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第五十一話

二人の足音が遠ざかる。ついていかなければならない。

しかし、大好きなナオキに、精神的に、本当に見捨てられた。

その現実が突きつけられた瞬間、恐怖と自己嫌悪で、二人は泥水の上にへたり込んだまま、声にならない絶望の嗚咽を漏らすことしかできず、動けずにいた。


そのとき、ダンジョン内に音声が響いた。


『『『こちらは、ダンジョンシステムです。対象者【アイリ】【ツカサ】の強烈な精神的渇望により、対象者【アイリ】【ツカサ】のダンジョン脱出が可能となりました。

テレポート脱出条件:対象者【アイリ】【ツカサ】の強烈なアイデンティティである【ナオキ】との【婚約破棄】が必要となります。同意しますか? YES / NO』』』


無機質で、どこか人間を嘲笑うかのようなダンジョンのアナウンスが、冷たい地下坑道に響き渡った。

チートもUIも奪われたこの『廃棄区画』において、それはシステム側から提示された、あまりにも悪意に満ちた唯一の「逃げ道」だった。


泥水の中にへたり込んでいたアイリとツカサの目の前に、『YES / NO』の淡い光の文字が浮かび上がる。


「……婚約、破棄……」


アイリの口から、掠れた声が漏れた。

先ほどまでナオキに向けられていた絶望と恐怖が、その文字を見た瞬間、ひどく冷たい『諦め』へと変わっていくのを感じた。


(……これなら、もうナオキの邪魔にならなくて済む)


ナオキの冷たい視線に怯えることもない。足手まといになって、彼の足を引っ張る自己嫌悪に苦しむこともない。

今『YES』を選べば、この息の詰まるような地獄から解放されて、安全な地上へ帰れる。ナオキとセリアだけで進めば、魔物から逃げることだってできるのだ。これ以上怪我を増やす可能性も減る。


「……合理的、ですね」


隣で、ツカサが泥だらけの眼鏡を押し上げながら、ひどく乾いた声で呟いた。


「今の私たちは、ただの重荷です。ここで私たちが『YES』を押してログアウトすれば、ご主人様とセリアの生存確率も、ルカ様を救える確率も跳ね上がる。……コンサルタントとして、これ以上ない最適解です」

「ツカサさん……」

「押しましょう、アイリ様。私たちはもう、ここでお役御免です」


ツカサの声は震えていた。強がってロジックで武装しているが、その実、ナオキに拒絶された痛みに耐えられなかった。


アイリもまた、ポロポロと涙をこぼしながら、震える指先を『YES』の文字へと伸ばす。


「ごめんね、ナオキ。……私、役に立てなくて……」


指先が、光のパネルに触れそうになった、その時。


「……おい、待て」


バシャッ!と泥水を強く蹴り飛ばす音と共に、先を歩いていたはずのナオキが戻ってきて、アイリの腕をガシッと掴んだ。


「な……おき……?」


振り返ったナオキの顔には、いつもの余裕や、魔王のような不敵な笑みはなかった。

そこにあったのは、ひどく焦燥に駆られた、一人の不器用な男としての『動揺』だった。


「お前ら……本気でそれ、押すつもりか?」

「だって……」


アイリは泣きじゃくりながら、掴まれた腕を振り払おうとした。


「ナオキにとって、今の私たちはただの足手まといでしょ!? そんなの、一緒にいたって苦しいだけだよッ! 私たちが消えた方が、ナオキもやりやすいでしょ!?」

「そうですわ」


ツカサもまた、ナオキから目を逸らしながら早口で捲し立てる。


「貴方は目的のために冷酷になれる人です。役に立たないなら切り捨てるのが貴方のやり方でしょう。だったら、私たちが自ら身を引くのが一番の手間省き――」

「勝手に俺の考えを決めつけるなッ!!」


ナオキの怒号が、冷たい地下坑道にビリビリと反響した。

それは、魔物に向けられるような冷徹な殺意ではない。ひどく人間臭くて、泥臭い、心の底からの『マジギレ』だった。


アイリとツカサは、ビクッと肩を跳ねさせて硬直する。


「足手まといだから切り捨てる? ……ふざけんな。てめぇらのその安っぽい悲劇のヒロイン面、マジで吐き気がするぞ」


ナオキは血の滲む肩で荒い息を吐きながら、二人を心の底から軽蔑するように睨み下ろした。極限状態の中でずっと抑え込んでいたイライラと、信じていたはずの共犯者たちに向けられたどす黒い失望が、一気に口をついて出た。


「チートが切れた途端にこれかよ。魔法で頭の中が繋がってなきゃ、俺がてめぇらをどう思ってるかも信じられねぇのか。今まで俺たちが一緒に泥水すすって、死線くぐり抜けてきた時間は……全部、システム様の『感覚共有』で補強されただけの、薄っぺらいハリボテだったって言うのかよ!」

「ち、違うっ、私たちは……っ」

「違わねぇだろうが! 実際てめぇらは今、ちょっと俺の愛想が悪かっただけで勝手に絶望して、こんなクソみたいなシステムのアナウンスに乗っかって俺から逃げようとしてるじゃねぇか!」


ナオキは泥水の中を一歩踏み出し、怯えて後ずさるツカサの胸ぐらを強引に掴み上げた。


「ああっ、そうだよ! 今のてめぇらは完全に足手まといだ! 魔法がなきゃビビって動けねぇし、計算もできねぇ。暗闇でギャーギャー喚いて魔物を引き寄せる。控えめに言って最悪だ!」

「ひぐっ……っ」

「だがな、俺がいつ『役に立たねぇから捨てる』なんて一言でも言った!? いつ俺が『完璧な道具でいろ』なんて言ったんだよ!!」


ナオキはツカサを突き飛ばすように手放し、今度は泣き崩れているアイリに向けて怒りをぶちまけた。


「ルカのためだの、俺の生存確率のためだの、もっともらしい綺麗事並べてんじゃねぇ! てめぇらが『YES』を押そうとしたのは、ただ自分がみじめで怖いから逃げたいだけだろ! 俺に足手まといだって見下されるのが耐えられないから、傷つく前に自分から尻尾巻いて逃げようとしてるだけじゃねぇかッ!」

「あ……ぁ……っ」

「俺が何のためにセリアを前に出したと思ってんだ。てめぇらが今は戦えねぇ足手まといだから、死なせねぇために安全圏に置いたんだろうが! なのに勝手に被害者ぶって、勝手に俺を冷酷なバケモノ扱いして、勝手に……俺の前から消えようとしてんじゃねぇよッ!! 俺は、そんな軽々しく、お前らと結婚したわけじゃねえぞ……」


怒りと疲労で、ナオキの声はガラガラに掠れていた。

怪我をした肩からは再び血が流れ出しているが、彼はそんなこと気にも留めず、ひどく苛立った様子で自分の頭を乱暴に掻き毟った。


「……役に立つかどうかで俺が隣にいる女を決めてると思ってたことが、ショックだったよ」


ナオキは、放心していた。

冷たい泥水の中にへたり込み、血まみれの頭を抱えるナオキ。


その、あまりにも人間臭くて、傷ついた男の弱音。

それを聞いた瞬間――アイリとツカサの胸の内で、絶望と恐怖で縮み上がっていた「何か」が、凄まじい勢いで反転し、熱を持って膨れ上がった。


(なんだ……なんなの、それ)


ナオキは、自分たちを見捨ててなんかいなかった。

ただ不器用なだけで、必死に守ろうとしてくれていて、それなのに自分たちが勝手に疑って逃げようとしたことに、本気で傷ついていたのだ。


その事実が腑に落ちた途端、アイリの目からポロポロとこぼれていた悲壮な涙がピタリと止まった。

代わりに込み上げてきたのは、圧倒的な安堵と――それを遥かに上回る、理不尽なまでの『怒り』だった。


バシャッ!!


「……っ」


ナオキが顔を上げる。アイリが両手で掬った泥水が、ナオキの顔面に思い切りぶちまけられていた。


「は……? おい、アイリ、てめぇ……」

「ふざけないでよッ!!」


アイリは立ち上がり、泥だらけの拳を握りしめて、ナオキを見下ろして金切り声を上げた。


「わかるわけないじゃん!! 魔法がなくなって、真っ暗で、死にそうで……そんな時にナオキは優しくしてくれなかったじゃない!! ずっと怖い顔して、私たちを睨んで、『足手まとい』って言ったのはそっちでしょ!!」

「そうです……アイリ様の言う通りですわッ!!」


ツカサもまた、岩壁からバンッと手を離して立ち上がり、泥に汚れた眼鏡の奥からナオキを思い切り睨みつけた。

先ほどまでの震えるような自己嫌悪はどこへやら、その瞳には理詰めの怒りが煌々と燃え盛っている。


「勝手にショックを受けて被害者ぶらないでください! 逆ギレしたいのはこちらです! 貴方はセリアとだけ業務連絡を交わし、私たちには胸ぐらをつかんで暴言と冷酷な命令のみ! その状況で『言葉にしなくても俺の愛を信じろ』だなんて、傲慢にも程がありますッ!!」

「なっ……お前ら、自分の盛大な勘違いを棚に上げて……ッ!」

「勘違いさせたのはナオキでしょ!!」


アイリが地団駄を踏み、泥水を激しく跳ね飛ばす。


「いつもみたいに、心の中が覗けないんだからっ! 『お前らを守るために後ろに下げた』なら、そう口で言えばいいじゃない! なのに一人で勝手に背負い込んで、勝手に苛立って、私たちが怯えたら『ショックだった』!? ナオキのバカ!」

「アイリ様の言う通りです! 貴方のその『俺についてこい(説明は一切しない)』という昭和の化石のようなスタンスが、この致命的なすれ違いを生んだんです! コンサルタントとして言わせていただきますが、貴方のマネジメント能力はゼロですわ!!」

「あぁ!?」


ナオキもついにブチギレて立ち上がった。


「死ぬか生きるかの土壇場で、いちいち『今から君たちを守るためにセリアを前に出すよ、愛してるよ』なんてご機嫌取りの解説してられるか! てめぇらこそ、今まで俺の何を見てきたんだ! 俺がそんな理由でてめぇらを見捨てるような安い男に見えたのかよッ!!」

「見えたよ!! だって魔法が切れたナオキ、めちゃくちゃ目つき悪くて人殺しの顔してたもん!!」

「血まみれで理不尽に怒鳴るサイコパスにしか見えませんでしたわ!!」

「てめぇら……ッ!!」


暗く冷たい地下坑道。迫り来る死の恐怖も、システムからの悪意あるログアウトの誘いも、今は完全に蚊帳の外だった。

泥水にまみれ、血を流し、互いに指を差し合って、喉が枯れるほどの怒鳴り合い。


「――いい加減にしてくださいませ、お二人ともッ!!」


横穴に、セリアの鋭い一喝が響き渡った。


「え……っ」

「セリア……?」


アイリとツカサがビクッと肩を揺らし、ナオキも目を丸くして振り返る。

いつもは二人の正妻アイリとツカサに対して一歩引いて控えめに振る舞っていたセリアが、泥とゴブリンの返り血にまみれた顔で、本気の怒りを滲ませて二人を睨みつけていた。


「ナオキ様の言葉が足りないのは、今に始まったことではありません! ですが、アイリ様もツカサ様も、ナオキ様が生身でどれだけ血を流しているか見えないのですか!?」


セリアは足早に歩み寄ると、ナオキの肩口で血を吸って赤黒く染まっている止血布をきつく縛り直した。


「ぐっ……」

「申し訳ありませんナオキ様、少し痛みますよ。……お二人とも、ナオキ様は先ほどからずっと、お二人を庇って戦い続けておられるのですよ!? これ以上大声を出して魔物を呼んで、ナオキ様を過労死させるおつもりですか! 痴話喧嘩なら、地上に帰ってベッドの上でいくらでもやってください!」


セリアの有無を言わさぬ正論と、生存者としてのドス黒い迫力に、アイリとツカサはハッとして口をつぐんだ。

自分たちの不安と怒りにかまけて、ナオキが今も酷い怪我を負ったまま立っていることを、完全に棚に上げていたのだ。


「……ごめ、なさい」


アイリがシュンと肩を落とす。

すると、セリアは今度はクルッとナオキの方を向き、ジトッとした目を向けた。


「ナオキ様もです。気が立っておられるのは分かりますが……お二人との婚姻を生存以上に大事にされているのはわかりましたので怒鳴るのはやめてください。今は一滴でも血と体力を温存すべきです」

「なっ……俺は生存を優先して……」

「いえ、とても大事なことです。私は妻ではありません。だからこそ、私には分かります」

「……」


ナオキはバツが悪そうにそっぽを向いた。


そのやり取りを見て。

アイリとツカサは、ようやく自分たちの置かれている状況と、ナオキの不器用すぎる本音を完全に理解した。


ナオキは言葉が足りないし、目つきも悪いし、サイコパスみたいに怖い。だけど、絶対に自分たちとの婚姻を捨てたくないという意地と、無事に帰ることの境目にいるのだ。そしてそれにまた、怒りがこみあげてくる。


「……だいたいねぇ! 婚約破棄なんてふざけた文字出されて、私たちがどれだけ悲しかったと思ってんのよッ!!ナオキにプロポーズされて、結婚出来て、私がどれだけ、嬉しかったか、なんでナオキには分かんないの!!」


アイリは泥水に塗れた顔をぐしゃぐしゃにして、声を抑えようとしながら喉が裂けんばかりの声でナオキに叫んだ。


「それでも、ナオキのために『YES』を押そうって思ったのに! なんで分かってくれないの!!」

「アイリ……」

「自分がみじめだから逃げようとしたんじゃない! それだってもちろんあるけどさ。足手まといの私たちが消えれば、身軽になったナオキとセリアちゃんなら安全に攻略して……ルカちゃんを助けられるって思ったからだよっ!!」


アイリは地団駄を踏み、泥水を激しく跳ね飛ばした。


「大好きな人に『お荷物』って言われて別れるのが、どれだけ絶望的か分かんないの!? 私だって、ずっとナオキの隣にいたかった……っ! なのに、ナオキとルカちゃんが助かるならって……自分の心臓えぐり出すみたいな気持ちで選ぼうとしたのに……っ!」


アイリの悲痛な叫びに、ツカサもまた、泥だらけの両手で顔を覆って泣き崩れた。


「……アイリ様の、おっしゃる通りですわ……っ。私が提示した『お役御免』という最適解は、私自身の生存確率を上げるためではありません……っ! 愛するご主人様を、こんな泥沼の底で死なせないための、私なりの……血を吐くような『自己犠牲』だったんです……ッ!」


「「ナオキ(あなた)との大事な婚姻が、簡単に捨てられるわけ、ないでしょぉぉっ!!!!」」


アイリとツカサ声にならない絶叫が、俺の体の奥の奥まで響き渡った。

自分が逃げたかったからじゃない。ただ純粋に、ナオキの命を最優先にした結果の、身を切るような「別れ」の選択だったのだ。それを「自分がみじめだから尻尾を巻いた」と片付けられたことが、彼女たちは何よりも悔しくて、悲しかった。


「…………」


その痛切な本音を叩きつけられ。

ナオキは、今度こそ完全に言葉を失っていた。


(……俺のため、か)


自分が足手まといだから。ナオキの生存確率を上げるためだから。

この二人は、極限の恐怖の中で心をズタズタに引き裂きながら、それでも最後には『俺の命』を天秤の重い方に乗せたのだ。


「……あー」


ナオキは、空を仰ぎ、血に濡れた手で自分の顔を深く覆った。


「……マジで、俺がクソバカだった」


ポツリと漏れたその声は、怒りでも苛立ちでもなく、己の浅はかさを心底恥じる、ただの男の降伏宣言だった。


ナオキは無言のまま泥水の中を歩み寄り、泣きじゃくるアイリとツカサの首根っこを引き寄せ、怪我をした肩も構わずに二人を思い切り強く抱きしめた。


「な、おき……っ」

「……っ」

「悪かった」


泥と血の匂いが混ざり合う中、ナオキは二人の耳元で低く、けれど確かに熱を帯びた声で囁いた。


「アイリとツカサの覚悟を勘違いして、安い言葉で罵った。……足手まといだなんて言って、悪かった」

「ナオキ……っ」

「だがな、一つだけ言っておく。俺の命を生かすために、二人との婚約が消えるなんて、耐えられない」


ナオキの腕に込められた、骨が軋むほどの強い力。

それは、魔法の繋がりなんかよりもずっと深く、重たくて、独占欲にまみれた『愛の証明』だった。


「……っ、うん……っ」


ナオキの胸の中で、アイリは子供のように泣きじゃくった。

すれ違い、傷つけ合い、それでも最後に残ったのは、どうしようもないほどの互いへの執着だった。

自分がどれだけ愛されているか、痛いほどに伝わってきた。


だからこそ――アイリは、ナオキの胸をそっと押し返し、真っ直ぐに彼を見つめ返した。


「……ナオキ。分かってくれて、ありがとう」

「アイリ?」

「だから……やっぱり、私たち『YES』を押すよ」


その言葉に、ナオキの表情がスッと強張った。


「お前、俺の話聞いてたか?――」

「違うのッ!」


アイリは、ナオキの口を泥だらけの手で塞いだ。


「逃げるんじゃない。ナオキが私たちのことを足手まといじゃなくて、本当に大切な人だって思ってくれてるのが分かったから。……だからこそ、ここでナオキの足枷になるわけにはいかないの」

「アイリ様の言う通りですわ」


ツカサもまた、涙を拭い、ひび割れた眼鏡を押し上げてナオキを真っ直ぐに見据えた。


「システム上の『婚約破棄』など、ただの書類上の不備、一時的なデバフに過ぎません。私たちが本当に恐れていたのは、ご主人様の心が私たちから離れることでした。……でも、それが杞憂だと分かった今、この悪意あるログアウト機能は、ルカ様を救うための『最高の戦略的撤退ルート』になります」

「ふざけんな……ッ! どんな理屈並べようと、システムに俺たちの関係を『破棄』されるんだぞ! 二人との繋がりを、こんな悪意あるダンジョンのシステムで切られてたまるかッ!」


ナオキは本気で焦り、二人の腕を掴もうとした。

だが、アイリはその手を両手で優しく包み込み、ボロボロの顔で、この泥水の中で一番綺麗な笑顔を向けた。


「……だから、約束して」


アイリの瞳が、暗闇の中で強い光を放つ。


「帰ってきたら。……もう一回、私たちと結婚して」

「っ……」

「システムが何度私たちの関係を初期化しようと、力ずくで書き換えてくださいませ」


ツカサも、ナオキの背中に回した手をギュッと握りしめた。


「地上に戻ったら、秒で再契約(再婚)していただきます。……その時は、言葉が足りないなんて言い訳、絶対に許しませんからね」


極限状態の泥沼の中で。

魔法の繋がりを捨ててでも、愛する男を死なせないために、あえてシステムによる『縁切り』を受け入れる。

それは、逃げでも諦めでもない。互いの愛情を完全に信じ切ったからこそできる、究極の信頼の証だった。


ナオキは、二人の揺るぎない瞳を見つめ返し――やがて、深く、長く息を吐き出した。


「……マジで、最高に図太くて、かっこいい嫁たちだよ」


ナオキは血の滲む手で自分の顔を覆い、呆れたように、けれど本気で愛おしそうに笑った。

そして、アイリとツカサの後頭部を引き寄せ、三人の額をガンッ!と痛いほどにぶつけ合わせた。


「っ!?」

「覚えてろ。地上に帰ったら、嫌ってほど愛の言葉を吐いてやる。逃げようとしても遅いからな」

「……当たり前でしょ。ずっと待ってる」

「ええ。首を洗って待っていてくださいませ」


アイリとツカサは、ナオキの体温を最後に深く刻み込むと、迷うことなく空中に浮かぶ『YES』の文字に手を伸ばした。


『『『……対象者【アイリ】【ツカサ】の【YES】を確認。

 条件:【ナオキ】との婚約破棄を実行します。

 対象者をダンジョン外の安全圏へ強制転送ログアウトします』』』


無機質なシステム音声と共に、二人の身体が淡い光の粒子に包まれていく。


「ナオキ! セリアちゃん! 絶対に死なないでねッ!!」

「セリア様、よろしくお願いしますわ……ッ!」

「ああ。任せろ」

「はい!」


ナオキとセリアが短く応えた直後、光が弾け、アイリとツカサの姿は冷たい地下坑道から完全に消失した。


光の粒子が完全に消え去り、あとには冷たい泥と血の匂いだけが残った。

その、ひどく空虚な暗闇の中で。


「…………」


ナオキはうつむいたまま、ピクリとも動かなかった。

繋がりなどなくても、確かにそこにあったはずの、アイリとツカサという二人の妻との絶対的な『リンク』。それを、こんな悪意に満ちたダンジョンの横暴によって強制的に切断されたのだ。


一時的な撤退だと頭では分かっている。必ず地上で再婚すると約束した。

それでも――己の女たちに、泣きながらそんな苦渋の選択を強いたこのふざけたダンジョンに対する、煮えたぎるような『怒り』と『殺意』が、ナオキの生身の奥底で臨界点を突破していた。


ゴクッ、と。

背後に控えていたセリアの喉が、引き攣ったように鳴った。


「……ナ、オキ……様……?」


声をかけたセリアは、無意識のうちに半歩、泥水の中を後ずさっていた。

スラムの地下牢でネズミと死肉を奪い合い、帝国の拷問すら無表情で耐え抜いてきた彼女の『生存本能』が、今、かつてないほどの最大級の警鐘を鳴らしていたのだ。


チートなど一切使えないはずだ。魔力なんて一滴も発していない。

それなのに、うつむくナオキの背中から立ち上る、純度100%のドス黒い『殺意のオーラ』が、物理的な重圧となってセリアの呼吸を浅くさせていた。触れれば切れるどころではない。近づくだけで精神が押し潰されそうになる、ただの人間が放っていいはずのない異常なプレッシャー。


(怖い……っ。二人の前では全然本気じゃなかったんだ。これが、ナオキ様の……本気の、怒り……っ)


狂信的なまでに彼を慕うセリアでさえ、本能的な恐怖で指先がガタガタと震え出し、握っていた石を取り落としそうになるほどだった。


「……セリア」


ナオキが、ひどく低く、地の底から響くような声で呼んだ。


「は、はいッ……!」

「次が来るぞ。さっきの大きな声と血の匂いで……群れだ」


ナオキがゆっくりと顔を上げる。

泥に汚れた前髪の隙間から覗くその瞳は、もはや人間のそれではなく、理不尽なシステムそのものを物理的に喰い殺そうとする『魔王』の眼光だった。


「……俺は今、俺から妻を奪ったこのクソダンジョンに、猛烈に腹が立ってる」


ナオキは地面に落ちていたアイリのサバイバルナイフを拾い上げ、両手に一本ずつナイフを逆手で構えた。肩の傷から流れる血など、もはや気にする素振りさえない。


「全員、ミンチにしてこのゴミ箱の底に沈めるぞ。一匹たりとも生かして帰すな」


その、氷のように冷たく、けれど地獄のように熱い殺意の宣告に。

セリアは恐怖でガチガチに震えながらも、同時にどうしようもないほどの恍惚に背筋を粟立てた。


「――承知いたしました、我が主(ご主人様)ッ!」

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