第五十三話
――そこは、これまでの浅い階層とは明確に空気が異なっていた。
肌にまとわりつくような湿気と、獣の体臭、そして古い血の匂いが混ざり合った独特の瘴気。松明の明かりが届かない通路の奥からは、得体の知れない低い唸り声が反響して聞こえてくる。
これまでの下級ゴブリンがうろつく散歩道のような上層とは違う。ここは明確な「死地」だ。
だが、俺の心に焦りや恐怖はなかった。むしろ、どこか冷たいほどに落ち着いている。
その理由は明白だった。今の俺には、かつてないほど強力な「備え」がある。
軽く足踏みをして、床の感触を確かめる。ガシャン、と重厚な金属音が鳴った。
もともと着ていた機動力重視の革鎧を中心とした軽装(ダンジョンに入った瞬間に加護は消されていた)から一転、現在の装備は全身を覆う強固な装甲へと変わっている。率直に言って、重い。これまでの「相手の隙を突く」という戦法を取るには、いささか分が悪い重量感だ。
だが、この防具には凄まじい密度の魔力が込められている。表面には幾重にも重なる加護のルーンが刻まれており、微弱な光を放ちながら俺の全身を見えないベールで包み込んでいた。
腰のベルトには、まるで水筒のように無造作にぶら下げられた大量のポーション類。傷を瞬時に塞ぐ最高品質の『回復ポーション』と、身体能力を劇的に引き上げる『バフポーション』。これだけあれば、多少の無理はいくらでも効く。
「……来るか」
前方の暗がりから、複数の重い足音が近づいてくる。
現れたのは、これまでの階層で見慣れた子鬼とは似て非なる怪物だった。
身長は優に二メートルを超え、丸太のように太い腕には血管が浮き出ている。手には、岩をくり抜いたような無骨な大槌や、錆びついた巨大な鉈。
巨大な亜人――ホブゴブリンの小隊だ。その数は五体。
「グルルゥゥ……ッ!!」
俺の姿を認めるや否や、先頭のひときわ巨大な個体が雄叫びを上げ、地響きを立てながら突進してきた。
振りかぶられた大槌が、俺の頭上から脳天を砕かんと全力で振り下ろされる。
本来なら、即座にバックステップで躱すべき一撃。直撃すれば、以前の軽装なら骨ごとひしゃげて即死だっただろう。
だが、俺は足を一歩も引かなかった。
ただ両腕を交差し、顔を庇うようにして、その一撃を正面から迎え撃つ。
ガァァァンッ!!
鐘つき堂にいるかのような大音響が通路に響き渡った。
凄まじい衝撃波が周囲の砂埃を吹き飛ばす。だが――痛みが、ない。
「……ダメージゼロかよ」
土煙の中で、俺は呆れ半分、感嘆半分で呟いた。
大槌が直撃した腕の装甲は、傷一つ、凹み一つ生じていない。それどころか、加護の力が衝撃そのものを相殺し、俺の体勢は一ミリたりとも崩れていなかった。
ゴブリンレベルの攻撃ならば、どれだけ力任せに殴られようと傷一つ負わない。その異常なまでの防御性能を、身をもって確信した。
全力の攻撃を完全に防がれ、大槌を握ったホブゴブリンが驚愕に見開いた目を向けてくる。
その硬直の隙を見逃す手はない。俺は腰のポーチから『バフポーション』の小瓶を一つ引き抜き、親指で栓を弾き飛ばすと、一息に中身を飲み干した。
カッ――!
途端に、腹の底から爆発的な熱量が全身の血管を駆け巡る。
細胞の一つ一つが歓喜の声を上げるような感覚。防具の重さによる機動力の低下? そんなものは、限界突破した筋力と反応速度の前に完全に消し飛んでいた。
今なら、この重装甲のままで以前の軽装以上のスピードを出せる。
「さて、反撃のターンだ」
右手に携えた長剣はまだ抜かない。
俺は左腰の鞘から、一本の短剣を引き抜いた。
抜刀した瞬間、刃の表面を赤い炎がチロチロと舐めるように這い、直後に紫色の稲妻がバチバチと火花を散らす。火の魔法と雷の魔法が二重にエンチャントされた『魔力を帯びた短剣』。
俺は地面を蹴り、驚愕から立ち直ろうとしていたホブゴブリンの懐へ、文字通り「瞬動」した。
バフポーションで強化された脚力は、瞬きする間もなく敵との距離をゼロにする。
「ギャガッ!?」
反応すらさせず、短剣の刃をホブゴブリンの分厚い胸板に浅く薙ぎ払った。
肉を裂く感触はわずか。だが、刃に込められた魔法が解放されるにはそれで十分だった。
ドゴォォォォンッ!!
斬撃の軌跡から、爆発的な紅蓮の炎と紫電の嵐が間近で弾け飛んだ。
雷の麻痺効果が巨体の自由を完全に奪い、そこに超高温の炎が容赦なく叩き込まれる。先頭の一体は悲鳴を上げる間もなく黒焦げになりながら吹き飛び、後方に控えていた残りの四体も、連鎖する雷撃の網に捕らわれて体勢を大きく崩した。
ただの一振り。それがもたらした圧倒的な蹂躙劇。
「……ヤバいな、これ」
燃え盛る炎の明かりに照らされながら、俺は苦笑を漏らした。
圧倒的な防御力。無尽蔵の回復と強化。そして、触れるだけで敵を破壊する魔法の刃。
だが、まだ「本命」は手付かずのままだ。
炎の向こう側で、雷の麻痺からなんとか立ち直ろうと足掻く四体のホブゴブリンたち。
俺はゆっくりと息を吐き、いよいよ背中に背負った『長剣』の柄に手をかけた。
炎と紫電が荒れ狂う中、魔力の刃の犠牲となったホブゴブリンたちは全身を痙攣させ、泡を吹いて床に転がっていた。短剣のエンチャントがもたらした雷の麻痺効果は、彼らの強靭な肉体から完全に自由を奪い去っている。
「さて、介錯してやるか」
残党を片付けるべく、背に負った『長剣』の柄に手をかけた。
――その時だった。
ズンッ……! ズンッ……!!
地鳴りのような重低音が、迷宮のさらに奥深くの暗闇から響いてきた。
それはホブゴブリンたちの足音とは比べ物にならないほど重く、規則的だった。麻痺して倒れていたホブゴブリンたちが、その音を聞いた瞬間、絶望に顔を引きつらせて這い擦って逃げようとする。
中層の入り口を縄張りとする彼らが、本能レベルで怯える存在。
松明の明かりすら届かない漆黒の奥から、ヌッと巨大な影が姿を現した。
全身を赤銅色の分厚い重装甲で包んだ、豚頭の怪物――ハイ・オークの群れだ。中でも中央に立つ一体は、他の個体より頭二つはデカく、優に三メートルは超えている。巨大な戦斧を肩に担いだ『オーク・ジェネラル』だ。
「ブモォォォォッ!!」
迷宮の壁を震わせる、耳をつんざくような咆哮。ジェネラルは邪魔だと言わんばかりに、逃げ遅れたホブゴブリンの一体を無造作に蹴り飛ばした。巨体がボールのように宙を舞い、石壁に激突して即死する。中層のさらに奥、深層に近い領域に生息する上位種が、血の匂いと騒ぎに引き寄せられて上がってきたのだろう。
俺の姿を認めるや否や、ジェネラルとそれに従う十体近いハイ・オークたちの小さな瞳が、凶悪な殺意に濁った。
「なるほど、ボスの洗礼ってやつか?いいぜ、おあつらえ向きの的だ」
強大なプレッシャーを前にしても、俺の口角は自然と吊り上がっていた。
恐怖など微塵もない。体の中では、先ほど飲み干した『バフポーション』の圧倒的なエネルギーがまだ熱を帯びて駆け巡っている。そして何より、この絶対に傷つかないという安心感をもたらす強固な防具が、心に絶対的な余裕を生んでいた。
以前の俺なら、ハイ・オークの群れを見た瞬間に全力で逃走を図っていただろう。だが今は違う。
「ブギュルルルゥッ!」
ジェネラルの号令とともに、十体のハイ・オークが一斉に雪崩れ込んできた。
彼らが手にするのは、分厚い鋼の大盾と、岩塊すら粉砕するメイスやハルバード。重戦車のような突撃が、狭い通路を完全に埋め尽くして迫り来る。
逃げ場はない。避けるスペースもない。
だから俺は、ゆっくりと背中の長剣を引き抜いた。
シュィィィィン……ッ!!
抜刀した瞬間、澄んだ甲高い音が迷宮に響き渡った。
刀身から溢れ出したのは、闇を切り裂く圧倒的な『光』だった。真昼の太陽を直接刃に閉じ込めたかのような、神々しくも暴力的なまでの輝き。薄暗い通路の隅々までが白日の下に晒され、突撃してきたオークたちが思わず眩しさに目を細め、足を鈍らせる。
「消し飛べ」
俺は光り輝く長剣を上段に構え、迫り来る重戦車の群れに向けて、ただ無造作に振り下ろした。
特別な剣技も、複雑な踏み込みも必要ない。ただ、限界突破した膂力に任せて真っ直ぐに剣を振り抜く。
その瞬間、長剣の刀身から、通路の幅をすっぽりと覆い尽くすほどの極太の『光の波動』が撃ち出された。
「――ッ!?」
轟音すら、なかった。
ただ、圧倒的な熱量と質量を持った光の奔流が、空間そのものを削り取るように直進したのだ。
先頭を走っていたハイ・オークたちが構えていた分厚い鋼の大盾が、まるで薄い紙切れのように両断される。いや、切断という生易しいものではない。光の波動が触れた断面から、装甲も、肉体も、鋼の武器すらも、瞬時に蒸発していく。
「ブ、モ……?」
何が起きたのか理解できないまま、最後尾にいたオーク・ジェネラルが自身の胸から下を見下ろした。
彼が誇る赤銅色の重装甲ごと、その巨体は斜めに真っ二つに切断されていた。遅れてズレ落ちる上半身。凄まじい光の超高熱によって切断面が瞬時に焼き焦がされたため、血の一滴すら流れない。
光の波動はオークの群れを一瞬で飲み込み、はるか後方の迷宮の分厚い岩壁に深々と食い込んで、ようやくその輝きを散らした。壁から天井にかけて、まるで巨大な神の剣で切り裂かれたかのような、深く滑らかな切断痕が延々と刻み込まれている。
「……おいおい、冗談だろ」
剣を振り抜いた姿勢のまま、俺自身が一番呆気に取られていた。
これだけの規格外の威力を放ちながら、長剣の刀身には刃こぼれ一つなく、依然として静かに清らかな光を帯びている。しかも、剣に込められた強力な魔法陣が勝手に威力を最適化して放つため、俺自身の魔力や体力への負荷は驚くほど少ない。
俺は長剣を軽く振って残心を示すと、カチャリと背中の鞘に納めた。
「まあ、頼りになりすぎる分には文句はない」
かすかに汗ばんだ額を拭い、俺は腰のポーチから新たな小瓶を取り出した。体力も魔力もほとんど減っていないが、もらったアイテムは腐るほどあるのだ。
青く澄んだ『回復ポーション』の封を開け、一口だけ呷る。甘露のような液体が喉を通り抜けた瞬間、わずかな疲労感すらも綺麗に霧散し、全能感が全身を満たした。
これほどチートじみた武具と潤沢なアイテムを抱え込んでいるのだ。もはや、この中層エリアはおろか、さらに下の深層ですら、ただの散歩道に変わるかもしれない。
「さて、次はどんな手荒い歓迎が待ってるか……楽しみになってきたな」
「ナオキ様!!全部一人で楽しまないでください!!私もやりたいですう!!」
頬を膨らませたセリアの可愛い文句を聞く余裕もできた俺は、塵と化したハイ・オークたちの残骸と、真っ二つになったジェネラルを跨ぎ越え、俺はさらに瘴気の濃い迷宮の奥へと歩を進めた。
堅牢な防具が鳴らす重い金属音は、もはや恐怖を煽るものではなく、迷宮を踏破する頼もしい凱歌のように響き渡っていた。
*****
そしてそのままずっと奥の階層まで快進撃を続けていき……。
そこにそびえ立っていたのは、迷宮の岩肌をそのまま削り出して作られたような、異様に巨大な黒曜石の両開き扉だった。
扉の隙間から漏れ出す冷気は、これまでの階層とは比較にならないほど濃密で、肌を刺すような重圧を放っている。
これまでの余裕は、ほんの少しだけ息を潜めた。
両手で分厚い扉を押し開ける。ゴゴゴゴ……と重い地鳴りを立てて開いた先は、底が見えないほどの巨大なドーム状の大空洞だった。
その中央、闇が最も濃く集まる玉座のような岩山の上に、そいつは鎮座していた。
全身を夜の闇そのもので構築したかのような漆黒の鱗。背中にはドームの天井を覆い尽くすほどの巨大な双翼。
迷宮の主――『エンシェント・シャドウドラゴン』。
「グルルルル……ッ」
喉の奥を鳴らすような低い唸り声。ただそれだけで、物理的な暴風となって空間が波打った。
咄嗟に腕を交差して顔を庇う。
ガギィィィンッ!!
「……ッ!?」
初めて、俺の足が後ろに数メートル滑った。
今まで傷一つ、衝撃一つ通さなかった神聖な装甲が、悲鳴を上げるようにギシリと軋んだのだ。
「ダメージゼロ」の結界は機能している。だが、防ぎきれなかった『衝撃』の余波だけで、内臓が激しく揺さぶられた。
「今の、ただの『威嚇』か?少し本気でやらないとまずいか」
痛む胸を押さえ、すかさず『回復ポーション』を呷って態勢を立て直す。
これまでの無双状態が、急速に冷え込んでいくのを感じた。こいつは、根本的に「格」が違う。
シャドウドラゴンの巨大な尾が、鞭のようにしなって薙ぎ払われる。
俺は『バフポーション』で強化された脚力で間一髪跳躍し、空中で『魔力を帯びた短剣』を抜き放った。炎と雷の二重魔法をフルパワーで解放し、ドラゴンの背中に叩き込む。
だが――。
「シュウゥゥゥ……」という間の抜けた音とともに、魔法はドラゴンの纏う『闇の瘴気』に触れた瞬間に霧散してしまった。超高温の炎も、貫通する紫電も、分厚い漆黒の鱗には傷一つ、焦げ目一つつけられない。
「なら、こいつならどうだ!」
着地と同時に短剣を捨て、背中の『長剣』を両手で引き抜いた。
迷宮を真昼に変える圧倒的な光の波動。それを上段から全力で振り下ろす。極太の光の奔流が、空間を切り裂きながらドラゴンへと迫る。
対するドラゴンは、面倒くさそうに巨大な顎を開き、真っ黒な『絶望のブレス』を吐き出した。
ドゴォォォォォォンッ!!
光と闇の激突。だが、均衡は一瞬だった。
なんでも両断してきたはずの光の波動が、ドラゴンの超高密度の闇のブレスに飲み込まれ、徐々に押し負け始めたのだ。
「マジかよ……光の波動を食い破りやがった」
「ナオキ様!私も出ます!!」
「いや、大丈夫だ」
背筋を冷たい汗が伝う。俺が後退すれば、一瞬でブレスに飲み込まれて塵になるだろう。
これが、迷宮の主。これまでの圧倒的な装備の力をもってしても、容易には超えられない壁。
――だが、俺の心に絶望はなかった。
腰のポーチには、まだ山のようにアイテムが残っている。
そして何より、手の中の長剣が、まるで「もっと魔力をよこせ」と俺の心拍に合わせて激しく脈打っているのに気づいたからだ。
「上等だ。出し惜しみはナシだ。とっておきをくれてやる!」
剣を片手で支えながら、俺はポーチから『バフポーション』を三本同時に抜き出し、歯で栓を噛み砕いて一気に飲み干した。
ドクンッ!!!
心臓が破裂するかと思うほどの、劇的な血流と爆発的な魔力の奔流。過剰摂取による肉体崩壊の危機を、間髪入れずに最高品質の『回復ポーション』を頭から被るように飲んで強制的に修復する。
常人を遥かに超え、暴走一歩手前まで膨れ上がった莫大なエネルギー。それをすべて、右手の長剣へと注ぎ込んだ。
その瞬間、俺の全身を覆う防具に刻まれた『あらゆる加護』のルーンが、持ち主の決死の覚悟と異常な魔力に呼応して、かつてないほどの眩い輝きを放ち始めた。
防具に宿る神聖な力が、俺の身体をパイプにして長剣の光と共鳴し、完全に一つに結びついたのだ。
キィィィン……ッ!!!
長剣から溢れ出ていた光の波動が、ピタリと止まった。
いや、消えたのではない。拡散していた圧倒的な光が、膨大な魔力と加護の力によって極限まで圧縮され、刀身の表面に極薄の『絶対的な光の刃』として定着したのだ。
もはや眩しさすらない。ただ、そこにある空間が光によって「切り取られている」ような、歪で神々しい刃。これが、もらった装備が完全に共鳴した『真の姿』。
「オォォォォォッ!!」
シャドウドラゴンが最大の脅威を察知し、ドーム中の闇を顎に集束させ、最大出力のブレスを放つ。
黒き破滅のレーザーが迫る中、俺はバフで限界突破した脚力で地を蹴り、真正面から突っ込んだ。
圧縮された光の剣を、ただ真っ直ぐに振り下ろす。
――音は、無かった。
巨大な闇のブレスが、光の刃に触れた瞬間にモーセの海割りのように真っ二つに裂け、俺の両脇を通り過ぎて後方の壁を消し飛ばしていく。
俺はそのままブレスの奔流を逆流するように斬り進み、驚愕に見開かれたドラゴンの巨体へと肉薄した。
「終わりだ、トカゲ野郎」
一閃。
絶対的な硬度を誇った漆黒の鱗も、強大な闇の瘴気も、一切の抵抗を許さない。
振り抜かれた光の刃は、エンシェント・シャドウドラゴンの巨体を、首から尾の先まで、あまりにも美しく、完璧に両断していた。
数秒の硬直の後、ズズン……と地響きを立てて、左右に分かれたドラゴンの巨体が崩れ落ちる。
光の刃が収束し、長剣が元の姿に戻るのと同時に、迷宮の最深部に完全な静寂が訪れた。
*****
エンシェント・シャドウドラゴンの巨体が光の粒子となって完全に消滅すると、玉座の背後にあった分厚い岩壁が音もなくスライドした。
光の長剣を納め、警戒しながら足を踏み入れた先は、これまでの陰惨な迷宮とはまるで無縁の、無機質で真っ白な空間だった。
広大な部屋の中央には、青白い光を放つ転送陣――地上への帰還用と思われる『ワープゲート』だけがポツンと設置されている。
そして、あるはずのものが、ない。
「迷宮の主を倒せば手に入るのが鉄則だろ?肝心の『アーティファクト』が見当たらねえが……道中に戻ったほうがいいか」
「見落としはなかったと思いますが……」
セリアと周囲を見渡したその時だった。
突如、白い空間の空気がノイズ交じりに歪み、巨大な立体映像が空間の中央に投影された。
『――見事な戦いぶりだったよ、ナオキという者よ。いや、野蛮で哀れな下民と言うべきかな』
「……ッ!? お前ら、は……!」
俺は全身の血が逆流するのを感じた。
投影されたホログラムの中で、優雅にワイングラスを傾けている、過剰に豪奢な服を着込んだ数人の男女。
間違いない。ルカが皇帝を打ち砕いた後、俺たちが裏から徹底的に特権と財産を剥奪して、辺境へ追放したはずの連中――旧帝国の『元貴族』の面々だった。
「どういうことだ。お前らは全財産を没収され、システム上の権限もすべて剥奪されたはずだろ」
『クックッ……影武者を立てて逃げ延び、裏のネットワークと隠し財産を温存するなど、我々のような高貴な歴史ある血族にとっては基礎教養でね。それよりも、気づいたかな? 君が必死に求めたアーティファクトなど、最初からこのダンジョンには存在しないということに』
代表格である白髪の元侯爵が冷笑すると、背後にいる貴族たちも一斉に下劣な笑い声を上げる。無機質な白い空間に、その嘲笑が反響した。
『あの情報はフェイクだ。元々このダンジョンはね、我々特権階級が、君たちのような目障りな【チート転生者】を合法的に処分するために、国庫の裏金で秘密裏に建造していた巨大な廃棄場なのだよ』
「……なんだと?」
『だが、誤算だったのは君の装備だ。その規格外の武具とポーションの数々。あれほどの物資があれば、確かに我々の愛した廃棄場も突破されてしまう。――しかし、その代償は誰が払ったのかな?』
元侯爵が扇子を鳴らすと、ビジョンの映像が切り替わった。
そこに映し出された光景に、俺は呼吸を忘れた。
「アイリ……! ツカサ……ッ!!血が!!!腕が・・・おい!!何してくれてんだクソッ!!」
『それは冤罪だねえ。我々ではないよ。彼女たちがダンジョンに物資を送り込むため、無理をした結果さ』
映像の中で倒れていたのは、地上に転移したはずの大切な妻たちの姿だった。
血だまりの中で、アイリの右腕は無残に切断され、白骨が覗いている。ツカサはハッキングと空間転移の過剰な魔力接続による脳への絶大的な負荷で、目や耳から大量の血を流し、ピクピクと痙攣していた。
俺が使っていたあのチート装備と無尽蔵のポーション。それは都合のいい配給などではなかった。この迷宮の次元断層を突破し、最下層の俺の元へ物資を送り届けるために、彼女たちが文字通り「命を削って」送り出してくれたものだったのだ。
『彼女たちは死ぬ寸前だった。だから、我々が持ち寄った国宝級の魔道具で【蘇生】してやったのだよ。……彼女たちの有用性を認識した我々に、感謝してほしいくらいさ。さて君は、なぜ我々が、旧管理者のバックドアを叩いてまで、君たちの結婚を強制破棄させたか、わかるかい?』
「あ?・・・二人は無事なんだな?結婚が、なんだって?」
映像の横に、無機質なシステムウィンドウが浮かび上がる。
『『『対象者【アイリ】【ツカサ】、エクストラスキル【強欲な魔王の伴侶】
【強欲な魔王の伴侶】
全てを奪い尽くす魔王に寄り添い、その魂と運命を共有する絶対的な正妻の証。
精神操作、魅了、恐怖、洗脳など、外部からのあらゆる精神的干渉を完全に無効化する。
』』』
「……正妻の証……」
『そう。この忌々しいスキルのせいで、彼女たちには我々の【絶対洗脳】が通用しなかった。だが、スキルの発動条件はあくまで“君の伴侶”であることだ。ならば、チートが使えないそのダンジョンで【婚約破棄】を成立させ、条件を無効化してしまえばいい』
再び映像が切り替わる。
そこに映っていたのは、生気を失った虚ろな瞳の、アイリとツカサの姿だった。
*****
【トウヤ視点】
『――帝国の愛する市民の皆様。私、アイドルのアイリから真実をお伝えします。今日は歌のライブではありません。大事なお話です』
『これまで私たちを騙し、帝国を混乱に陥れた【光の勇者】を名乗る者たち……彼らはすべて、私腹を肥やすための詐欺師でした』
画面の中のアイリが、淡々とルカたちを貶める嘘を並べ立てていく。市民たちは「光の勇者はペテン師だ!」と怒り狂い、アイリさんに向かって熱狂的な歓声を送っていた。アイリさんは、ルカと同等か、それ以上に影響力があるアイドルだった。
最初は、またナオキさんの常識外れな『裏工作(作戦)』の類だと思った。
だが、違和感が拭えない。いくらあのタチの悪いナオキさんが盤面をひっくり返すのが好きだとしても、顔に出やすいルカはともかく、自分には何らかのサインや裏の意図を匂わせてくるはずだ。
何より、アイリさんとツカサさんの瞳に、いつもの生命力が全くない。
「アイリさん……ッ」
あまりの様子のおかしさに動揺してしまう。だが、彼の背後から、小さくも力強い腕がその身体を抱きすくめた。ルカだ。彼女はトウヤの背中にぴたりと額を押し当て、静かに首を横に振った。
「トウヤ。落ち着くっす」
「ルカ……っ、でも! 作戦にしては様子が――」
「そうっすね。師匠はタチが悪いし、性格もひん曲がってるっすけど……アイリさんやツカサさんを、あんな風に『道具』みたいに扱うはずがないっす。騙すようなことをするなら師匠自ら表に出てくるはず……」
帝都の空を覆い尽くす巨大なビジョンを見上げながら、トウヤはギリッと奥歯を噛み締めた。
光を失い、ただ命じられるままに原稿を読み上げるだけの精巧な人形。
あり得ない。絶対にあり得ないのだ。
アイリさんとツカサさんは、ナオキにとって何よりも大切な「帰る場所」だ。
普段はタチの悪い冗談を言い合い、時には呆れたようにため息をつきながらも、あの人は二人の妻に向ける視線の端々に、隠しきれないほどの深い愛情と執着を滲ませていた。彼女たちが少しでも傷つけば、世界を敵に回してでも、どんな理不尽な手段を使ってでも報復する。それが『ナオキ』という男の底知れない恐ろしさであり、不器用な優しさだったはずだ。
そんな男が、彼女たちから意志を奪い、あんな死んだ目をさせるわけがない。
(なら、あれはなんだ? ナオキさんにとっても完全に予想外の事態が起きているのか? それとも、俺たちすらも騙すための、いつものあの人特有の悪辣な『戦略』の一環なのか?)
混乱で思考が焼き切れそうになる。だが、背中にぴたりと押し当てられたルカの温もりと、感覚共有ラインを通じて流れ込んでくる彼女の静かな鼓動が、トウヤのパニックを強引に引き留めていた。
(考えろ。ナオキさんなら、どんな作戦を立てる。……あの狂った画面の裏にある、本当の『真実』を視るんだ――!)
トウヤは、大きく、深く息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺を満たし、過熱した脳を冷却していく。
トウヤは元々、どこにでもいる普通の少年だった。
だからこそ、ルカのような『本物のヒーロー』にずっと強く憧れていた。どんなに自分が傷ついても、どんなに絶望的な状況でも、決して折れることなく明るい笑顔で弱者を救い出す。太陽のように眩しく、絶対的な正義を体現する強い光。
彼女の隣に立ちたくて、彼女の背負う理不尽な熱を半分引き受けたくて、トウヤは命懸けで己の弱さを乗り越えた。今こうしてルカと手を繋ぎ、彼女の絶対的な安全装置として並び立てていることは、トウヤにとって何よりの誇りだった。
けれど。それと同じくらい――いや、ある意味ではそれ以上に、トウヤの魂の根底に強烈に焼き付き、ずっと憧れを抱き続けている人がいた。
それが、ナオキだった。
トウヤにとってナオキは、自分が子供の頃から擦り切れるほど読んできた大好きな漫画に登場する『ダークヒーロー』そのものだった。
決して表舞台で歓声を浴びることはない。綺麗事などこれっぽっちも信じておらず、態度は常に不遜で、性格もとてつもなく悪い。
だが、誰もが目を背けたくなるような世界の泥汚れを一人で被り、裏からすべての盤面を支配して、理不尽をさらに巨大な理不尽で叩き潰す。ルカという『光』がその手を汚さずに真っ直ぐ進めるよう、陰から冷酷に、そして誰よりも完璧に道を切り拓いてみせたあの背中。
「俺は、あんな風になりたい」と、口に出して言ったことはない。ルカのように師匠と呼んだこともない。光の勇者の彼氏として、自分が口にしていい憧れではないと思っていたからだ。
それでも、どうしようもなく惹かれていた。圧倒的な知略と、盤面をひっくり返す時のあの底意地の悪い笑み。敵のすべての手札を読み切り、「チェックメイトだ」と宣告するような絶対的な強者の余裕。
トウヤは、画面の中の偽物を、血走った眼で凄まじい眼力と共に睨みつけた。
嘘で塗り固められたこの世界のシステムごと、噛み砕いて引き裂こうとするかのような、執念の眼差し。
誰かに守られるだけの非力な少年は、もうここにはいない。
ルカの光を守り抜き、ナオキさんを押しのけてルカの隣にいるものとして。このふざけた全てを見通す『目』が欲しい。ナオキさんのような、【強い眼】が。
トウヤの魂の底から、恩人たちを信じ抜き、偽りをすべて暴き出したいという強烈な『渇望』が、ついにシステムに届く。
『『『システムアナウンス。対象者【トウヤ】の精神的渇望――『偽りを打ち破り、真実を見極める意志』を確認』』』
『『『――ユニークスキル【真実の魔眼】を獲得・自動発動しました』』』
「……っ!」
トウヤの瞳の奥で、カッと淡い金色の光が瞬いた。
『『『【真実の魔眼】。あらゆる偽装や幻惑を貫通し、対象の絶対的な「本質」を視破る観測者の力。視界に入った事象のあらゆる真実を見極めることができる。』』』
その眼でもう一度、上空の巨大ビジョンを睨みつけた瞬間。
その瞬間、流れ込んできたのは、戸惑いでも絶望でもなく――心底からの安堵だった。感覚共有ラインを通して、それがルカにも伝わる。
「……」
ルカは、恐ろしいほど静かだった。
かつて魔薬の熱に浮かされ、獣のように泣き叫んでいた脆い少女はもういない。トウヤという『精神安定剤アース』を得て、真実を見抜く彼の目を共有した彼女の精神は、今やどんな物理的な刃よりも鋭く、澄み切っていた。
「あいつら、ナオキさんが地下迷宮に苦戦してる混乱をついて【婚約破棄】を成立させ、アイリさんたちの耐性スキルを解除しやがったのか……。ナオキさんは今、地下で足止めを食らってる。……。すごいなこのスキル。全部見えるよ」
「元貴族っすか。悪辣極まりないっすね。……でも、完全に悪手っす」
ルカがトウヤの隣に並び立ち、彼の手をギュッと握りしめる。
「私たちを騙そうとするなんて……。そんなコソコソした小細工、私が真正面から全部ぶち壊してやるっす」
「あぁ。俺の【眼】があれば、皇帝みたいに相手がどんなにシステムを偽装して弱者のフリをしようと、全部『理不尽』として引き剥がせる。俺たちは無敵だよ」
ルカは、純粋で無防備な――それでいて、圧倒的な自信に満ちた笑みを浮かべた。
「トウヤ。私たちで、ぶっ壊しに行くっすよ。アイリさんたちを取り戻して、ダンジョン地下で待ってる師匠のところへ行くっす」
「おう!!俺たちの恩人に手を出した代償を、たっぷりと払わせてやろうぜ」
トウヤはルカと堂々と並び立つ。
ラインを通じて伝わるのは、死地に赴く恐怖ではなく、愛する人と共に最大の敵を討つという圧倒的な高揚感だった。
*****
【ナオキ視点】
「てめぇぇぇっ!! アイリたちに何をしやがった!!」
『彼女たちは優秀な我々の手駒として利用させてもらう。特に彼女たちのアイドルスキルと知略は、愚民どもを統治し私たちを復権させるためにとても有能だからね。安心したまえ、君の帰る場所はもうない。その白い部屋で、永遠に無力感を噛み締めながら餓死するがいい』
元貴族の代表が残酷な笑みを浮かべた瞬間、部屋の中央にあったワープゲートの青白い光が、プツンと音を立てて完全に消滅した。
機能の完全停止。退路を断たれ、映像もノイズとともに掻き消えようとしていく。
「ふざけるな……開け! 動けよクソッ!!」
機能停止した外へのゲートの台座を、俺は力任せに殴りつけた。
アイリとツカサの洗脳。
完全に裏をかかれ、隔離空間の底で絶望に打ちひしがれる無力な男。
その最高のエンターテインメントを前に、ホログラムの向こうの元貴族たちは腹の底から愉快そうに下劣な笑い声を上げた。
『ハハハハハッ! 傑作だ! あの憎き男が、無様にゲートに縋り付いているぞ!』
『さあ、ゆっくりと餓死していくがいい。我々は地上で、愚民どもをたっぷりと調教させてもらうよ!』
勝ち誇る元貴族たち。
だが。
「――はあ、カット。もういいだろ」
つい数秒前まで「絶望」で歪んでいたはずの俺の顔から、スッと表情が抜け落ちた。
ゲートの台座を叩いていた拳を下ろし、乱れた前髪をかき上げる。そして、ビジョンの向こうで笑い転げる元貴族たちへ向かって、心の底から見下すような、いつもの『悪い笑み』を浮かべた。
「……は?」
『な、なんだ……? 絶望のあまり気が触れたか?』
戸惑う元貴族たちに向かって、俺はパンパンと埃を払うように手を叩いた。
「アイリとツカサを回復させてくれたのは感謝する。正直焦ったし想定外だった。感覚共有で状況がわからないってのはここまで不便なんだな。だが絶望したふりで演技する必要はもうないだろ」
『……え、演技、だと? 強がりを言うな! 現にお前の妻たちは我々によって婚姻を解除され、洗脳されているではないか!』
元貴族の代表が、己の勝利を証明するように宣言した。
だが、その直後。
「ふぅ、想定していたより元奴隷の皆さんに繋いでいた感覚共有ラインの自動リカバリーが効くのが遅かったですわね」
「あははっ! やだもうツカサさん!私は先に戻ってて、笑い堪えるのすっごく大変だったんだからね!」
虚ろな瞳だったはずの二人が、パチリとウインクをして、元気いっぱいに喋りだしたのだ。
『な、ななっ!? 貴様ら、なぜ洗脳が……!?』
完全に絶望の淵に沈み、自我を失っていたはずの二人が、まるでお遊戯会の劇を終えた子供のようにケロッとしている。
元貴族たちは、ワイングラスを取り落とし、信じられないものを見るような目でアイリとツカサを凝視していた。
「あー、肩凝った! 虚ろな目をして感情を殺すのって、トップアイドルとしてはすっごく難しい演技だったんだからね!」
「ええ。貴方たちの『本当の居場所』を逆探知する時間を、たっぷりと稼がせていただきましたわ」
アイリが大きく伸びをし、ツカサが冷たい光を放つ眼鏡を中指でクイッと押し上げる。
その言葉の意味を理解した瞬間、元貴族たちの顔から血の気が引いた。
『ば、馬鹿なッ! 通信を切れ! すぐにこの魔導放送の回線を遮断しろ!!』
元侯爵が泡を食って叫ぶが、ツカサはくすりと艶やかに微笑んだ。
「無駄ですわ。貴方たちが嬉々として帝都中のビジョンをジャックしたあの瞬間……その回線の主導権(ルート権限)は、すでに私がすべて掌握しております。つまり、この放送は今もなお、帝都の全市民に向けて『生中継』され続けるということですの」
『なっ……!?』
そして。
ツカサの魔力サポートを受け、アイリが一歩前へと歩み出た。
手には、いつの間にかマイクの形をした魔力増幅器が握られている。たった一歩。たったそれだけの動作で、彼女の全身から「操り人形」の気配が完全に消え去り、何万もの観衆を熱狂させる『トップアイドル』の絶対的なオーラが爆発的に弾けた。【超絶美少女アイドル】スキルが、全開で放たれる。
「――帝都の愛する市民のみなさーんっ!光の勇者のプロデューサー兼、宇宙一のアイドル、アイリちゃんからの本当の『お知らせ』だよっ!★」
帝都の空を覆う巨大なビジョン。
そこから響き渡ったのは、先ほどまでの冷たく機械的な声ではない。絶望の底にいた人々の心を一瞬で温め、希望の光で照らし出すような、透き通るように明るく力強い声だった。
街頭で動揺していた市民たちが、ハッとしてビジョンを見上げる。
「まずは、心配かけちゃってごめんなさい! でもね、さっき私が読まされていた原稿は、ぜーんぶ、『元貴族』のオジサンたちが書いたウソップリなの!」
アイリは腰を抜かしている元貴族たちを映した切り抜きをビシッと指差した。
「みんな、最近おかしいなって思ってたよね? 順調に進んでたはずの復興作業が突然ストップしたり、魔導列車が原因不明のトラブルで止まったり、急に物流が滞って食べ物の値段が跳ね上がったり。……あれ、事故でもなんでもないの。全部、このオジサンたちが裏でシステムをハッキングして起こした『嫌がらせ』だったんだよ!」
『き、貴様ぁっ! でたらめを言うな!! 証拠がどこにある!!』
激昂する元貴族の怒鳴り声を、アイリは「あははっ」と明るい笑い声で軽々と一蹴する。
「証拠なら、私たちを騙そうとした音声があるよ! 彼らはね、わざと王都を混乱させて、みんなを飢えさせて、『やっぱり昔の貴族様が統治していた頃の方が良かった』って泣きついてくるのを、安全な地下の隠しアジトでワインを飲みながら待ってたの。自分たちの権力と甘い汁を復活させるためにね!」
アイリの言葉が、魔導放送を通じて帝都の隅々にまで響き渡る。
その残酷で身勝手な真実に、市民たちの間にどよめきと、そして明らかな『怒り』の熱が広がり始めていた。
「でもね、彼らはものすっごく警戒心が強くて、尻尾を掴むのが大変だったの。だから……うちの不器用で優しくて、世界で一番タチの悪い旦那様が、わざと彼らの罠にハマって、隔離ダンジョンの最下層で無力化された『フリ』をしてくれたんだよ。彼らを完全に油断させて、証拠を押さえて、この放送回線を繋がせるための、特大の『おとり』としてね!」
・・・実際はそこまで読めていたわけではなかった。もちろん元貴族による罠は想定していたが、スキルや魔法を封じられること、アイリとツカサの婚約破棄、その全てが俺たちにとっては想定外だったのだ。この状況を乗り越えられたのは、アイリとツカサのアドリブの力が大きい。「さすがナオキ様です」と隣で呟いているセリアがいるが、そんなことはないのだ。
それでも俺はアイリの持ち上げに呆れたように肩をすくめながらも、ニヤリと笑いを返した。
『ふざけるなッ!』
俺のニヤケ笑いに反応したのか、元貴族が恐怖と怒りで顔を真っ赤にして叫んだ。
『 お前たちがいくら正論を喚こうが、すでに我々の工作で物流も魔導列車も止まっているのだ! この国は正論では動かない!利で動く!!混乱した大衆は暴徒と化し、結局はこの国は我々の手のひらの上で――』
「――あーあ。やっぱり貴族の方たち、なーんにも見えてないんだね★」
アイリは哀れむような目で、元侯爵を見下ろした。
「私がさっき、あんなウソの原稿を読まされても、帝都が暴動にならなかった理由。魔導列車が止まっても、みんながパニックにならなかった理由が、まだわからないの?」
『な、なに……?』
「私たちはね、奴隷制を廃止するために独立を支援した時から、彼ら全員の心と『感覚共有ライン』でいつでも繋がれるようになってるの。上から命令するだけの冷たいシステムじゃなくて、温かいそれぞれの心のネットワークでね。それで緊急事態の時は脳のリソースを外から分けてもらうようお願いしてたから、放送を見て心配したみんながリソースを貸してくれて、洗脳だって解除できちゃったんだ★気づいてくれたみんなのおかげだよ!!本当にいつもありがとう!!」
アイリが自らの胸に手を当て、誇らしげに微笑む。
「それで私が洗脳を解除してもらってからも演技で原稿を読んでいた時、心の奥底では『今からこいつらを騙し討ちにするから、合図を待っててね!』って、とびっきりのウインクを飛ばしてたんだよ。前は奴隷だった皆さんは、そのラインを通じて、私たちの『作戦』も、ぜーんぶ共有してた。だからもう、誰もあなたたちのちっぽけな嘘になんて騙されないよ!!」
その言葉が引き金となったかのように。
元貴族たちの隠しアジトである地下施設のコントロールルームに、けたたましい警報音が鳴り響いた。
『な、なんだ!? 何事だ!!』
『ほ、侯爵様!! 監視カメラの映像をご覧ください!!』
部下が震える指で示したサブモニター。
止まっていたはずの魔導列車の軌道上を、無数の作業着姿の男たちが、工具や松明を手に、恐ろしいほど整然と行軍してくる姿だった。
物流を担っていた荷馬車の御者たち。復興の足場を組んでいた元奴隷の職人たち。
彼らは怒声一つ上げることなく、ただ無言で、だが圧倒的な統率力と静かな殺意をもって、元貴族たちの隠れ家を次々と、『完全に包囲』していたのだ。
『ば、ばかな……!? 』
元貴族たちは腰から崩れ落ちた。
「あなたたちが『見下して、利用するだけの道具』だと思っていた人たちは、みんな自分たちの足で立って、自分たちの意志で、あなたたちという『理不尽』を追い詰めに来たんだよ」
アイリはマイクを握り直し、カメラに向かって、そして包囲網を完成させた元奴隷たちに向けて、最高に輝く笑顔でウインクを放った。
「さぁ、みんな! 復興の邪魔をする陰湿なネズミさんたちのお掃除、始めちゃってくださーいっ!!」
その合図と共に。
外にいる数万人の元奴隷たちと――そして
「悪いな、アイリとツカサを回復させてくれたからほんの少し手加減してやって欲しいところだが」
俺はニヤリと笑い、指で天井を指差す。
ホログラムの向こう側。
元貴族たちが潜伏している隠れ家(地下施設)の天井が、凄まじい轟音と共にメキメキとひび割れ始めた。
「まあ、若いやつらが理不尽をぶち破るのに加減はできないわな」
ズドォォォォォンッ!!!
直後、ホログラムの映像が激しく揺れ、分厚い地下施設の天井が完全に崩落した。
濛々と舞い上がる土煙の中から現れたのは、壮絶な魔力オーラを立ち昇らせたルカと、その隣で確かな殺意と静かな怒りを宿し、新スキル【真実の魔眼】を光らせる少年――トウヤの姿だった。
『ひ、ひぃぃぃっ!? 光の、勇者……ッ!?』
「お待たせしたっすね、光の勇者、デリバリーっす」
ルカが拳をバキバキと鳴らし、トウヤが冷酷な眼差しでターゲット(元貴族)たちを射抜く。
盤面は、完全にひっくり返った。
若き勇者たちが、絶叫する元貴族たちの群れの中へと、容赦なく飛び込んでいった。




