役回りだった。

 クライアントの無能な役員たちから憎悪の視線を浴びながら、冷酷なリストラ案を突きつける役。

 後輩たちの能力不足を補うため、深夜のオフィスで一人、血を吐くような思いでエクセルと睨み合い、完璧な数字を組み上げる役。

 誰の助けも得られず、すべての責任と重圧をたった一人で背負い込み、最後は過労で孤独に死んでいった。


自己決定権という名の、逃げ場のない絶対的な孤独。

 私はそれを知っている。それがどれほど魂を擦り減らし、どれほど人を狂わせる地獄か、誰よりも理解している。


しかしだからこそ、この世界では誰とも関わらず絶対に一人で完璧に生き抜くと決めたはずだった。

 もう誰にも頼らず、どんな重圧もすべて自分一人で抱え込む覚悟で。

 だというのに。


(……あの男が。あの、泣きじゃくっていた情けない男が……一緒に背負ってくれていたというの……?)


「あ……ぁ……っ」


脳が、理解を拒絶している。

 だが、私の「魂」が、トウヤの言葉を完全に肯定してしまっていた。


『……俺みたいな凡人が、大事な時間を取って悪かったな』


彼が去り際に残した、空虚な声。

 あの時の彼は、盤面を支配する絶対者ではなく、ただ「愛する女たちの世界を汚したくない」と絶望し、身を引いた一人の弱い男だった。

 私たちの高すぎるプライドと、残酷な拒絶の言葉が、彼の心を完全にへし折ってしまったのだ。


「……そんな……っ」


私は、ガタガタと震える手で、自分の首元を強く押さえた。

 何もない。そこには美しいネックレスがあるだけで、何かに縛られている物理的な感触はない。

 なのに、なぜだろう。

 私の首に、あの『絶対的な無責任の甘美さ』を与えてくれる、黒い革のチョーカーが巻き付いているような、生々しい幻覚(記憶)がフラッシュバックする。


『実質的には自由だ。勝手に生きて、勝手に成功してくれ』


彼の冷たくて、けれどひどく温かい声が、幻聴となって耳の奥を撫でる。

 あんなにも屈辱的で、あんなにも恐ろしかったはずの『誰かの所有物になる』という感覚。

 それが今、どうしようもなく……狂おしいほどに、欲しい。


「あぁ……っ、うぁ……ぁぁっ!」


ついに私は、ソファから滑り落ち、高級な絨毯の上に無様に這いつくばった。


前世で死ぬ間際に、駅のホームで感じたあの恐怖が蘇る。

 誰かにすべてを投げ出して、ただ庇護されたい。奴隷のように、責任も、重圧も、プライドも、すべてを手放して、暗くて温かい彼の絶対的な支配の中に閉じこもってしまいたい。

 そうだ。私は彼に奴隷にされ、ひとりの『女』としての喜びに目覚めたのではなかったか。彼の圧倒的なオーラと冷たい目に、誰よりも恋焦がれていたのではなかったか。

 私の内に秘めたその狂気が、情欲が、私を私たらしめていたのだ。それこそが前世では得られなかった、本当の私の喜びなのだと。



……いや、【それも違う】。



ただ責任から逃げたいだけなら、相手は誰でもよかったはずだ。でも、違う。

 本当は、わかっていた。


『私たちがどれだけ必死についていこうとしても、あなたは一人で全部の答えを出してしまう。私たちの感情や事情なんて関係なく、ただ最適な数字だけを見て……私たちは、藤堂さんにとってただの計算式のパーツでしかないんですね』


かつて前世でそう皮肉を吐いた後輩の言葉。

 例えそれが暴言であっても、いつも仕事漬けだった私を本気で心配し、声をかけ続けてくれていたのは彼女だった。


前世での私は、人の言葉の裏側など興味はなく、ただ字面通りに受け取って冷徹に処理するだけの機械だった。

 だからこそ、この新しい世界で私は、ほんの少し、ほんの少しでいいから……他人の言葉の裏に隠された『真意』に触れてみようと、不器用な一歩を踏み出したのだ。


そう。転生したばかりの私を救ってくれた彼は、冷たい言葉とは裏腹に、その行動のすべてに確かな『温もり』が宿っていた。

 出会ったばかりの私を思いやり、一人の人間として尊重し、自由を与えようとしてくれた。そして、私が庇護を欲すれば、何も言わずにすべてを背負い込んでくれた。

 それだけじゃない。私の大切なルカを命懸けで助け出したのも、打算など一切ない、彼の底なしの【やさしさ】だったではないか。


そんな無条件の愛を受けたのは、いつ以来だろう。

 思い返せば、幼い頃の遠い記憶……とうの昔に死別した、母と父の記憶まで遡らなければならない。

 だからこそ私は、その無条件の愛をルカにも与えようと思えたのだ。


感情のないロボットだった私が、この世界で血の通った一人の女として生まれ変われた。

 そのきっかけをくれたのは、間違いなく彼だった。


そうだ。すべて、彼だったのだ。

 私に、幼い頃の温かい感情を取り戻してくれたのは。


あんなにやさしい人が、私の中に、たしかにいたはずなのに。


そのやさしさに包まれて眠ることの温かさに、もう気づいていたはずなのに。


そのやさしさが、前世で嘲笑われた私の空虚な心を、あんなにも満たしてくれていたはずなのに。


どれだけ論理を巡らせても、完全な情景が頭に浮かんでこない。


彼に愛されたという確かな魂の熱があるのに、はっきりと思い出せないのが……悔しい。


「ツカサ、ちゃん……っ」


涙で顔をぐしゃぐしゃにしたアイリが、私にすがりつくように手を伸ばしてきた。

 彼女もまた、自分の足で立っているはずなのに、立っていられないのだ。自分の存在を支えていた『見えない重力』を失って、魂が宇宙空間に放り出されたようにパニックを起こしている。


「アイリ……私たち、取り返しのつかないことを……っ」


私は、アイリの震える手を強く握り返した。

 記憶は曖昧だ。彼とどんな言葉を交わし、どんな風に愛されたのか、論理的なデータは一つも残っていない。


それでも、魂にこびりついた『喪失感』だけが、私たちに真実を突きつけていた。

 私たちが今日、冷たい言葉で拒絶し、永遠に追い払ってしまったあの彼こそが。

 私たちが最も求めていた、たった一つの『帰る場所』だったのだと。


「……ご主人、様……っ……あなた……っ」


私は、前世からずっと張り付け続けてきた完璧なキャリアウーマンの仮面を粉々に砕き散らし、アイリと抱き合いながら、子供のように声を上げて泣き叫んだ。



*****



私たちが抱き合いながら、子供のように声を上げて泣き叫んでいた、その時だった。


(……え?)


急激に、胸を締め付けていた狂おしいほどの『喪失感』が、スーッと薄れていくのを感じた。

 あふれ出ていた涙が止まる。心臓の激しい鼓動と、息も絶え絶えだった呼吸が、嘘のように凪いでいく。


「ツカサちゃん……私、なんで……泣いてたんだっけ」


アイリが、焦点の合わない目でぽつりと呟く。

「さっきまであんなに苦しかったのに、なんか、だんだん……」


私も同じだった。先ほどまで喉から手が出るほど欲していたあの男への執着が、彼に対する深い愛情と激しい後悔が、指の隙間から砂がこぼれ落ちるように消えていく。


(世界の、強制力……耐性が足りない……システムに抗えない……!)


システムが、『彼がいない世界』のつじつまを合わせるために、イレギュラーである私たちの感情と記憶を、再び完全に消去しようと働き始めているのだ。


極限の精神的渇望があれば、新たなスキルを獲得したり、スキルを進化させて状況を打破できたかもしれない。だが、システムはその進化のトリガーとなる精神的渇望のための記憶すらも、世界の維持のために容赦なく、強制的に奪い去っていく。

 もしくは、トウヤやルカが持っている【叛逆の愚者】のような、システムそのものにさえ牙を剥く特異なスキルがあれば、この理不尽な強制力をレジストできた可能性もあった。


だが、今の私たちにはそのどちらもない。

 このままでは、私たちは本当に彼を完全に忘れ、ただの『完璧な英雄』としてこの世界でヘラヘラと笑って生きていくことになる。


(冗談じゃないわ……ッ!)


私は薄れゆく感情とアイデンティティに必死に抗いながら、唇から血が出るほど歯を食いしばって【完璧な魔導演算】をフル稼働させた。

 脳内に無数の数式と、パラレルワールドの構造図が展開される。


導き出された結論は、絶望的なものだった。


(本当にここが上書きされたパラレルワールドなら……仮に同じような強力なスキルを使ったとしても、二度と『私たちの記憶がある元の世界線』には戻れない……っ)


上書きされ、消去されたデータは、下位のシステム(物理世界)にはもう存在しないのだ。

 記憶を完全に取り戻す方法は、ただ一つ。

 この世界を管理している大元のルートサーバー――神のいる『白い部屋』へ、魂のデータごと直接転移ハッキングするしかない。


だが、演算結果はさらに非情な事実を突きつける。


(私たちの魔力では……白い部屋へ『行く』ことはできても、こちらへ『帰ってくる』だけのエネルギーが足りない)


つまり、それは一方通行の旅。

 今の地位も富も名誉も、そして肉体すらも捨てて、永遠にあの真っ白な空間を漂い続けることになるかもしれないという、最悪のギャンブル。


「アイリ」


私は、焦点がぼやけ、虚無に落ちようとしているアイリの両肩を強く掴んだ。


「このままここにいれば、私たちは完全にこの大切な想いを忘れます。二度と彼を愛せなくなる。……完全に記憶がない状態で、また彼を、修復不可能なほど残酷に傷つけてしまう」


その言葉に。

 アイリの瞳にわずかに残っていた『光』が、激しく揺れた。


「……そんなの、絶対に嫌」


アイリは、自らの頬を両手でパァンッと強く叩き、システムの強制力に呑まれかけていた意識を無理やり覚醒させた。


「この気持ちを忘れて笑ってるくらいなら、他のものは全部あげるよ! ツカサちゃん、どうすればいいの!?」

「……神のいる『白い部屋』へ飛びます。ですが、二度とこちらへは戻ってこられませんわよ」

「上等じゃない。……彼の代わりに神の顔面でも殴ってやるわよ。それに、彼なら絶対に、私たちを見つけに来てくれる。そんな気がするから」


アイリが、私に向かって手を差し出した。

 完全に感情が消え去るまで、残り数十秒。


「ええ……私たちのご主人様は、最高に優しくて、最高にタチの悪いお方ですから。必ず、迎えに来てくださるはずですわ」


私はその手を強く握り返し、二人の全身の全魔力で、空間に『神の部屋』へ至る転移の魔力陣を展開した。


その瞬間。

 私たちの脳内を直接殴りつけるような、鼓膜を劈く爆音と、視界を赤く染め上げる強烈なエラーメッセージが乱舞した。


『『『【【【 ⚠ FATAL ERROR・CRITICAL WARNING ⚠ 】】】』』』


『『『《《《 ――特級警告。対象個体【アイリ】【ツカサ】による《神域》への致命的干渉を検知―― 》》》』』』


『『『直チニ停止セヨ。直チニ停止セヨ。コレハ世界のシステムニ対スル重大ナ反逆行為デス。干渉ヲ続行スル場合、両名ノデータヲ永久ニ完全抹消デリートシマス――ッ!!!』』』


今まで聞いたことのある無機質なシステムアナウンスとは違う。凶悪で、絶対的な『殺意』を孕んているかのような声。

 だが、私たちはその脅しを嘲笑うかのように、強く手を握り合い、目を閉じた。


再び愛する人を傷つける前に。

 彼への愛を、世界に奪い去られてしまう前に。


「……待ってるからね、ナオキ」

「ええ。ごめんなさい、あなた」


直後、強烈な光がすべてを呑み込む。

 私たちは自らの意志で、光り輝くすべてを捨てて、神の領域へと跳躍した。

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