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転生者救済編 第五話

生臭い泥と、腐った果実の匂い。

 冷たい石畳の上で、ナオキはゆっくりと重い瞼を開けた。


「…………痛ぇな、くそ」


体を起こし、乱れた前髪をかき上げる。

 周囲を見渡せば、そこは見知らぬ街の、薄暗く汚い路地裏だった。遠くからは活気のある商人の怒声や、荷馬車の行き交う音が聞こえてくる。ガルデニアの重苦しい軍事都市とは違う。どこか別の、商業が盛んな国にでも飛ばされたらしい。


ナオキは壁に寄りかかり、頭の中にあったはずの、あの騒がしくて温かい【感覚共有ライン】のパスが、根こそぎ断ち切られているのを確認した。


「はっ……あの白服の野郎のスキル、俺の『存在』を世界から引き抜くのなら、死ぬのかと思ったが、そういうわけじゃねえのか」


怒りや絶望はない――と、頭の片隅で冷徹な理性が強がった。

その理性が、あのスキルのアナウンスを脳内で反復する。


ギリッと噛み締めた唇から血が滴る。

 今まで理不尽なシステムを欺き、盤面を支配してきた代償がこれか。たった一人、見知らぬ路地裏に放り出され、すべてを奪われるのが、最弱の凡人に与えられた罰だというのか。


震える両手で自身の胸を掻きむしる。息がうまく吸えない。

 今までどんな窮地でも失わなかった余裕が、音を立てて崩れていく。圧倒的な孤独と喪失感が、ナオキの精神を黒い泥のように飲み込んでいく。


「……だめだ、落ち着け……っ……まだどうとでもなる……」


ナオキは血の混じった唾を吐き捨て、泥水に塗れた顔を上げた。

 視界が、ひどくぼやけている。いや、涙のせいだけではない。かつてシステムから与えられ、空を飛ぶ蠅の羽ばたきすら捉えられた『強化された動体視力』が、完全に失われているのだ。

 遠くに見える商業都市の尖塔も、路地裏を行き交う人々の顔も、ただのノイズのように霞んで見える。これが、俺の本来の目。現代日本の、ディスプレイを見続けて近視気味になっていた、ただの『凡人の視力』。


(くそっ……これじゃあ、高いところに登ってあいつらを探し出すことすらできねぇ……)


スキルという名のシステム補助が根こそぎ剥がれ落ちたという絶対的な現実が、ナオキの生身の肉体に重くのしかかる。

 そして――それ以上に深刻な『欠落』が、内側からナオキの脳髄を破壊し始めていた。


「あ……がっ、あぁぁぁぁッ!!」


頭蓋骨を内側から万力で締め上げられるような激痛が走り、ナオキは石畳の上に転げ回った。

 息ができない。心臓が早鐘のように打ち鳴り、全身から脂汗が噴き出す。

 アイリの強いエゴ、ツカサの変態的な思考、セリアの狂おしいまでの熱。それらを常時繋ぎ止め、莫大な魔力と感情の奔流をコントロールしていた【感覚共有ライン】が、完全に断ち切られているということは――

 その急激な遮断による『魔薬』の本来の症状が顔を出す。


今まで妻たちや仲間と分散させていた狂気の負荷が、ナオキというただ一人の、何の耐性もない脆弱な脳髄にダイレクトに襲いかかっている。気を抜けば、たった数秒で自我が弾け飛び、涎を垂らして笑うだけの肉塊になり果ててしまうほどのすさまじい煩悩。


「はぁっ、はぁっ……! ぐるッ……ぅえぇぇっ!」


胃袋が痙攣し、ナオキは四つん這いになって黄色い胃液を撒き散らした。

 意識が混濁する中、ナオキの脳裏に、ここに落ちる直前の、無機質なシステムアナウンスが残酷にリフレインする。


『対象【アイリ】【ツカサ】【セリア】……ユニークスキルが自動干渉。完全無効化レジストしました』

『対象【ルカ】【トウヤ】……ユニークスキルが自動干渉。完全無効化レジストしました』

『対象【ナオキ】。システムレジスト、該当なし』


「あ……ぁ……」


痛みに歪んでいたナオキの顔から、スッと表情が抜け落ちた。

 あいつらは、弾いたんだ。神の理不尽なシステムも、チート使いの絶対的な攻撃も、あいつら自身の規格外の力で、見事に跳ね除けたのだ。

 耐えられなかったのは、何の取り柄もない凡人の『俺だけ』だった。


その事実が導き出す、残酷すぎる論理的帰結ロジックが、真実の結論を導く。


(俺だけがスキルを受け、世界が修復された……。じゃあ、今のあいつらは無事ってことか……?)


アイリの圧倒的なカリスマと回復力。ツカサの完璧な知略と魔導演算。セリアの影のサバイバル術。ルカの無敵の勇者としての力。そして、トウヤの真実を見抜く魔眼。

 あいつらは、今やシステムが自動補正しただろうパラレルワールド歴史の中でも、一緒にいるのだろうか。一緒にさえいてくれれば、一切の隙がない、光り輝く『完璧な五人の英雄パーティ』として完成して、生き残ってくれているはずだ。


(……なら、俺が生き残れば、問題ないのか)


「…………っ」


――ピチャッ。


不意に、ナオキの指先に、一滴の水滴が浮かび上がった。

 毎日毎日、狂ったように反復し、肉体と魂そのものに『癖』として刻み込んだ【生活魔法】の回路だけが、主の絶望を他所に、勝手に魔力を練り上げていた。


「…………」


その小さな水滴の冷たさが、ナオキの魔薬の熱を、少しだけ冷ました。


この力と悪知恵があれば、生き抜くこと自体は難しくない。



*****



一方その頃。ガルデニアを脱出した五人のパーティは、国境を越える魔導車の中にいた。


「……つまり、トウヤの目で見た結果、二人の感覚共有リンクには、『ナオキ』という男の記録がバグのログとして残っている、というわけですわね?」


ツカサが、テーブルの上に組んだ手に顎を乗せ、ひどく懐疑的な冷たい視線をトウヤに向けていた。


「はい。でも、俺とルカのリンクは完全に独立した特別製で他は弾いてしまうので……ツカサさんの感覚共有リンクに接続して、このログの映像を直接アップロードすることができないんです」


「残念ですね。直接見られれば話は早いのですが。……トウヤ、あなたの【魔眼】が、先の戦闘の負荷で一時的なエラーを起こしている可能性は?」


「ツカサさんの言うことも分かるっす。アタシもトウヤから情報をもらうまで、そんな人のこと微塵も知らなかったっすから」


ルカがトウヤの肩を庇うようにして、真剣な表情で言った。


「でも、アタシの心……魂の奥が、そのログを見た瞬間に『行かなきゃダメだ』って叫んでるっす。感情はないのに、絶対に見過ごしちゃいけないって。トウヤの目は、絶対に嘘をつかないっす!」


二人の必死な訴えに、ツカサは小さくため息をついた。

 隣でクッキーを齧っていたアイリが、「んー」と首を傾げる。


「まぁ、トウヤ君とルカちゃんがそこまで言うなら、別に会いに行ってみてもいいんじゃない? 次のライブの視察も兼ねてさ。その『ナオキ』って人、もしかしたら私の熱狂的な隠れファンかもしれないし!★」

「アイリがそういうなら、反対はしませんわ。チート転生者の罠だった場合は、私が容赦なく処分しますが」


ツカサが眼鏡をクイッと押し上げる。彼女たちはナオキへの愛情を忘れているため、完全に「警戒すべき見知らぬ男」として扱っていた。


「……セリア。あなたはどう思いますの?」


ツカサが、部屋の隅で静かに控えていたメイドの少女に水を向ける。

 セリアは、トウヤたちから『ナオキ』という名前を聞いてからずっと、どこか上の空だった。


「えっ? あ、はい。……トウヤ様たちがそこまで仰るなら、護衛として同行するのみです。……ただ」

「ただ?」


セリアは、自らの滑らかな白い首筋――かつて、絶対的なご主人様に『隷属のチョーカー』を外され、そして狂気的な快楽と共に所有印を刻み込まれたその場所を、無意識に指先で掻き毟っていた。


「……その、『ナオキ』という名前を聞いてから……首のあたりが、ひどく痒くて……。それに、なぜか下腹部の奥が、理由もなくジンジンと熱を持って……体調不良でしょうか……」

「セリアちゃん、顔赤いよ? 熱があるんじゃない?」


「それに……どうしてこの私があなたたちのような普通の人たちと旅をしているのか、理解ができなくて……」


「え?なに?セリアちゃん?」


アイリが心配そうに覗き込むが、セリアは「あ、いえ、大丈夫です」と力なく笑った。

 記憶は完全に消去され、感情もリセットされている。しかし、彼女が自らシステムを捻じ伏せてまで魂に刻み込んだ【狂信的愛執】のバグだけが、存在しないはずの名前に、身体の奥底で淫靡な反応を示していたのだ。


「……とにかく、急ぎましょう。魔眼が示した座標は、この先の『商業国家ゼファー』の歓楽街です」


トウヤが、窓の外に広がる景色を睨みつける。


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