第35話 揺らぐ均衡
セリーヌは椅子に縛られたまま、深く息を吐いた。
胸の奥にまだ残るかすかな希望を手放さぬように、必死に気持ちを繋ぎ止める。
――必ず、来てくれる。
心がそう叫ぶ一方で、「愛してはいない」と突きつけられた言葉が、鋭い棘のように胸を刺す。
「虚しい目をしているな」
冷ややかな声が頭上から落ちた。見上げれば、エドモンが不敵な笑みを浮かべている。
「君を囚えていると知ったとき、レオンハルトはどう動くか……それが楽しみだ。激情して突っ込めば“軽率な男”と王家に映る。逆に動かなければ、“妻すら見捨てる冷酷な公爵”だ。どちらにせよ、奴の評価は地に堕ちる」
「……どうしてそこまでして……」
セリーヌは震える声で問い返す。
エドモンの笑みがゆがむ。
「理由を知りたいか。なら教えてやろう」
彼は一歩近づき、囁くように言った。
「グレイヴ家など、王家に媚びて地位を得た成り上がりにすぎん。数代前、北方戦線で功績を立て、公爵位を授かった。だがそれは一時の栄光だ。もともと王国を支えたのはヴァロアだ。交易で富をもたらし、王に忠義を尽くしてきたのは我らなのだ」
声は次第に熱を帯びる。
「だが今、王太子に最も近いのは誰だ? レオンハルトだ。歳が近いがゆえに幼き日より共に育ち、剣も学問も並び立つ。王太子が即位すれば、グレイヴが影の王となる。それを許せるものか!」
セリーヌは息を呑んだ。
目の前の男の瞳には、燃え盛るような嫉妬と劣等感が混ざり合っていた。
「……だから、私を……」
「そうだ」
エドモンは楽しげに笑みを深める。
「君を人質にすれば、レオンハルトは揺らぐ。愛していない妻を救いに来るかどうか――それ自体が奴を試す材料になる」
セリーヌは唇を噛みしめた。怒りと恐怖が胸に渦巻くが、それ以上に自分の心を苛むのは――
(本当に……来てくれるの……?)
その問いが消えぬまま、彼女は目を閉じた。
グレイヴ公爵邸の執務室には、重苦しい空気が漂っていた。
机に広げられた報告書の束に目を走らせるレオンハルトの顔は、冷徹そのものだ。
「……やはり、ヴァロアの名が絡んでいる」
低く呟く声に、執事クラウスが頷く。
「はい。革命派と取引していた痕跡が見つかっております。武器の密輸、資金の横流し……証拠が揃えば、侯爵家とて弁明は不可能でしょう」
「だが、まだ決定的ではない」
レオンハルトは鋭い眼差しを光らせる。
「奴を叩き潰すには、王家の裁可が必要だ。証拠を積み重ね、王室騎士団を動かす。それしか手はない」
「しかし……奥様を人質に取られているとなると……」
クラウスの声が揺れる。
レオンハルトの瞳が暗い光を帯びた。
「わかっている。だが、感情で突き動けば、セリーヌを危険に晒すだけだ。……必ず取り戻す。そのためには、まず奴らを逃げられぬよう縛らねばならん」
強い決意が言葉に宿る。
――セリーヌのことを愛していないと周囲が思おうとも。
彼の心に燃えているのはただ一つ。彼女を守るという意志だった。
同じ頃、ヴァロア侯爵邸の自室で、カトリーヌは机に突っ伏していた。
(セリーヌ様を助けなきゃ……でも……兄様を裏切れば、ヴァロアは……)
涙が机に落ちる。
兄を尊敬していた。家を支える人だと信じていた。
だが、あの窓越しに見た兄は、自分の知る優しい兄ではなかった。
「兄様……どうして……」
胸の奥に芽生えた恐怖と失望。だが同時に、セリーヌの必死な姿が心から離れない。
彼女は友だ。
そして友を救えるのは、今この瞬間、自分しかいない。
カトリーヌは顔を上げ、涙を拭った。
「……私が動かなきゃ」
決意を固めると、彼女は兄の書斎へ向かう。
兄が何を企んでいるのか、そしてどう止めればいいのか――その答えを探るために。
囚われの部屋でエドモンは立ち上がり、背を向けながら言った。
「安心しろ。すぐに終わる。君はただ、駒であればいい」
扉が閉まり、鍵がかけられる。
残されたセリーヌは、孤独な闇の中で小さく震えた。
――公爵様。
心の奥で、誰にも聞こえぬ祈りが繰り返される。
その声はまだ届かぬ。
だが確かに、遠い場所で同じ名を抱きしめる者がいた。
レオンハルトは、怒りと冷静さをはらんだ瞳で、彼はすでに動き出していた。
「必ず取り戻す」
その言葉は静かに、だが揺るぎなく、夜の空気を震わせていた。




