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第四十六話

1階にある豪奢な厨房。

磨き上げられた純銀のティーセットに、香り高い高級な茶葉の匂いが立ち込める中、私は一人でお茶の準備を進めていた。


「ふぅ……」


小さく息を吐き出す。

完璧に整えられた純白のエプロンと、一寸の乱れもない黒のメイド服。けれど、その布地のすぐ下にある私の素肌は、先ほどのお湯の熱と、胸の奥で暴れ回る狂おしいほどの熱情のせいで、未だにチリチリと火照ったままだった。


お湯を注ぐ手元が、微かに震える。頭をよぎるのは、常に私の絶対的な支配者として君臨する、あの方の姿ばかり。


「ん、夕飯の準備か?――お茶か?女性陣はそういうの好きだよな、 助かる」


不意に、厨房の入り口から気怠げな声が響いた。

ビクンッ、と私の肩が大きく跳ねる。振り向かなくても分かる。その少し低くて、どこか面白がるような余裕を含んだ声は、たった今、私がその身を焦がすほどに想い描いていたご主人様のものだったから。


「ナ、ナオキ様……っ!」


振り返ると、そこには首の後ろを揉みながら、やれやれといった様子で厨房に入ってくるナオキ様がいらっしゃった。冷徹な普段のお姿からは想像もつかないほど、少しだけ気の抜けた、無防備なお顔をされている。


「平和になってからのほうがやること多すぎだろ……。ちょうど喉乾いてたんだ、ちょっと水もらえるか?」

「は、はいっ! ただいま!」


私は慌ててグラスに冷たい水を注ぎ、お盆に乗せて彼へと差し出した。

グラスを受け取ってくださる際、そのごつごつとした指先が、私の白い指にほんのわずかに触れる。ただそれだけで、私の脳髄にあの日の【感覚共有】の痺れるような快感がフラッシュバックし、背筋にゾクゾクとする甘い電流が走った。


「ん、サンキュ。……お前、風呂上がりか? いい匂いがするな」

グラスの水を一気に飲み干したナオキ様に、ふと鼻を鳴らして見下ろされる。


「ひゃあっ!? ぁ、はい……っ、先ほど、ミヤビ様たちと……っ」

顔を一瞬で沸騰させた私は、ギュッとエプロンの裾を握りしめて俯いた。彼に「いい匂い」と言われただけで、下腹部の奥がキュンと甘く疼き、立っているのがやっとになる。


そんな私の様子に、ナオキ様はクスリと笑うと、空いた手で私の白銀の髪をポンポンと無造作に撫でてくださった。


「地下牢で初めて会った時は骨と皮だけだったのに、すっかり見違えたな。血色もいいし、よく似合ってるよ、その服」

「あ、ありがとうございます……っ! すべて、ナオキ様が私とニーナを救い出し、この居場所を与えてくださったおかげです……!」

「俺はただ、お前が使える駒だったから拾っただけだ。……まあ、もう帝国も潰れたし、お前もニーナも『自由』だ。ここでメイドの真似事なんてしなくても、好きなところに行って、好きな仕事を見つけて自由に生きていいんだぞ? もちろんその手伝いもする」


ナオキ様は、どこか試すような、冷たくて優しい瞳で私を見つめた。

それは彼なりの、過酷な運命に巻き込んでしまった私への気遣いだったのかもしれない。光の当たる表舞台で、普通の女の子としての幸せを掴む権利が、今の私やニーナにはあるのだと。


しかし――その言葉を聞いた瞬間、私の全身から「メイドとしての控えめな態度」が、音を立てて崩れ去った。


「……っ!! 嫌です!!」


厨房に、私の悲鳴のような、切実すぎる叫びが響き渡った。

ナオキ様がわずかに目を見開く。


私は自分でも信じられないほどの力で、ナオキ様の服の袖を両手でギュッと握りしめ、縋り付くように彼を見上げていた。私の大きな瞳からはポロポロと大粒の涙が溢れ出し、狂気的なまでの依存と愛着がどろどろと渦巻くのが自分でもわかる。


「嫌です……っ! 私を、自由になんてしないでください……っ!!」

「セリア……?」

「私は、普通の幸せなんていりませんっ! 光の当たる場所も、まともな仕事も、何もいらない……っ! 私はただ、ナオキ様の手足として、ナオキ様のためだけに生きたいんです!!」


それは、対等で純粋な「光の告白」とは対極にあるものなのかもしれない。

絶対的なご主人様に己のすべてを捧げ、支配されることの悦びに魂まで浸かりきった、重く、暗く、そしてどこまでも純真な「影の告白」。


「あの日……ナオキ様が、恐怖で壊れそうだった私に、圧倒的な安心と快楽を与えてくださった時から……私の心も、身体も、魂も、すべてはナオキ様のものなんです! アイリ様やツカサ様のような、正妻になれなくても構いません。表向きはただのメイドで構いません……っ」


私は涙で顔をくしゃくしゃにしながら、ナオキ様の腕に自分の頬を擦り付けた。

かつて首を締め付けていた隷属のチョーカー。今はもう何もないその白い首筋を、自ら彼に差し出すようにして、切々と懇願する。


「だから……どうか、私をナオキ様の『影』に置いてください。どんな汚い仕事でも、残酷な命令でも、ナオキ様が望むなら私は喜んでやります! ずっと、ずっと……私をナオキ様の支配下から、手放さないでください……っ!!」

「それは感覚共有で与えてしまった俺の洗脳のようなものだ。アイリとツカサとも考えたんだが、該当の記憶だけ消去する魔法も検討しているところだ。あの時はそうするしかなかったとはいえ、お前を利用しすぎた。迷惑をかけたな」

「やめてください!!!!!」


厨房の冷たい空気を切り裂くような、喉が千切れるほどの悲鳴が飛び出した。

それは、帝国兵の剣を突きつけられた時よりも、地下牢で飢えと寒さに震えていた時よりも、遥かに深く、生々しい絶望に満ちた絶叫だった。


全身から力が抜け、まるで糸の切れた操り人形のように、私はナオキ様の足元へと崩れ落ちる。


「いやっ、嫌です……っ! 記憶を、あの記憶を消すなんて……っ! それは、私から『私』を殺すのと同じです……っ!!」


床に這いつくばるようにして、私はナオキ様のズボンの裾を両手で死に物狂いで握りしめた。

綺麗にお団子に纏めていたはずの白銀の髪が乱れて床に散らばり、大粒の涙が純白のエプロンと冷たい大理石の床に次々と濃いシミを作っていく。


ナオキ様が告げた「記憶の消去」。それは、ご主人様や奥様たちにとっては、私を洗脳状態から解放し、普通の女の子としての自由な人生を歩ませるための、最大限の贖罪であり優しさだったのだろう。


だが、私にとっては全く違った。

あの日、あの部屋で、彼が脳髄に直接流し込んでくれた、あの圧倒的な全能感ととろけるような快楽。バルガスへの恐怖を完全に塗り潰し、魂の底から彼という絶対者に屈服したあの瞬間の記憶こそが、今の私を形作る『すべて』だったのだから。


「洗脳なんかじゃ、ありません……っ! 違います……っ!」


私は、しゃくりあげながら必死に首を横に振る。


「あの時、私の魂を絶望から救い出してくれたのは、間違いなくナオキ様が与えてくださったあの熱だったんです……っ! もし、もしあれが洗脳だったとしても……私は、あの洗脳されたままの私がいい! あの悦びを知らない、ただ何かに怯えるだけの無価値な奴隷に戻るくらいなら……今ここで、ナオキ様の手で殺してください……っ!!」


狂気。

そう呼ぶほかないほどの、異常なまでの執着と依存。

私は自分の額をナオキ様の靴の甲に擦り付けるようにして、己の最も卑屈で、しかし最も純粋な願いを吐き出し続けた。


「迷惑なんかじゃありません! 私は道具です! ナオキ様の手足として使われることこそが、私の存在意義なんです! お願いです……っ、私から、ナオキ様の支配を……あの『救い』を、奪わないで……っ!」


大理石の床に額を擦り付け、血を吐くような思いで懇願する。

だが、どれほど私が身を削って己の狂気的な愛情を訴えようとも、私を見下ろすナオキ様の瞳は、どこまでも静かで、氷のような理性を保っていた。


「……ここまでとはな」


ナオキ様の低く、揺るぎない声が、私の悲鳴を冷酷に断ち切った。


「お前が今叫んでいるその異常な執着は、あの日、俺とアイリとツカサが『感覚共有』という劇薬を使って、お前の脳に無理やり焼き付けたエラーでしかない。バルガスに植え付けられた恐怖の呪縛を解くために、さらに強い依存という『呪い』で上書きしただけだ」

「ちが、違いますっ! これは、私自身の……っ!」

「違わない。お前はただ、俺たちが流し込んだ快楽のオーバードーズでバグっているだけだ。……この狂った異世界で、理不尽に虐げられてきたお前やニーナには、これからは光の当たる場所で、真っ当な幸せを掴む権利がある」


ナオキ様はゆっくりとしゃがみ込むと、縋り付く私の肩に両手を置いた。

その手は温かく、けれど私にとっては死刑宣告も同然だった。


「安心しろ。俺がお前を絶望から救い出したという『事実』と『恩義』の記憶はちゃんと残す。だが、バルガスに刻み込まれた過剰な恐怖と、俺が無理やり与えてしまったあの異常な快楽……お前の精神を縛り付けている二つの鎖は、今ここで断ち切る」


「嫌っ!! やめ、やめてくださいナオキ様っ!! いやああああぁぁっ!!」


ナオキ様の掌から、淡い光を帯びた魔力が放たれた。

精神干渉魔法。あるいは、システムをハックして対象のログを書き換える強引な術式。


ひんやりとした、けれど抗いようのない圧倒的な力が、私の脳髄へと直接侵入してくる。


『――ッ!!』


声にならない悲鳴が、私の喉の奥で凍りついた。

脳内に直接アクセスされ、自分の内側にある最も柔らかく、最も深い部分が、強制的に書き換えられていく感覚。


(あ、あぁ……っ、消え、消えちゃう……っ!)


最初に薄れていったのは、バルガス将軍の記憶だった。

彼の足音を聞くだけで震え上がり、妹の命を盾に取られ、呼吸すら許されなかったあの冷たい絶望の記憶。それがまるで、水に落ちた角砂糖のように、静かに、優しく溶けて消えていく。


バルガスへの恐怖が薄まるのは、本来なら心から安堵すべきことのはずだった。

だが、それに連動して――私の魂の最も深い部分に焼き付けられていた、あの『熱』までが、急速に温度を失い始めたのだ。


ナオキ様が与えてくれた、魂が溶けるほどの圧倒的な多幸感。すべてを支配されることの底知れない安心感。アイリ様やツカサ様と共に味わった、脳髄が焼き切れるような甘い快楽の記憶。


(いやだ……っ! それはだめ! それだけは、奪わないで……っ!)


魂を掻き毟るような悲鳴も虚しく、私の抵抗は絶対的な主の力の前にはあまりにも無力だった。


(やめて……っ、それがないと、私は……っ!)


伸ばした手は空を切り、意識は真っ白な光の底へと完全に沈み込んだ。


***


「…………あれ?」


どれくらいの時間が経ったのか。

私は、大理石の床にぺたんと座り込んだまま、ぽかんと口を開けて瞬きをした。

頬は涙で濡れていて、ひどく息が切れている。でも、自分がなぜこんなにも泣きじゃくっていたのか、その理由がすっぽりと抜け落ちていた。


目の前には、少しだけ悲しそうに、けれど安堵したような顔でこちらを見下ろすナオキ様の姿があった。


「……セリア。気分はどうだ?バルガスという男について何か覚えているか?」

「ナオキ、様……?」


ナオキ様の問いかけに、私は不思議そうに小首を傾げた。

バルガスという名前を思い出そうとしても、ただ「悪い人に捕まっていた」というぼんやりとした事実しか浮かばない。


そして、ナオキ様に対する感情も。

「命を救ってくださった、大恩人」。それ以上でも、それ以下でもない。ただの善良で、普通の女の子としての、綺麗で真っ白な心境がそこにあった。


「私……大丈夫、です。ナオキ様が、私と妹を助けてくださったんですよね……? 本当に、なんとお礼を言ったらいいか……」


見上げる瞳は、どこまでも澄み切っているのが自分でもわかった。狂気的な依存も、底知れない熱情も消え去った、年相応の純真な少女の心。


それを見て、ナオキ様はふぅっと短く息を吐いた。


「……そうか。なら、いい。これからはニーナと一緒に、光の当たる場所で普通の女の子として――」


――ドクンッ。


ナオキ様の言葉の途中で、私の心臓が、ひどく不快な音を立てて跳ねた。


(あれ……?)


私は、自分の胸元をギュッと掴んだ。

おかしい。命の恩人への感謝もある。心は穏やかで、平和なはずだ。

それなのに、私の中には、確かな動揺と【違和感】が生まれていた。


普通の女の子? 光の当たる場所?

違う。そんな生ぬるい言葉でこの私が感情を動かされるはずがない。

私の魂は、もっと熱く、狂おしいほどに絶対的な者でなければ満たされることはないのだから。


ふと、私の指先が、自分の滑らかな首筋に触れた。

かつて隷属のチョーカーが嵌められていた場所。記憶の中では「ただ首輪が外されて自由になった」という事実しかない。


――けれど。


肉体が、魂が、覚えていた。

【誰か】の、脳髄が焼け焦げるような甘い痺れ。下腹部の奥がジンジンと熱を帯び、自分という存在がドロドロに溶かされていくような、あの強烈な快感の『傷跡』。


前世――いや、かつて地球という別の世界で生きていた私の魂の根源は、元来、ひどく冷めきった『欠落者』だった。

私にとって、普通の幸せ、普通の道徳、普通の恋愛というものは、すべてがひどく退屈で、ぬるま湯のようで、私の心を一ミリも満たすことはなかった。何か圧倒的なもの、自分のすべてを根底から塗り潰してくれるような『絶対的な熱』を渇望しながら、結局それを見つけられないまま、空虚な人生を終えた魂。


「いい人に助けてもらった。怖い思いはもうしなくていい。感謝して、平和に生きよう」――そんな、どこにでもいる村娘のような、底の浅い、陳腐でぬるい感情。そんなもので私が、心を動かされるはずがないのだ。


(ふざけるな)


それなのに自分の内側にある「綺麗で真っ白なもの」が心を動かそうとしていることに気づいた瞬間、私の魂の奥底で、前世から引き継いだ傲慢で歪なエゴが、静かに、けれど激しい怒りの炎を上げた。


(私を誰だと思っている。私が、この程度のぬるい救済で、この程度の薄っぺらい恩義だけで腹の底から満たされるような、安い女なわけがないだろう!)


光の当たる場所で、別の誰かと普通の幸せを見つける?


(冗談じゃない。そんな退屈な人生なら、死んだ方がマシだ)


普通の幸せなんていらない。穏やかな日常なんて反吐が出る。

私が欲しいのは、この魂がドロドロに溶けるような圧倒的な熱だけだ。そうだ。私はあの方の手足になりたい。あの方の影として、甘い熱の中に永遠に囚われていたい。そうだろう――!


「返して……っ」


無意識に、口から言葉が漏れていた。


「セリア……?」

ナオキ様が怪訝そうに眉をひそめる。


「返して……返してよッ!!」


私は床に両手をつき、獣のように身を屈めて絶叫した。

消去された真っ白な記憶のキャンバスを、私自身の魂から湧き上がる『渇望』が、真っ黒で甘い泥のような感情で強引に塗り潰していく。


普通の女の子の幸せなんていらない。

穏やかな日常なんていらない。あなたに支配され、あなたに汚され、あなたのためだけに息をする。この歪な精神こそが、私にとっての唯一の真実なのだから――!


「ナオキ様ぁぁぁッ!! 私の、私の全部を……返してぇぇぇっ!!」


私の魂の底から、システムすらも凌駕するほどの、純粋で強烈な『渇望』が爆発した。


その瞬間。

ナオキ様の魔力によって真っ白に初期化されかけていた私の脳内に、突如として無機質なシステムアナウンスがけたたましく鳴り響いた。


『『『【対象者の魂の形『狂信者』と、強烈な従属願望にシステムが呼応します】

 ――ユニークスキル【狂信的愛執レジスト・アブソリュート】を獲得しました』』』


『『『【スキルの自動発動を確認】

 『狂信的愛執』の効果により、マスターから与えられた記憶へのあらゆる外部干渉、および消去コマンドを完全に無効化レジストしました。

 ――これより、失われた記憶領域の、自発的な完全復元ロールバックを実行します』』』


「なっ……!?」


頭上から、ナオキ様の驚愕する声が聞こえる。

彼が私の脳を初期化した精神干渉の魔力が、私の内側から発生した凄まじい熱量によって根こそぎ弾き返され、パリンッ!とガラスが割れるような音を立てて無効化されていく。


「あ……あぁぁぁぁっ……!!」


私の口から、歓喜と快楽が入り混じった、とろけるような甘い悲鳴が漏れた。

完全に取り戻したのだ。ナオキ様に支配される圧倒的な多幸感と快楽の記憶を。自分自身の力で、システムすらも捻じ伏せて、より強固な『呪い』として魂に縛り付けたのだ。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……っ!」


冷たい床の上。

乱れた白銀の髪の隙間から、私はゆっくりと顔を上げる。

その目は、もはや怯えるだけの可憐な少女のものでも、何も知らない純真な女の子のものでもなかった。ナオキ様への常軌を逸した愛情と、彼に支配されることの甘い悦びを知り尽くした、どこまでも艶やかで狂気的な、私の本当の顔。


「……残念、でしたね。ナオキ様」


私は荒い呼吸を繰り返しながら、弾き飛ばされて呆然と立ち尽くすナオキ様の足元へと這い寄り、そのズボンの裾にすりすりと、狂おしいほどの愛着を込めて頬を擦り付けた。


「私、普通の女の子には……なれませんでした。私の魂が、私の身体が……ナオキ様の支配を、あの最高の快楽を、絶対に手放したくないって……叫んだんです」

「お前……俺の魔法を、システムの強制進化で弾き返したっていうのか……?」

「ふふっ……ナオキ様がくれた熱は、私のすべてですから。魔法やスキルなんかじゃ、絶対に奪わせません」


涙で濡れた顔のまま、私は至上の幸福に満ちた笑みを浮かべた。


「もう、洗脳だなんて言わせませんよ? 私は正真正銘、記憶を奪われている状態の自分の意志で、ナオキ様の影になることを望んだんです。……だから、もう二度と、私を自由になんてしないでくださいね?」


理不尽な世界で虐げられてきた私は、与えられた救済を自らの意志で弾き飛ばし、システムさえも捻じ伏せて、愛するご主人様の「所有物」となる道をもぎ取った。


ナオキ様はしばらくの間、目の前で魔力をはじき返されたご自分の手を抱え込み、恍惚とした表情を浮かべる私を見下ろしていたが――やがて、耐えきれなくなったように、腹の底から声を上げて笑い出した。


「あっははははっ! はははっ!! まさか、記憶操作されてもなお、自らの意思で記憶を取り戻すとはな!こんなに驚いたのはルカ以来だぞ!」

「ナオキ様……?」

「……俺の負けだ、セリア。お前のその狂った執着は、もう洗脳ではない。正真正銘、お前自身の歪で立派な『エゴ』だ」


ナオキ様は、私の頬に添えられたご自分の手を裏返し、私の華奢な顎を指先でクイッと持ち上げた。

そのお顔にはもう、不器用な優しさや同情はない。私の狂気的な覚悟を真っ向から受け止める、底知れない笑みが浮かんでいた。


「自分の意志で地獄こっちに残るって決めたなら、もう二度と光の当たる場所へは返してやらねぇぞ。一生、俺の手足として闇の中で踊れ」

「はいっ……! はいっ……!! ナオキ様ぁっ……!」


記憶を奪われるという最大の恐怖を自らの力で乗り越えた私は、嬉し涙をこぼしながら、ご主人様の腕の中に喜び勇んでその身を沈めたのだった。


やがて。


「……はぁ。アイリの言った通りになったな」


ナオキ様の口から、やれやれといったような深いため息がこぼれた。


「え……?」


涙で視界をぼやかせながら、私は恐る恐る顔を上げる。

ナオキ様のお顔には、先ほどまでの冷たい気遣いの色はなく――代わりに、あの日のベッドの上で見せたのと同じ、すべてを掌握し支配する『魔王』の、最高に悪い笑みが浮かんでいた。


「あいつが言ってたんだよ。『セリアちゃんはもう、私たちの毒が骨の髄まで回っちゃってるから、今更解毒剤(記憶消去)なんか渡したら、逆にショック死しちゃうよ』ってな。……女性のことは女性にしかわからないらしい」


ナオキ様はゆっくりとしゃがみ込むと、床に崩れ落ちている私の華奢な顎を、冷たい指先でクイッと強引に持ち上げた。

指先から伝わる彼の体温。ただそれだけで、私の背筋にゾクゾクと甘い電流が走り、恐怖と絶望で冷え切っていた身体が、一瞬にしてカッと熱を持った。


「お前自身が俺の手駒であることをそこまで望むなら、話は別だ。……セリア。お前がその記憶を、俺の支配を望むなら、甘ったれた真似は許さねえぞ」


ナオキ様の深く暗い瞳が、私の魂の奥底までを見透かすように真っ直ぐに射抜く。


「俺の『影』として、一生俺のために汚れ仕事を引き受けろ。俺の命令なら、どんな残酷な真似でも軽くこなせ。その代わり……お前のその狂った忠誠心も、重苦しい感情も、全部俺が一生使って、飼い殺してやる」


それは、記憶消去という「赦し」を取り下げ、永遠の隷属を強いる、本物の悪魔の契約だった。

しかし、私にとってその冷酷な宣告は、世界中のどんな神の祝福よりも、圧倒的な多幸感をもたらす絶対の魔王の救済だったのだ。


「あ……ぁぁっ……!」


私の口から、嗚咽とも歓喜の絶叫ともつかない、震えるような甘い吐息が漏れた。

私は、自分を持ち上げているナオキ様の手に両手で縋り付くように触れると、その手のひらに自分の頬をすりすりと擦り付けた。かつて隷属のチョーカーが嵌められていた滑らかな首筋を、自ら彼に差し出すようにして。


「はいっ……! はいっ……!! ありがとうございます、ナオキ様……っ!!」


ポロポロと嬉し涙をこぼしながら、私は狂おしいほどの熱情を込めて微笑んだ。

記憶を消される恐怖は完全に消え去り、絶対的な主に一生捨てられないという確約を得た歓喜が、私の全身の細胞を甘く痺れさせていた。


「私のすべては、ナオキ様のもの……っ。ナオキ様の命令なら、地獄の底まで喜んでお供します……っ!」



「――ふふっ。合格だよ、セリアちゃん」


ふと、アイリ様の声が響いた。

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