表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/95

第五十二話

圧倒的な弱者へと転落したはずのチートなき男は、迫り来る死の群れに向かって、ダンジョンそのものを震え上がらせるほどの獰猛な殺意を剥き出しにして、泥水の中を蹴り出した。


暗く冷たい坑道の奥から、ヘドロが腐ったような酷い悪臭が風に乗って鼻腔を突いた。

ズチャッ、ズチャッ、と泥を跳ね飛ばす無数の足音。

闇の中から浮かび上がってきたのは、システムによって凶暴化させられた七匹のゴブリンの群れだった。


ファンタジーの都合の良いザコモンスターではない。脂ぎった暗緑色の肌には湿疹や泥がこびりつき、黄色く濁った眼球は飢えと殺意で血走っている。口の端からドロドロの唾液を垂らし、錆びて刃こぼれした鉈や、汚物に塗れたこん棒を握りしめた、醜悪でリアルな『人食いの獣』たち。


『ギギャァァァッ!!』


先頭の二匹が、耳障りな奇声と共にナオキ目掛けて跳躍した。

その顔面に、ナオキは一切の躊躇なく泥水の中を滑り込むように前傾姿勢で踏み込んだ。


怒りは完全に臨界点を突破していた。だが、ナオキの頭脳は極寒の氷のように冷え切っていた。

チートがない生身の肉体で、感情に任せて武器を大振りすれば隙が生まれ、一瞬で肉を削ぎ落とされる。だからこそ、そのどす黒い殺意のすべてを、コンマ一秒の『精密な殺戮』へと変換する。


「……死ね」


交差する瞬間。

ナオキは右手に逆手で持ったナイフを、飛びかかってきたゴブリンの顎の下――薄い皮膚のすぐ奥にある頸動脈へ、己の体重を乗せて正確に突き入れた。


ブチッ!という不快な肉の破断音と共に、熱くドロドロとした緑色の血が間欠泉のように噴き出す。

ゴブリンが悲鳴を上げる暇すら与えず、ナオキはそのナイフを引き抜きながら身体を捻り、背後に回ろうとしていたもう一匹の眼球に、左手のナイフを柄の根元まで深々と突き刺した。


『ギャ、グベェッ……!?』


眼窩から脳髄を直接破壊されたゴブリンが、痙攣しながら泥水の中に崩れ落ちる。


「セリア、右三番目! 足を止めろ!」

「はいッ!」


ナオキの短く冷徹な指示に、セリアが地を這うような低さで飛び出した。

彼女の手には、先ほど拾った鋭利な岩の欠片。標的となったゴブリンがナオキに気を取られているその死角から、セリアは獣のように飛びつき、ゴブリンの膝裏のアキレス腱を岩の切先で力任せに削り切った。


『ギギィィィッ!?』


腱を断たれ、無様に体勢を崩して前のめりに倒れ込んだゴブリン。

その無防備な後頭部を、振り返ったナオキの軍靴が、スイカでも叩き割るような容赦のない力で泥の底へと踏み砕いた。


ゴシャッ、と頭蓋骨が砕ける生々しい音が響き、脳漿と泥水が四方に飛び散る。


「……次」


返り血を頭から被り、顔の半分が赤黒く染まっても、ナオキは瞬き一つしなかった。

『サイコパスにしか見えなかった』と泣き叫んだのも無理はない。痛覚がなかったあの頃と同じなのだ。今のナオキは、命を奪うことへの忌避感も、怪我の痛みへの恐怖も完全に麻痺していた。ダンジョンへの絶対的な怒りが、彼をただ純粋に命を刈り取るだけの『機械』へと変貌させていた。


『ギィィ……ッ!』


残る四匹のゴブリンが、同胞がいとも簡単に解体された異常な光景に、本能的な恐怖を覚えて足を止めた。

凶暴化してなお怯えを見せる魔物たち。だが、ナオキは逃げる隙など一秒たりとも与えなかった。


「退くなセリア、一気に押し潰す!」


ナオキが自ら泥を蹴って敵陣のど真ん中へ突撃する。

大きく振り被られた錆びた鉈。ナオキはそれを躱すことなく、すでに裂傷を負って血まみれになっている自分の左肩から、あえて鉈の軌道へと突っ込んだ。


ガリッ!と、鉈の錆びた刃がナオキの肩の肉をさらに深く抉る。


「ナオキ様ッ!?」


セリアが悲鳴を上げたが、ナオキの表情はピクリとも動かなかった。


「……取ったぞ」


肉を斬らせ、ゴブリンの武器を己の肩の骨でガッチリとロックしたのだ。

武器を引けずパニックに陥ったゴブリンの首元に、ナオキの右手のナイフが閃く。気管と頸椎を同時に断ち切る、致命の一撃。首の皮一枚で繋がった頭部が、ゴロンと背中側へ不気味に折れ曲がった。


そのままゴブリンの死体を盾として前に蹴り飛ばし、背後にいた別の個体にぶつけて体勢を崩させる。


「セリア!!」

「は、はいッ!!」


主の常軌を逸した闘鬼のような立ち回りに一瞬息を呑んでいたセリアだったが、即座に死体に押し潰されたゴブリンの胸ぐらを掴み、その喉仏を力任せに石で叩き潰した。


残るは二匹。

ナオキは肩に深く突き刺さったままの鉈を、血飛沫を上げながら無造作に引き抜くと、そのまま敵の顔面に向かって力任せに投げつけた。


『ギブッ!?』


顔面に鉈の柄が直撃して怯んだゴブリンの懐へ、ナオキが滑り込む。両手のナイフを、肋骨の隙間から正確に心臓と肺へと突き立て、そのまま雑巾を絞るように手首を捻り切った。


最後の一匹は、完全に戦意を喪失し、泥水の上を這いずって逃げようとしていた。


「…………逃がすかよ」


ナオキはゆっくりと歩み寄り、逃げ惑うゴブリンの背中を軍靴で踏みつけ、泥の中に縫い留めた。


『ギ……ギャァァ……ッ、ヒィィッ……』


情けなく命乞いのような鳴き声を上げる汚い魔物。

ナオキは、ひどく冷めきった瞳でそれを見下ろし、サバイバルナイフの切先を、ゴブリンの延髄へと静かに合わせた。


「てめぇらを生み出したクソダンジョンに伝えとけ」


ズブッ。

何の感情もこもらない、ただの作業のような手つきで、ナイフがゴブリンの命を完全に断ち切る。


「……俺の大切な嫁たちを泣かせたツケは、このダンジョンごと物理的に払わせるってな」


七匹の醜悪な魔物の死体が、血と泥の海に沈んでいる。

わずか数分の出来事。チートというシステムを一切使わず、生身の肉体と狂気じみた連携だけで、彼らは凶暴化した群れを完全に制圧した。


「はぁっ……はぁっ……」


ナオキは静かに息を吐き、両手のナイフからドロドロの血を振り払った。

肩の傷口からは、先ほどよりもはるかに多くの血が流れ落ち、ナオキの衣服を赤黒く染め上げている。


「ナオキ様……っ!」


セリアが泥水を蹴立てて駆け寄り、真っ青な顔でナオキの傷口に手を当てた。


「あの、わざと肉を切らせるなんて……っ! ご無事ですか、傷が深すぎますっ、すぐに血を止め――」

「騒ぐな。この程度、大したことねぇよ」


ナオキは、心配で泣きそうになっているセリアの頭を、血まみれの手で乱暴に、だが不思議と優しく撫でた。

その瞳の奥には、先ほどまでのドス黒い殺意は鳴りを潜め、代わりに、決して折れることのない強靭な意志の炎が静かに燃え続けていた。


それから半日。

文字通りの、血反吐を吐くような死の行軍だった。


「……はぁっ、はぁっ、はぁ……ッ」


システムによって凶暴化し、際限なく湧き出てくる魔物の群れ。

チートを失った生身の肉体で、ナオキとセリアは泥水に這いつくばりながら、ひたすらにナイフと石と、己の牙だけでその波を凌ぎ続けた。


数時間おきにわずかな岩の窪みに溜まった濁った泥水をすすり、壁を這う不気味な虫の頭をちぎって咀嚼し、飢えと渇きを強引に誤魔化す。だが、幾度となく肉を裂かれ、大量の血を流した身体は、すでに限界をとうに超えていた。


(……くそっ、視界が……チカチカしやがる)


ナオキの意識は、すでに深い泥の底に沈みかけていた。

足は鉛のように重く、肩や腹の傷は熱を持って激しく脈打っている。横を歩くセリアもまた、全身泥と返り血にまみれ、ふらふらと幽鬼のように足を引きずっていた。


もう一歩も動けない。そう思い、ナオキの膝が完全に折れそうになった、その時だった。


「――ナオキ様、前方に……光が」


セリアの掠れた声に顔を上げる。

暗くじめじめとした岩肌の坑道が唐突に途切れ、そこだけが空間ごと切り取られたように『真っ白な光』に包まれていた。


「……なんだ、ここは」


足を踏み入れると、そこはファンタジーのダンジョンには全く似つかわしくない、無機質で蛍光灯のような白い明かりに照らされた、四角い小部屋だった。


壁も床も、継ぎ目のない未知の白い素材でできている。空気には泥の匂いも血の匂いもなく、まるで病院の無菌室か、システム空間の待機室セーフポイントのような異質さがあった。


そして、その部屋の中央。

透き通るような赤い液体が満たされた、二つのガラス小瓶がポツンと置かれていた。


「……回復ポーション、か」

「ナオキ様、罠の可能性も――」

「いや、システムからの嫌がらせ(報酬)だろ。チートを奪っておいて、婚約破棄までさせて、ギリギリで生かささず殺さずをやりたいらしい」


ナオキは迷うことなく小瓶の栓を抜き、一気に喉へと流し込んだ。

直後、焼け焦げるような熱が全身を駆け巡り、開いていた肩や腹の裂傷が、目に見える速度でシュウシュウと音を立てて塞がっていく。


「セリア、お前も飲め」

「……はい」


セリアもポーションを飲み干し、全身の打撲や切り傷が癒えていく。

致命傷は塞がり、身体の痛みは消え去った。だが――。


「……はぁっ、はぁっ」

「く、はぁ……っ」


水分が足りない二人の喉からは、乾ききったふいごのような荒い息が漏れ続けていた。


*****


その頃、――チートが機能する元の世界(地上)への強制転送を完了したアイリとツカサは、泥だらけの姿のまま、一秒たりとも無駄にすることなく『反撃』を開始していた。


「……弾かれました! 衛生キットと水と食料の転送、また失敗ですわ! 廃棄区画の結界ファイアウォールが、外部からの有機物と水分の侵入を完全にシャットアウトしています!」


豪邸の地下室。ツカサは泥に汚れたヒビ割れた眼鏡の奥で、【知力Lv5】の演算能力を限界までフル回転させ、空中に展開した無数の魔法陣コンソールを血のにじむ指先で叩き続けていた。


「くそっ……! 私たちの魔力なら、空間ごとぶち抜けるはずなのに……ッ! もう一回! 今度は私自身を転送して……ッ!」

「無理ですアイリ様! 対象者が『婚約破棄』に同意したことで、私たちの生体IDはあのダンジョンから完全にバン(出禁)されています! 人体を無理やり送れば、次元の狭間で塵になりますわ!」


アイリは床に膝をつき、自分の不甲斐なさにギリッと唇を噛んだ。

テレポートした瞬間、彼女たちのチートは元通りに回復した。だが、ナオキのいる神代の廃棄区画は、そのチートを無効化する絶対的なブラックボックスだ。


ナオキは怪我をしていた。血を流していた。

死の淵を歩いている彼を置いて、自分たちだけが安全で綺麗な場所にいる。その事実が、アイリとツカサの心を強力に締め付けていた。


「……何か、何か抜け道はないの!? ナオキは血を流しすぎてる! このままじゃ……っ!」


アイリの悲痛な叫びに、ツカサは血走った目で膨大なシステムコードを睨みつけ――ふと、ある一点に目を留めた。


「……待ってください。消毒キットも水も食料も『人工物や自然物』だからエラーで弾きされる……? なら、システムが元々内包しているデータ、『魔法薬システムアイテム』ならどうです?」

「え……?」

「ダンジョンの宝箱の生成プログラムに、私たちが偽装したアイテムデータを割り込ませるんです! ほんの数バイトの隙間なら、私の演算とアイリ様の魔力で、一時的にファイアウォールに穴を開けられるかもしれませんわ!」


ツカサの言葉に、アイリの瞳に強烈な光が戻った。

彼女はすぐさま、最高ランクの『回復ポーション』データを、両手に力強く握りしめた。


「ツカサさん、座標とタイミングは任せる! 私の魔力、全部持っていって!!」

「……対象座標、廃棄区画のセーフエリア! 空間の穴が開くのは、コンマ数秒のみ! 行きますわよッ!」


ツカサが両手を振り下ろし、アイリが絶叫と共に膨大な魔力を転送陣に叩き込む。

バチバチッ!と空間が歪み、システムが異物の侵入を検知して強烈なスパーク(拒絶反応)を放つ。アイリの腕の皮膚が魔力負荷で弾け飛び、血が舞うが、彼女はポーションを手放さなかった。


「届けぇぇぇっ!! ナオキのところに……ッ!!」


空間の裂け目がほんの一瞬だけ、ダンジョンの白い小部屋と繋がった。

その隙間から、アイリは二つの小瓶のデータを、祈るような思いで押し込んだ。


直後。

ガァンッ!!という激しい衝撃音と共に空間の裂け目が強制的に閉じられ、弾き飛ばされたアイリとツカサは、自分の血にまみれて床に倒れ込んだ。


「……はぁっ、はぁっ……! ツカサさん、ポーションは……っ!?」

「……座標への実体化、確認しました。転送……成功ですわ」


ツカサは荒い息を吐きながら、空中のウィンドウを見て力なく微笑んだ。


「よかった……っ。あぁ、よかったぁ……っ」


アイリは床に突っ伏したまま、ボロボロと安堵の涙をこぼした。

これで、ナオキのあの酷い怪我は治る。命の危機は脱するはずだ。


だが――二人の表情は、すぐに重く、暗く沈んだ。


「……怪我は治せても、水と食料のデータは弾かれて送れませんでした。おそらくダンジョンは最奥まで攻略しないと出ることができません。あの極限状態での渇きと飢え……ご主人様とセリアは、このままだと……」


ツカサが、ギリッと悔しそうに拳を握りしめる。


水がない。

怪我が治っても、脱水症状に陥れば人は死ぬ。彼らが今、その渇きを癒やすためにどれほど過酷で泥臭い手段を強いられているか、二人は想像するだけで胸が張り裂けそうだった。


「ごめんね、ナオキ……っ。ポーションしか、送れなくて……」


アイリは、ナオキに触れられない自分の手をきつく握りしめた。

だが、もうあの地下でパニックになっていた彼女ではない。涙を乱暴に拭い、アイリはふらつく足で立ち上がった。


「いや、ううん、泣いてる暇なんてない。アイドルは、この程度で絶対に諦めない」

「ええ……。私たちが、あんなダンジョンごときに屈するわけがありませんわ」


ツカサもまた、血の滲む指で再び魔法陣コンソールを展開し始めた。


一度は撤退を受け入れ、自分たちから関係を「破棄」した。

それは決して逃げではない。外側からシステムを破壊し、愛する男を救い出すための『反撃の狼煙』だ。


「ツカサさん。もう一回。ポーションと水と食料だけじゃない。強力な武器も防具も。ありったけ送るまであきらめないんだからね!」

「もちろんですとも。もう一度行きましょう」


泥だらけの二人の妻は、チートという最強の武器を手に、愛する男を救い、必ずもう一度自分たちの指輪を嵌めさせるために――外側からの『盤外戦ハッキング』という、彼女たちにしかできない戦いへと身を投じていった。


*****


「……またエラー!システムの自己修復機能が追いついてきましたわ! ファイアウォールの強度が先ほどの数十倍に跳ね上がっています!」

ツカサの悲痛な叫びが地下室に響く。

先ほどポーションをねじ込んだことで、ダンジョンの管理システムは外部からの不正アクセスを完全に学習し、鉄壁の防御を敷いていた。


「関係ない! もっとだ! いけえぇぇッ!!」


アイリは両手を前に突き出し、眼球の血管が切れて白目が赤く染まるほどの力みで、自身の魔力リソースを転送陣へと注ぎ込み続けた。

彼女の目の前には、――清らかな水がたっぷり入った多くの水筒、高カロリーの携帯食料、高品質の回復ポーションにバフポーション、強力な魔力付与エンチャントが施されたミスリルの短剣に長剣、そして最高級の防具一式のデータが光の粒子となり、転送陣の入り口で弾かれまいと激しくスパークを散らしていた。


「ぐっ……アァァァッ!!」


アイリの意識は、ツカサが構築した仮想の『データ空間』へと直接ダイブし、システムとの綱引きを行っていた。

迫り来る見えない防壁ファイアウォールの重圧を己の魔力で強引に押し留めながら、物資のデータ群を必死にねじ込もうとする。現実の彼女の腕からも、バチバチッと魔力負荷による放電が起こり、皮膚が裂けて血が滲む。だが、彼女は一歩も引かなかった。

(ナオキが死にかけてるのに、これくらいで手を引けるわけないじゃん……っ!)


「……計算、再構築! データ偽装ルート、1048番から……30万番まで同時並行アタック……ッ!」


ツカサの様子は、さらに凄惨だった。

【知力Lv5】の限界を遥かに超える、神のシステムとの直接的な演算勝負。その強烈な負荷は、彼女の生身の脳髄を直接焼き焦がしていた。


「かはっ……!」


ツカサの口から、赤黒い血の塊が吐き出される。鼻からも、目からも、ツーッと一条の血が流れ落ちている。ヒビ割れた眼鏡の奥の瞳は焦点が合わず、毛細血管が破裂して真っ赤に染まっていた。

脳が、物理的に悲鳴を上げている。このまま演算を続ければ、ショック死するか、廃人になるか。


(私が……この私が役に立てないはずがありません……っ!)

「アイリ、様……! まだですわ……私を、私の演算リソースを、限界まで、絞り尽くして……ッ!」


ツカサは血反吐を吐きながらも、指先の骨が折れるほどの勢いで空中のコンソールを叩き続けた。

彼女の異常なまでの罪悪感と、ナオキへの狂気的な執念が、完全に焼け切れる寸前の脳を強引に駆動させている。


「……突破口、開きましたッ!! 今です、アイリ様ぁぁッ!!」

「届けぇぇぇっ!! ナオキのところに……ッ!! 私たちの全部、持っていけぇぇぇぇッ!!」


データ空間の中で、アイリの絶叫が轟く。

ねじ切れんばかりの激痛に耐えながら、彼女は両腕を深く裂け目へと突っ込み、渾身の力で『物資のデータ群』をダンジョンの最深部へと押し込んだ。


完全にねじ込めた、その瞬間。

システムの絶対的な防壁ファイアウォールが、侵入者を物理的に排除すべく、巨大な鋼鉄のシャッターのように上から「ドガァァァンッ!!」と容赦なく振り下ろされた。


「――ッ!!」


ねじ込む際に裂け目に残っていたアイリの両腕が、データ空間内でギロチンのように無残に切断される。


ガガァァァァァンッッ!!!


直後、現実の地下室全体を揺るがすほどの爆発音と、強烈な衝撃波が巻き起こった。

強制的に現実へと意識を弾き戻されたアイリとツカサは、人形のように壁まで吹き飛ばされ、そのまま床に叩きつけられる。


「かはっ……、あ……」

「……」


床に倒れ伏したまま、二人はピクリとも動かない。

ツカサは顔中を血まみれにして完全に意識を失っている。


そしてアイリは――データ空間での損傷が、現実の肉体にも残酷なまでにフィードバックされていた。

彼女の前に伸ばしていた両腕が、肘の先から無惨に切断され、床に転がっている。ドクン、ドクンという心臓の脈打ちに合わせて、生々しい切断面からおびただしい量の鮮血がドバドバと噴き出し、冷たい床に真っ赤な血の海を広げていく。


激痛と致死量の失血で、アイリの意識は急速に薄れ、暗い底へと沈んでいく。

だが、その血の海の中で。

彼女の口元には、愛する男のもとへ全てを届けきったという、微かな、けれど確かな『勝利の笑み』が刻まれていた。


*****


「……はぁっ、はぁっ」

「く、はぁ……っ」


二人の喉からは、乾ききったふいごのような荒い息が漏れ続けていた。

無機質な白いセーフルーム。ナオキとセリアは、回復ポーションで怪我こそ治ったものの、強烈な脱水症状と飢餓感に苛まれ、冷たい床の上に倒れ込んでいた。


「水……。ポーションじゃ、渇きは癒えねぇ……っ」


ナオキの視界が、チカチカと明滅する。唾液すら出ず、喉が張り付いて呼吸すら苦しい。

隣でへたり込んでいるセリアも、ひび割れた唇を震わせ、限界を迎えていた。


「ナオキ様……。この部屋には、水滴一つ……ありません……っどこかに探しに行かないと」


その時だった。

二人の目の前の空間に、突如としてノイズのような幾何学模様が走り、バチバチッと激しいスパークが弾けた。


「……なんだ!?」


ナオキが最後の力を振り絞って身体を起こした、次の瞬間。

空間の歪みから、ボトボトッと『異物』が吐き出されるようにして白い床の上に転がり落ちてきた。


「……は?」


ナオキは、自分の目を疑った。

そこにあったのは、先ほどのポーションの山積み。それだけではない。

たっぷりと澄んだ水が入った水筒。高カロリーの携行食料。清潔な消毒キット。

さらには、強烈な魔力を帯びたミスリルの短剣と、真新しい防具一式までもが、山積みになっていたのだ。


「ナ、オキ様……これは……」

「…………」


セリアが震える声で尋ねるが、ナオキは無言のまま、その物資の山を見つめていた。

システムがこんな大盤振る舞いをするわけがない。チートを全没収するような悪意の塊のダンジョンが、こんなに至れり尽くせりの「救済」を用意するはずがない。


ナオキは震える手で水筒を拾い上げ、すべてを悟った。


「……バカ共が」


ナオキの口から、ひどくかすれた、けれど熱を帯びた声が漏れた。

『YES』を押して逃げ出したんじゃない。あいつらは、あの瞬間から一秒たりとも休まず、俺を生かすための『反撃』を続けていたのだ。


「……っ、クソッ……最高に、重てぇ愛じゃねぇか……っ」


ナオキは水筒を握りしめたまま、うつむいて顔を歪めた。

チート(感覚共有)が切れて、自分がどれだけ愛されているか疑心暗鬼になっていたのは、あいつらだけじゃなかった。俺自身も、二人に冷たい態度を取ってしまい、心のどこかで『本当にアイリとツカサに見限られたんじゃないか』と、ほんのわずかでも不安に思っていたのだ。


「セリア。……飲め」

「っ、はい……!」


ナオキから水筒を受け取ったセリアは、一気に水を喉の奥へと流し込んだ。

「ぷはっ……! あぁっ……水が、命が……っ」

ナオキもまた、もう一つの水筒を掴み、乾ききった身体に清らかな水を注ぎ込む。食料を胃に流し込み、急速に全身の細胞が『生き返る』のを感じた。


「ナオキ様……これは、一体……?」

「俺の、世界一図太くて、面倒くさくて、愛おしい嫁たちだよ」


ナオキはミスリルの短剣を手に取り、その鋭い刃先を見つめてニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。

極限のサバイバルを強制された生身の身体に、愛する女たちが命を削って届けてくれた『最高の武器と防具』。


「アイリ、ツカサ。……ありがとう。お前らの想い、しかと受け取った」


声は届かない。それでもナオキは、地上にいるであろう二人の妻に向かって、誰にも見せないような悪びれた笑みを浮かべて呟いた。


チートを奪われ、圧倒的な弱者に落とされ、妻たちとの繋がりを切断された。

それでも、俺たちはただの「生身の人間」としての泥臭い執念と、絶対に切れない狂気じみた愛情だけで、ダンジョンの底を完全にぶち抜いてやる。


「行くぞ、セリア。……俺たちを待ってる、最高の家族のところへ」

「……はいっ! どこまでも、お供いたします!」


アイリとツカサが送ってくれた防具を身に纏い、リュックにすべての物資を詰め込む。真新しい短剣を両手に握りしめ長剣までも携えた二人は、互いの存在と、はっきりと感じる「外側からの絆」を支えに、最深部へ向かって足を踏み出した。


その足はもう重くはない。

そしてその顔には、理不尽な世界の盤面を覆す誇り高い笑みが、蘇っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ