第四十九話
トウヤにルカをを託し、ナオキたち大人組(+セリア)の四人は、旧・神聖グリニア帝国の最深部――地図にも載っていない奈落の底、『廃棄区画』の入り口へと足を踏み入れた。
そこは、荘厳な神殿などではなく、無骨で巨大な金属と岩盤が剥き出しになった、巨大な「縦穴」だった。底の見えない暗闇からは、生暖かい風と、カビと鉄錆の混じったようなひどく古い空気が吹き上げてくる。
「……行くぞ」
ナオキを先頭に、アイリ、ツカサ、セリアが続く。
境界線を示すように引かれた、古びた赤茶色のラインを一歩跨いだ、その瞬間だった。
『――ッ!?』
四人の脳内を、ブツンッ!という、太いケーブルが強制的に引っこ抜かれたような暴力的なノイズが駆け抜けた。
「あ、ぁ……っ!?」
最初に膝を突いたのは、セリアだった。
「セリアちゃん!? 大丈夫……っ、くっ、なにこれ……頭が、急に重く……っ」
アイリもまた、自分のこめかみを強く押さえながらその場にしゃがみ込む。
いつもなら、四人の胸の奥で常に脈打ち、互いの体温と感情を伝え合っていた――【感覚共有ライン】が、完全に「切断」されていた。
それだけではない。
「ご、ご主人様……。私の視界から、システムUIがすべて消失しました……。それに、頭の……【知力Lv5】の高速演算機能が、まったく働きません……っ。思考が、ひどく……『遅い』……」
ツカサが、レンズの奥で震える瞳をナオキに向けた。彼女の最大の武器である、様々な盤面をハックするほどの知能が、ただの「頭の回転が早い人間」レベルにまで強制的にスケールダウンさせられていたのだ。
ナオキは無言のまま、自分の指先を見つめた。
普段なら、どんな劣悪な環境でも一瞬で快適な空間を作り出す、彼の絶対的なジョーカーである【生活魔法】。指先に小さな火を起こす程度の初歩的な魔力行使。
――しかし、何も起きない。
火花ひとつ、魔力の残滓ひとつ、発生しなかった。
「……なるほどな」
ナオキは、指先を見つめたまま、低く唸った。
「ここは、文字通りエラーやバグを『廃棄』するためのゴミ箱だ。……一切の魔法、スキル、チート……システムの恩恵が、完全に遮断される『システム外の領域』ってわけだ」
その事実が意味することは、あまりにも絶望的だった。
圧倒的な身体能力も、一瞬で傷を癒やす魔法も、そして、感覚共有も。
すべてを剥ぎ取られた彼らは今、この暗く冷たい地下深くで、ただの『脆弱な人間』に成り下がってしまったのだ。
「そんな……。じゃあ、私たちは今、何の力もない……ただの人間ってこと……?」
アイリが、頼りなく自分の両手を見つめる。チートによる身体強化が消え去った彼女の腕は、本来の華奢で非力な少女のものだった。
「ひぐっ……ナ、ナオキ、様……っ。繋がりが、ナオキ様の声が、頭から聞こえないっ……! こわい、です……っ」
セリアは、パニックを起こしたように自分の頭を抱え、ガタガタと震え始めた。
感覚共有の切断は、己の存在意義が引き剥がされるのに等しい恐怖だった。
「これは無理だな、一旦撤退して、対策を考え直そう」
だが、入り口に引き返そうとすると、強力な結界が張られており、外に出ることができなくなっていた。
「な・・・ここまで厳重な罠に嵌められるとは」
ナオキは動揺を隠すように静かにセリアの前にしゃがみ込むと、その華奢な肩を、生身の、体温を持った手で力強くガシッと掴んだ。
「――っ! ナ、オキ様……?」
「よく聞け、お前ら。確かにチートは消えたし出られなくなった。だが、それは『魔薬の副作用』もここでは完全にストップするってことだ。頭の中が静かだろ?」
ナオキの言葉に、アイリとツカサがハッと顔を上げる。
確かに、常に脳を焼き焦がしていたあのドロドロとした熱(魔力リソースの暴走)が、嘘のように消え去っていた。
「おそらくこういうダンジョンはクリアすれば出口に飛ばされるのが鉄則だ。問題ないはずだ」
ナオキは、恐怖に震えるセリアの頭をガシガシと乱暴に撫で回し、立ち上がった。
「・・・食料や水も、バッグから消えてるな。強制没収ってか。……久しぶりに、本格的にきついサバイバルになりそうだな」
ただの人間として、絶対的な絶望に放り込まれた。
少しでも怪我をすれば致命傷になり、飢えと渇きがリアルに内臓を苛む、完全な『サバイバル』。
「……ふふっ。ご主人様は、本当に底意地が悪いですね。元コンサルの私に、肉体労働と泥遊びを強要するとは」
ツカサが、小さくため息をつきながらも、眼鏡を押し上げて立ち上がった。その瞳には、かつて死線をくぐり抜けてきた生身の女としての、鋭い光が宿っている。
「もう、ナオキのバカ。……でも、ナオキと一緒なら、どんなものだって美味しいスープにしてあげるんだから」
アイリもまた、パンッと両頬を叩いて気合を入れると、腰に下げたサバイバルナイフの柄を力強く握りしめた。
「わ、私も……っ! ナオキ様の手足として、この命が尽きるまで、這いつくばってでもお供します……っ!」
セリアは、ナオキに触れられた肩の温もりを支えに、震える足で立ち上がった。魔法の繋がりがなくても、彼に触れられた確かな生身の感覚が、彼女の狂気的な忠誠心を再び熱く燃え上がらせていた。
「よし、行くぞ」
圧倒的なアドバンテージを失い、頼れるものは己の肉体と知恵、そして互いの存在だけ。
光の勇者たちが地上で命懸けの試練に挑むその足元で、ただの「人間」に戻った大人たちの、命の重みと泥と血にまみれた、極限のサバイバルが幕を開けた。
*****
冷たく、湿った風が吹き抜ける地下坑道。
チートを剥奪された四人の足取りは、わずか数十分歩いただけで、鉛のように重くなっていた。
「はぁっ……はぁっ……」
アイリの荒い息遣いが、静寂な暗闇にやけに大きく響く。
これまで無意識に展開されていた【身体強化】が消え去ったことで、己の体重と装備の重さが、そのまま生身の筋肉と関節にのしかかっていたのだ。
「……ストップ」
先頭を進んでいたナオキが、片手を上げて低く囁いた。
その声に、全員がビクッと肩を揺らす。これまでなら【感覚共有】のラインを通じて、ナオキの視覚情報や『警戒しろ』という意思がコンマ数秒で脳内に共有されていた。
だが今は、ナオキの背中を目視し、その声を聞き取らなければ、彼の意図を何一つ汲み取ることができない。「言葉にしなければ伝わらない」という、人間として当たり前の事実が、ひどく恐ろしい縛りプレイのように感じられた。
暗闇の奥。岩陰からズルッ、と這い出てきたのは、薄汚れた緑色の肌を持つ一匹の小鬼だった。
手には錆びた欠けた鉈を持ち、黄色く濁った瞳でこちらを品定めするように見つめている。
「……ゴブリン。最弱の魔物ですわね」
ツカサが眼鏡を押し上げ、冷静を装った声で言った。
「アイリ様。いつも通り、右の死角から踏み込んで――」
「うん、任せて!」
アイリが地面を蹴る。
だが――その踏み込みは、絶望的なまでに『遅かった』。
「えっ……!?」
爆発的な加速を想定していたアイリの身体は、生身の筋力ではそのイメージに全く追いつかず、泥濘んだ地面に足を取られて無様に体勢を崩した。
『ギギャァッ!!』
小鬼が醜い鳴き声を上げ、倒れ込んだアイリの顔面目掛けて、錆びた鉈を容赦なく振り下ろす。
「アイリ様ッ! 避けてッ、距離が……私の計算より、ゴブリンの踏み込みが……っ!」
ツカサが悲鳴のような声を上げた。
【知力Lv5】の演算機能があれば、小鬼の筋力、リーチ、アイリの初速、そのすべてを瞬時に計算し、最適な回避ルートを共有できたはずだ。だが、今の彼女の頭脳はただの『ちょっと頭の回転が速い人』でしかない。情報処理が追いつかず、言葉に出すのも遅れた。
「――っ、くそがッ!」
間一髪。
ナオキが泥水の中へ横っ飛びにダイブし、アイリの華奢な身体を強引に突き飛ばした。
直後、ナオキの肩口を錆びた鉈が掠め、ボトッと嫌な音を立てて生暖かい鮮血が泥に散る。
「ナオキッ!?」
「あなたッ!!」
いつもなら一瞬で治るかすり傷。だが、魔法が使えないこの空間では、ただの出血でも命取りになる。感覚共有が切れても、痛覚は残っているようだった。焼けるような生身の激痛に、ナオキの顔が苦痛に歪む。
『ギャッ! ギギッ!』
獲物が体勢を崩したのを見たゴブリンが、よだれを垂らしながらナオキの上に馬乗りになろうと飛びかかってくる。
魔法陣を展開しようと無意識に動いたナオキの指先からは、当然のごとく何の魔力も生み出されない。
(殺される――!)
アイリとツカサの頭が真っ白になった、その時だった。
「――ナオキ様に、何をしてるんですかァッ!!」
背後から飛び出してきたセリアが、ゴブリンの背中にしがみついた。
その手には武器さえない。彼女は野犬のように、自分の歯をゴブリンの耳と首の境目に力いっぱい突き立て、食いちぎらんばかりに噛み付いたのだ。
『ギャアアァァァッ!?』
「今ですっ! ナオキ様っ!!」
ゴブリンが激痛にパニックを起こしてのけぞった一瞬の隙。
泥まみれのナオキが、腰から抜いたサバイバルナイフを逆手に握り、ゴブリンの顎の下から脳天に向けて、己の体重をすべて乗せて力任せに突き立てた。
ブチブチッ、と肉と骨を断ち切る生々しい感触が手に伝わる。
ドクン、ドクンと痙攣するゴブリンの死体から、酷い悪臭を放つ返り血が、ナオキとセリアの顔や衣服にドバッと降り注いだ。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
「あ、ぁ……っ……」
静まり返る地下空間。
聞こえるのは、泥水の上に倒れ込んだナオキの荒い息遣いと、血の滴る音だけ。
かつて、舞うように戦場を駆け抜けた美少女アイドル。
すべてを盤上で支配した完璧なコンサルタント。
彼らが、たった一匹の最弱の魔物を殺すこともできない。
ナオキとセリアが血と泥と魔物の臓液にまみれて、ようやく一体の息の根を止めたのだ。
「……ナオキ様、お怪我は……っ」
顔の半分を緑色の血で染めたセリアが、自分のエプロンの裾を破り、震える手でナオキの肩の傷口を強く圧迫する。
「セリア……お前、よく……」
「私、昔、森やスラムで奪い合いをしてましたから……。魔物にもよく襲われていました。地下牢も過酷でしたし。殺し合いなら、身体が覚えてます」
セリアはひきつった笑みを浮かべ、ナオキの傷から流れる血を必死に止めようとする。
その異様で、泥臭い生存者のやり取りを。アイリとツカサは、ただへたり込んだまま、呆然と見つめることしかできなかった。
「私の……せいだ。私が、自分の今の身体の重さを分かってなくて……っ、こんな初歩的なミスで、ナオキが……っ」
アイリの大きな瞳が動揺で震える。
「違います……私が、私の計算が遅れたせいです……っ。あなた、申し訳ありません、私、ただの足手まといで……っ」
ツカサもまた、泥に汚れた眼鏡の奥で、かつてないほどの自己嫌悪とパニックに顔を青ざめさせていた。
「おいおい、落ち込んでる暇はねえぞ」
ナオキが、痛みに顔をしかめながら立ち上がる。
「血の匂いで次が来る。早く移動するぞ。……ツカサ、次のルートはどっちだ。アイリ、足は動くか」
ナオキの声には、怒りこそなかったが、いつものような『甘さ』もなかった。
生き残るための、極限の緊張状態。しかし、その声の裏にある感情を、【感覚共有】が切れた今のアイリたちには読み取ることができない。
(ナオキ、もしかして、呆れてる……?)
(私の頭脳が役に立たないなら、私の価値は……?)
冷たい暗闇の中。
言葉にされない不安と疑心暗鬼が、ゆっくりと音もなく黒いシミを広げ始めていた。
血の匂いを振り切るようにして、四人は這々の体で地下坑道を逃げ進んだ。
やがて見つけたのは、岩壁にぽっかりと空いた、大人数人が身を寄せてようやく入れる程度の狭く湿った横穴だった。
「……ここなら、とりあえずは凌げる」
ナオキが壁に背を預け、ズルズルと座り込む。
「ぐっ……」
肩口の傷から、ドクン、ドクンと嫌な脈打ちに合わせて血が滲み出ている。スキルと一緒に感覚もまた喪失するかと思ったがそんなことはなく、生身の肉体は、ただの裂傷ひとつでひどく熱を持ち、体力を急激に奪っていった。
「ナオキ様、動かないでください。血を止めます」
セリアが迷いなく自分のエプロンの端を切り、きつく布を縛り上げた。食料や水と一緒に衛生用品も消えてなくなっていた。
現状でできる最大限、やらないよりはましだろう。
「ごめん、なさい……っ。私が、私が【回復魔法】さえ使えれば……っ」
アイリが震える両手を見つめながらこぼす。
いつもなら、彼女が優しく触れるだけでどんな致命傷も光となって消え去っていた。だが今の彼女は、泥だらけの無力な手で、愛する男の傷口をただ見つめることしかできない。
「アイリ様、泣くのはやめてくださいね。今は大きな声を出さないでください」
セリアが、ナオキの手当てをしながら淡々と告げた。
その瞳は、暗闇の中で魔物の気配を探る野生動物のように冷たく澄んでいる。彼女にとってこの状況は、かつて当たり前のように経験してきた『日常』の延長でしかなかった。
「っ……!」
アイリは唇を強く噛み締めた。
悪気がないのは分かっている。正論だ。だが、新入りの、しかも自分たちが庇護する対象だったはずのセリアに「足手まといの温室育ち」のように扱われた(ように感じた)ことが、ひどくアイリの自尊心を抉った。
「……私の、せいです」
暗闇の隅で、膝を抱えていたツカサが、虚ろな声で呟いた。
泥で汚れ、ヒビの入った眼鏡の奥の瞳は、ひどく怯え、焦点が定まっていなかった。
「私の演算が遅れたせいで。私が、ご主人様の盾になるタイミングを測り違えたせいで……っ。ああ、なんて無能……私の【知力Lv5】はどこに……計算が、確率が弾き出せないっ。頭の中が、重くて……っ」
「ツカサ、落ち着け。誰のせいでもねえ。非常事態だ」
ナオキが痛みを堪えながら声をかけるが、ツカサは耳を塞いで首を横に振った。
「いいえ! 私はご主人様の役に立つための『演算機』です! 頭脳が使えない私なんて、ただの女……っ、戦闘力もない、何の価値もないただのゴミですわっ! 哀れまないでください、そんな目で見ないでくださいっ!!」
「ツカサさん……っ」
ヒステリックに叫ぶツカサを、アイリが落ち着かせるために宥めようと肩に触れるが、ツカサはビクッと怯えてその手を振り払ってしまった。
「触らないでっ……! 分かっています、ご主人様もアイリ様も、本心では今の私を『使えない重荷』だと見下しているんでしょう!? だからそんな、冷たい声で……っ」
「ちがっ……私、大きな声を出すなって言われたから……!」
アイリの胸の奥で、張り詰めていた糸がプツンと切れた。
彼女は縋るような瞳で、暗闇に沈むナオキの顔を見つめた。
「ナオキ……ねえ、ナオキ。思ってないよね……? 魔法が使えなくて、鈍臭くて、ナオキに怪我までさせちゃった私のこと……嫌いになってない、よね……?」
言葉の端々が震えていた。
これまでなら、【感覚共有】を通じて「ナオキがどれほど自分たちを愛し、大切に思っているか」という底知れない熱と安心感が、常に脳を満たしていた。
だが、今は違う。
いつも安心させてくれていた、ずっと依存していたナオキの感情が、感覚共有が切れた彼女たちには届かない。
それだけではない。
ナオキにも、彼女たちがどうしてこの、それどころではない生きるか死ぬかのサバイバルの状況で、自分の愛を疑っているのか、理解できなかった。




