転生者救済編 第一話
「――さて、俺たちのささやかなハネムーン休暇は、もう終了ってことか」
帝都を一望できる拠点の執務室。
ナオキは深くため息をつきながら、空中に展開された半透明のホログラムモニターを見上げた。
「残念ながら、そのようですわね。元貴族どもの隠しサーバーから引きずり出したシステムログの解析が終わったのですが……かなり厄介な事実が判明しましたわ」
ツカサがキーボードを叩く指を止め、眼鏡の奥の瞳を鋭く細める。
画面に映し出されているのは、この世界の魔力脈の変動と、神が管理しているであろう「システム」の周期データだった。
「神という名の悪辣な運営は、一定の周期でこの世界に『地球人』――つまり新しい転生者を投下してリソースを補給している。データが正しければ、次なる『転生者の波』が来るのは、そう遠い未来じゃありません」
「また、あの真っ白な空間で……何も知らない人たちが、あの『0p(地雷)』を掴まされるってこと!?」
アイリがバンッ、と机を叩いて声を荒らげる。
五感を奪われるという最悪の仕様詐欺に代表される、数々の悪意。もし俺たちが一人きりだったら、とうの昔に狂い死んでいたであろう、理不尽極まりない選択画面。即死に、奴隷に、言語がわからなかったりと、何でもありなのだ。
「ああ。絶対に防がなきゃならねぇ。次に神が『真っ白な空間』を開くよりも前に、ツカサのハッキングでシステムに裏口を作る。それを利用して俺があの白い空間に直接干渉し、悪意あるデフォルト設定を全部弾き落とす」
ナオキが不敵に笑うと、背後に控えていたセリアが「さすがはナオキ様です」と熱を帯びた瞳で頷いた。
「だが、問題はそれだけじゃないんだろ? ツカサ」
「ええ。実はもう一つ、見過ごせないデータがありました」
ツカサが画面を切り替えると、世界地図の上に、いくつかの赤い点が点滅し始めた。それは帝都から遠く離れた、隣国や辺境の地を指している。
「……なるほど。俺たちと同じタイミングで落とされた『同期』の連中が、隣国でクソみたいな扱いを受けてるってわけか」
ナオキは忌々しげに、空中に展開されたホログラムの地図を睨みつけた。
地図上には、隣国や辺境の地を示すいくつかの赤い点が点滅している。
「……ナオキさん。俺とルカで、その人たちを助けに行きます。俺たちの【真実の魔眼】と【叛逆の愚者】があれば、どんな理不尽な状況でも絶対にぶっ壊せますから」
トウヤが一歩前に出て、力強く宣言した。その隣で、ルカも「任せてほしいっす!」と元気に胸を張る。
かつて無力だった少年少女の頼もしい姿に、ナオキはふっと口角を上げた。
「頼もしいこって。だが、今回はお前らだけに任せるわけにはいかねぇ。神のシステムに裏口を仕掛けるにも、デフォルト設定の転生場所にされやすい現場の魔力脈に近い方が可能性が高まるからな」
ナオキの言葉に、トウヤが目を丸くする。
「それじゃあ……!」
「ああ。俺、アイリ、ツカサ、セリア……そしてルカとトウヤの二人の、合計六人で隣国へカチコミをかける。最強の布陣で、異世界転生者たちを拾いに行きつつ、神の次なる波を迎撃するぞ」
ナオキの決定に、部屋の空気が一気に熱を帯びた。
しかし、そこで静かに手を挙げた者がいた。トウヤの双子の姉、ミヤビだ。
「ナオキさん。全員が一緒に向かうのは頼もしいけれど……誰がこの復興中の帝都をまとめるの? 元貴族を掃除したばかりで、まだみんなも流通も完全に安定しているわけじゃないわ」
「分かってる。だからミヤビ、お前には帝都の【裏の】最高責任者を任せたい。お前の冷静な判断力と事務処理能力なら、俺たちがいなくてもこの街を回せるはずだ。もちろん、常に連絡は取り合おう」
「……ふふっ。本当に人使いが荒いタチの悪い恩人ね。ええ、任せてちょうだい。可愛い弟の帰る場所くらい、完璧に守っておくわ」
ミヤビが妖艶に微笑み、トウヤの頭を撫でる。
だが、そこでアイリが「あっ!」と大きな声を上げた。
「ナオキ、一つ重大な問題があるよ! 私とルカちゃんがいなくなったら、帝都の『宣伝担当』がいなくなっちゃう!」
「宣伝担当?」
「そう! トップアイドルの私と、光の勇者のルカちゃん! この二人が急に魔導放送から消えたら、帝都の皆が不安になっちゃうよ! 復興には、明るいシンボルが必要不可欠なんだから!」
確かにそれは大問題なのだ。せっかく安定してきた帝都で、アイリとルカという復興のシンボルが二人ともいなくなるのはかなりまずい。
ナオキが顎を撫でて思案していると、アイリとツカサが顔を見合わせ、そして――同時に、ミヤビの後ろに控えていた小柄な少女へと、ニヤリと悪戯っぽい視線を向けた。
「えっ……? あ、あの、アイリ様? ツカサ様……? ど、どうしてわたしの方を……?」
白銀の髪を揺らし、セリアの妹であるニーナがオロオロと後ずさる。
「決まりですわね。ニーナ、あなたは今日からアイリに代わり、この帝都を照らす新たな『光』になりなさい」
「ツカサちゃんの言う通り! ニーナちゃん、明日から私がみっちり特訓してあげる! 帝都の新たなトップアイドルとして、華々しくデビューしてもらうからね!」
「あ、あ、アイドル!? わ、わたしがですかぁ!?」
顔を真っ赤にしてパニックに陥るニーナ。
しかし、隣に立つ姉のセリアは、完璧なメイドの所作で深く、美しくお辞儀をした。
「素晴らしい名誉です、ニーナ。ナオキ様の留守を守り、民衆を導く偶像となる……この姉も鼻が高いです」
「お姉ちゃんまで!? 無理無理無理、わたしなんてただのメイドの妹で――ひゃあっ!?」
逃げ出そうとしたニーナを、ルカが背後からガシッと抱きしめる。
「大丈夫っすよニーナ! ニーナの可愛さは私が保証するっす! きっと世界中のみんながメロメロっすよ!」
「ル、ルカ様ぁ〜っ……!」
涙目で助けを求めるニーナに、ナオキは苦笑しながら肩をすくめた。
「そういうわけだ、ニーナ。俺たちが戻るまで、お前の笑顔でこの街を平和に保っててくれ。頼んだぞ」
「ナ、ナオキ様まで……っ!味方がいない…… うぅ……たすけてぇ、ミヤビさまぁ……!」
かくして、六人の最強パーティによる規格外の『救出の旅』と。
留守を預かる元奴隷の少女の、ドタバタな『アイドルデビュー』への道が、同時に幕を開けたのだった。
*****
「やっぱりむり!!!絶対に、ぜぇーったいにむりですぅぅっ!!」
拠点の執務室に、ニーナの悲痛な叫び声が響き渡った。
先ほどの「味方がいない」絶望から一転、彼女は部屋の太い柱にガシッと抱きつき、ポロポロと涙をこぼしながら猛抗議を始めたのである。
「わたし一人で帝都のシンボルだなんて、ぜえええええったいむりです! もし、もしどうしてもって言うなら……っ、せ、セリアお姉ちゃんや、ミヤビ様、ルカ様、ツカサ様も一緒にデビューしてくれるならやりますぅ!!」
それは半ば自暴自棄から出た、決死の『道連れ宣言』だった。
まさかの反撃に、巻き込まれた三人はきょとんと目を丸くする。
「なっ……!? お、お待ちくださいニーナ! メイドたるもの、人前で歌って踊るなどというはしたない真似――」
「私は裏方のアイドルプロデューサーとしてサポートをいたしますので無理です」
「うーん、私もっすか!? 難しそうっすけど……でも、ちょっと楽しそうかも!」
「……なるほど。それは一理ありますわね」
慌てるセリアと目を輝かせるルカの横で、ツカサが顎に手を当てて、極めて真面目な顔で頷いた。
「えっ!? ツカサ様!?」
「アイリ様やルカが帝都を離れるという事実は、隠しようがありません。そしてそれを突然やることは、人々の感情に大きな穴をあけてしまいます。そのため、私たちが『期間限定のアイドルユニット』としてド派手に表舞台に立ち、次世代のニーナへとそのバトンを繋ぐクッションとなることで、人々の感情を安定させる」
情報統制のプロフェッショナルとしての、完璧な大義名分。
その言葉を聞いたアイリのアイドル魂に、ボワッと熱い火がついた。
「それ、最高じゃん!! ちょうど私の『休業宣言』をどう発表するか迷ってたんだよね! 私が少しの間お休みに入る代わりに、私の愛した仲間たちが期間限定ユニットを組んで、次の世代にバトンを託す!……くぅーっ、エモい! 絶対に大バズり間違いなしだよ!!」
「い、いやアイリ様、私はメイドとしての矜持が――」
「セリアちゃん。フリフリの衣装で踊るセリアちゃんを見たら、ナオキ、絶対『可愛いな』って言ってくれるよ?」
「……ナオキ様のために、命を懸けて最高のステップを踏んでみせます」
「お姉ちゃんなんでえええええ!?チョロいぃぃっ!?」
かくして、ニーナのヤケクソな拒絶は、大人たちの悪ノリと打算によって最速で丸め込まれてしまった。
数日後。帝都の中央広場に特設された、超大型の魔導放送ステージ。
集まった数万の群衆と、魔導通信を通じた世界中の視聴者を前に、トップアイドルであるアイリがマイクを握っていた。
『――みんな、今日は集まってくれて本当にありがとう! 実はね、前の放送でもう知ってると思うけど、改めて、私から大事なお知らせがあるの。私、アイリは来月から……アイドル活動をお休みします!』
広場が「ええええええっ!?」という悲鳴と絶望に包まれる。
しかし、アイリは満面の笑みで背後の幕を指差した。
『でも、悲しまないで! 来月の休業までの期間限定で、帝都を明るく照らしてくれる光の勇者と、私の最高の仲間たちが、私のアイドル魂を受け継ぐ女の子をサポートするために期間限定のスペシャルユニットを組んでくれました! 出番だよ、みんな!!』
ド派手な光と爆音の魔法特効と共に、ステージの床から四人の少女たちがゆっくりとせり上がってくる。
一瞬の静寂の後、地鳴りのような大歓声が広場を揺らした。
『みんなーっ! いつも応援ありがとーっす! 剣をマイクに持ち替えて、今日はみんなの心を一刀両断! 光の勇者、ルカっす!!』
スポーティなチア風の衣装で、元気いっぱいに飛び跳ねて手を振るルカ。
その健康的で眩しい笑顔に、観客の野太い「おおおおっ!」という雄叫びが重なる。
『ふふっ。皆さんの声援、しっかり計算しておりますわ。冷徹なシステムも、今日だけはあなたたちの熱気でオーバーヒート寸前……。知と美の女神、ツカサです』
知的なタイトスカートのアイドル衣装。眼鏡の奥でクールにウインクを決めたツカサが、唇に指を当てる。
途端に、客席の一部から『ツカサ様ぁぁ! アイドルデビューおめでとうございますぅ!!踏んでくだぁぁい!』という業の深い悲鳴が上がった。
『ご主人様に捧げる命のステップ、皆様にも少しだけお見せいたしましょう。ご主人様への愛と忠誠は、誰よりも深く、激しく。完璧なメイドアイドル、セリアです』
メイド服を大胆にアレンジしたフリルのドレスを翻し、優雅にカーテシー(お辞儀)をするセリア。
その洗練された所作と隠しきれない色気に、観客たちは息を呑み、そして割れんばかりの拍手を送る。
そして――。
圧倒的なオーラを放つ猛者に挟まれ、センターに立つ小柄な少女。
顔を真っ赤にしてガチガチに緊張しながら、必死にフリフリの衣装の裾を握りしめているニーナへと、全員の視線が集中した。
『わ、わたしっ……精一杯、がんばりましゅっ! ああっ、また噛んじゃったぁ……っ!』
初手からの豪快な噛み倒し。
頭を抱えてしゃがみ込みそうになるニーナの背中を、三人が優しく、そして力強くポンッと押した。
『さあ、ニーナ。あなたが主役ですわ』
『しっかりするっすよ! みんな、ニーナのこと待ってるっす!』
仲間たちに励まされ、ニーナは涙目のまま、震える両手でマイクを握り直す。
そして、帝都の何万人という大衆に向けて、これまでにないほど大きな声で叫んだ。
『わ、わたしは……! 来月、ルカ様やツカサ様、セリアお姉ちゃんたちが……アイリ様と一緒に少し遠いところへ行くことになって、一人になっちゃうけど……っ!』
その言葉に、群衆がハッと静まり返る。
アイリだけではなく、この美しき英雄たちも帝都を離れるという事実。大きな喪失の予感。
『でも……! わたしが、絶対に一人で、アイリ様の代わりに……帝都のみんなに笑顔を届けましゅっ!! だから……わたし、ニーナの応援を、よろしくお願いしますっ!!』
最後もやっぱり噛んでしまった。
しかし、不器用ながらも必死に大役を引き継ごうとする少女の健気な姿に、広場は温かい空気に包まれる――かに思えた。
『……ふざけんな!!』
静まり返った広場を切り裂くように、最前列から野太い怒号が飛んだ。
それを皮切りに、アイリの熱狂的なファンたちから、容赦のない罵声が次々と浴びせられる。
『素人がアイリちゃんの代わりになるわけねえだろ!』
『こっちはアイリちゃんの圧倒的な歌と、ルカ様の勇姿を見に来てんだよ!』
『小娘が、帝都のシンボルを名乗るな! 引っ込め!!』
彼らにとって、アイリは「本物のアイドル」なのだ。そしてルカは本物の英雄。その二人がいなくなる穴を、震えて言葉もまともに紡げない素人の少女で埋められるはずがない。
群衆の熱気は一転して、冷酷な拒絶の刃となってニーナに突き刺さった。
「ちょっと、あいつら……! 私の可愛いニーナになんて口の利き方してるのよ! 全員この広場から叩き出しなさい!!」
ステージ袖。プロデューサーとして腕章をつけたミヤビが、あまりの怒りに青筋を立てて警備の騎士たちに命令を下そうとする。だが、それを慌ててナオキとアイリが首を振り手で制した。
「あっ……うぅ……っ」
数万の人間から向けられる、明確な敵意と失望。
ニーナの顔から血の気が引き、マイクを持つ手がガタガタと震え出す。怖い。逃げたい。足がすくんで、息ができない。
――その時だった。
極限の恐怖とプレッシャーの中、ニーナの脳裏に、突如として『はるか昔の記憶』が鮮烈な色彩を伴ってフラッシュバックした。
埃っぽい公民館の匂い。ワックスがけされた廊下。安っぽいプラスチックの優勝盾。
そうだ。思い出した。わたしは前の世界(地球)でも、ずっとこうだった。
前世のわたしは、歌うことが大好きな、ごく普通の女の子だった。
部屋で一人、流行りの曲を真似て歌うのが一番の幸せで。ある日、ほんの少しだけ勇気を出して出場した、地元の小さなのど自慢コンテスト。そこで運良く『優勝』してしまったのだ。
審査員の大人の人たちに褒められ、キラキラ光る盾をもらった帰り道。胸が張り裂けそうなほど嬉しかった。わたしにも、特別な才能があるのかもしれない。スポットライトを浴びて、大勢の人を笑顔にする歌手になれるのかもしれない。
そんな無邪気な万能感に背中を押され、翌日、わたしは学校で一番仲の良かったグループの友達に、興奮気味にそのことを自慢してしまった。
『ねえ聞いて! わたし、コンテストで優勝したの!』
今思えば、本当に愚かで、空気が読めない子供だった。
そして迎えた、年に一度の学芸会の配役決め。演目は、歌と踊りがメインの劇。わたしは誰よりも早く、そして力強く、主役である『歌姫』の役に手を挙げた。
『わたし、主役をやりたいです!』
張り切ったわたしの声が、教室に響き渡る。
だが、返ってきたのは賞賛でも応援でもなかった。教室を支配したのは、ひきつったような冷たい沈黙と、やがて波紋のように広がる嘲笑の渦だった。
『……は? あんたが主役やりたい? 笑わせないでよ』
『しょぼい地域の大会で優勝したからって、調子乗ってんじゃないの?』
『だいたい、いつも隅っこでモゴモゴしてるくせに、主役とかウケるんだけど』
『つーか、どんくさいし取り柄もないじゃん。マジでないわー』
クスクス、ゲラゲラ。
突き刺さる無数の視線。何よりも絶望だったのは、『すごいね』と笑ってくれていたはずの友達が、周囲の空気に同調して、一緒にわたしを指差して笑っていたことだ。
足元が崩れ落ちるような感覚。顔から火が出るほどの羞恥心。
スポットライトなんて、特別な才能なんて、最初からわたしには無かったのだ。ただの勘違い。分不相応な夢を見た罰。
『……ご、ごめんなさい。やっぱり、なんでもないです……』
わたしは逃げた。
挙げた手を震えながら下ろし、教室を飛び出して、トイレの個室で声を殺して泣いた。
それ以来、わたしは二度と歌わなくなった。
目立たないように。誰かの気に障らないように。嘲笑われないように。息を潜めて、教室の隅で『背景』として生きることを選んだ。
夢を見ることも、何かに挑戦することも放棄し、ただ流されるままに生きて――そして、スマホを見つめながら下を向いて歩いていたある日――。
ああ、転生してからも同じだ。
奴隷の身分に落とされたことを言い訳にして、ずっと下を向いて生きてきた。
ナオキ様たちに救い出され、自由を手に入れてからも。何でも完璧にこなすセリアお姉ちゃんの背中に守られ、今も圧倒的な光を放つアイリ様の後ろに隠れ、ずっと誰かの庇護下で、安全な場所から見ているだけだった。
『わたしなんて』
『わたしには無理です』
前世でも今世でも、わたしはいつも逃げてばかりだ。
傷つくのが怖くて、笑われるのが怖くて、挑戦する前に自分から降りてしまう。臆病で、空っぽで、どうしようもない弱虫。
今、目の前でわたしに罵声を浴びせている数万の群衆は、あの日の教室の同級生たちと同じだ。
ここでマイクを放り出して、ステージの裏に逃げ込めば、きっとなんとかなる。セリアお姉ちゃんが庇ってくれる。ナオキ様がなんとかしてくれる。
そうやって、また一生、誰かの後ろで下を向いて生きていくのか?
「ニーナ」
不意に、震える背中を温かい手が包み込んだ。
振り返ると、完璧なメイドの微笑みを浮かべたセリアがいた。隣では、ルカが力強く頷き、ツカサが静かに見守っている。
そして、舞台袖からは、トップアイドルであるアイリが真っ直ぐにニーナを指差していた。
『アイドルはね、完璧じゃなくていいの。一生懸命にもがく姿が、誰かの勇気になるんだから! ――見せつけてやりなさい、ニーナちゃんの本当の輝きを!』
(……逃げない)
ニーナは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
前世の臆病な自分は、もう死んだ。今のわたしには、大好きな姉がいる。信じて背中を押してくれる仲間がいる。
なら、ここで泣いて逃げ出すような自分は、もう今日で終わりにしよう。
「……っ、ミュージック、スタートですっ!!」
涙を乱暴に拭い、天に向かって叫んだその瞬間。
ニーナの背後にある巨大な魔導具から、静かで、しかし重厚なピアノの単音が一つだけ、ポーンと広場に響いた。
それを合図に、怒号と罵声が吹き荒れていた空間に、信じられないほどの音圧を持った『少女の叫び』が叩きつけられた。
『――光れえええええええええええっ!!!』
それは、歌というよりも、魂の底から絞り出した咆哮だった。
伴奏もない。リズムもない。ただ己の存在を世界に叩きつけるような、血を吐くような絶唱。
魔導具の増幅を差し引いても、その小柄な体のどこにそんな肺活量が隠されていたのかと疑うほどの、圧倒的なロングトーン。空気を震わせ、石畳を揺らし、数万の群衆の鼓膜と心臓を直接鷲掴みにするような、強烈な一撃。
『――っ!?』
『なっ……!?』
今までニーナに唾を吐きかけ、「引っ込め」と罵声を浴びせていた観客たちの肩が、文字通りビクッと大きく跳ねた。
広場を支配していた怒号が、嘘のようにピタリと止む。
全員が、呼吸を忘れ、信じられないものを見るような目で、ステージの中央に立つ白銀の髪の少女を凝視した。
静まり返った広場。完全に大衆を「黙らせた」その一瞬の空白に滑り込むように、今度は重厚で壮大なオーケストラ調のイントロが、爆音で鳴り響き始めた。
イントロに乗せて、ニーナはマイクを両手でぎゅっと握りしめ、歌い出す。
最初は、震えるか細い声だった。
『ずっと、暗い箱の隅で、膝を抱えていたの……』
前世の記憶。嘲笑され、夢を諦め、逃げ出した教室の隅。
『光が怖くて、影に隠れて、誰かの背中だけを見て歩いていた……』
今世の記憶。奴隷として虐げられ、助けられてからも姉のセリアや、アイリの背中に隠れてばかりいた臆病な自分。
歌詞の一つ一つが、彼女自身の痛ましい過去と完全にリンクしていく。歌声は、技術的には素人のそれだ。アイリのような洗練されたビブラートもなければ、ピッチだって少し不安定だ。
けれど、その「不器用さ」こそが、痛いほどのリアルさを持って観客の胸を抉っていく。
『でも、見つけたの! わたしを呼ぶ声を! わたしを引っ張り上げてくれた、温かい手を!』
曲がBメロに入り、徐々にテンポと熱量が上がっていく。
ニーナの目が滲みだす。それでも彼女は、絶対に泣かなかった。前世のように逃げ出さなかった。
セリアやミヤビがくれた愛情。ナオキがくれた自由。アイリがくれた勇気。ルカやツカサ、トウヤたちと過ごした日々。そのすべてが、今のニーナの背中を強烈に押し上げている。
『だからわたしは、もう二度と逃げない! 誰かの代わりじゃなく、わたしの足で、この場所に立つっ!!』
そして、曲は爆発的なサビへと突入する。
溜め込んでいた感情のマグマが、一気に噴出するようなサビの第一声。
『輝いて! 泥だらけのまま、不格好なまま、命を燃やしてえええっ!!』
広場中に、ビリビリと空気を震わせるニーナの高音が突き刺さる。
白銀の髪を振り乱し、顔を涙と汗でくしゃくしゃにしながら、全身の筋肉を震わせて叫ぶように歌う姿。
それは、アイリのような「完成された美しい偶像」とは対極にある。
だが、傷つき、一度は完全に心が折れた少女が、己の弱さを曝け出しながらも、必死に前を向いて「変わろう」ともがくその姿は――あまりにも、ひどく美しかった。
彼女の剥き出しの感情に呼応するように、周囲の魔力脈が勝手に反応を始める。
演出魔法を使ったわけではない。ニーナの歌に、プロデューサー陣は特別な演出は不要だと思っていたからだ。ただ、ニーナから放たれる圧倒的な『熱』が、空気中の魔力を共鳴させ、彼女の周囲にキラキラとした光の粒子を発生させていた。
『なんだ……この、歌……』
『すげぇ……あの小さな体の、どこからこんな声が……っ』
最前列で最悪の罵声を浴びせていた男が、呆然と呟き、やがてその目からポロリと涙をこぼした。
誰もが、ステージ上の小さな少女から目を離せなくなっていた。
魂を削るようなパフォーマンス。心を直接殴りつけてくるような、圧倒的な熱量。
暴動寸前だった数万の群衆は、水を打ったように静まり返り、ただただ、祈るような目でニーナの絶唱に聞き惚れていた。サイリウムを振る手すら止まり、息をするのすら忘れるほどの、完全な支配。
『わたしはここで、生きてるうううううっ!!』
最後の大サビ。今日一番の、天を突くようなロングトーンが夜空に吸い込まれていく。
すべての力を出し切ったニーナの体から、最後の一滴の魔力が弾け、ステージ上に一瞬だけ、眩いくらい強烈な光が咲き乱れた。
ジャァァァン……!!
重厚なアウトロの余韻が響き渡り、やがて完全に音が止む。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
静寂の中、マイクを下ろしたニーナの激しい息遣いだけが、魔導具を通して広場に響いていた。
彼女はフラフラとした足取りで一歩前に出ると、ゆっくりと、しかし誰よりも深く、感謝のお辞儀をした。
一秒。二秒。三秒。
永遠にも似た沈黙の後――広場が、爆発した。
『うおおおおおおおおおおおおおっ!!!』
『ニーナ! ニーナ! ニーナ!! ニーナぁぁっ!!』
『さっきはごめん!! 疑ってごめん!!』
『お、俺はまだ認めないぞ!!でも、少しは見てやってもいいかもな!!』
割れんばかりの……いや、本当に鼓膜が破れそうなほどの、地鳴りのような大歓声と絶叫。
大人も子供も、先ほどまでアンチだった者たちも、全員が顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、狂ったようにニーナの名前を叫んでいる。
素人の娘が、たった一曲で、魂の叫びだけで。
本物を求める大衆の心を完全にねじ伏せ、納得させた瞬間だった。
ステージの真ん中で、ニーナは今度こそ最高の笑顔で大きく手を振り返した。
『――最高のデビュー戦だったね、ニーナちゃん!』
いつの間にかステージに現れたアイリが、ニーナの肩を抱き寄せた。
そして、舞台袖からセリア、ツカサ、ルカの三人も、誇らしげな表情でニーナの元へ駆け寄ってくる。
『次は、みんなでこの帝都に、新しい時代の歌を届けよう! ニーナちゃんを中心に、私たちが全力でサポートするからね!』
アイリの言葉に、四人が力強く頷いた。
広場を埋め尽くす大群衆の視線が、ステージ上の五人に集中する。
アンチだった者たちも、今は固唾を飲んで、伝説の始まりを見つめていた。
『さあ、行くよ! ミュージック、スタート!』
アイリの合図と共に、新たなイントロが鳴り響いた。
今度は、五人の声が重なり合い、圧倒的な音圧となって広場を震わせる。
ニーナを中心に据えつつ、四人がそれぞれの役割で彼女を完璧にサポートしていく。
ルカは元気いっぱいに飛び跳ね、パワフルなダンスで会場を盛り上げる。
ツカサはクールにウインクを決めつつ、緻密な魔導演算で、光と音のエフェクトを完璧にコントロールする。
セリアは優雅な所作でコーラスを重ね、完璧なメイドの所作でフォーメーションを整える。
そしてアイリは、トップアイドルとしての圧倒的なカリスマ性とパフォーマンスで全体をまとめ上げつつ、ニーナの輝きをさらに引き立てていく。
最初は緊張していたニーナも、仲間たちのサポートを受け、次第に歌うことの喜びと自信を取り戻していく。
前世の臆病な自分とは、もう違うのだ。
今のわたしには、大好きな姉がいる。信じて背中を押してくれる仲間がいる。そして、この歌声を受け入れてくれる大勢の人たちがいる。
(……楽しい! 歌うのって、こんなに楽しいんだ!)
ニーナの歌声は、さらに力を増し、広場中に澄み渡っていく。
魔導具による派手なエフェクトが、五人のパフォーマンスをさらに彩る。
光の翼がステージを舞い、魔法の花火が夜空を飾る。
会場の熱気は最高潮に達し、観客とステージの一体感は完璧なものとなった。
罵声や嘲笑は完全に消え去り、そこにあるのはただ、純粋な音楽への感動と、五人の少女たちへの熱狂だけだった。
ライブが終了し、五人が並んで深くお辞儀をした瞬間。
割れんばかりの拍手と歓声が、帝都の空を支配した。




