第32話 忍び寄る影
ダンスが一段落し、客たちが思い思いに談笑する中――バルコニーの薄闇から戻ってきたセリーヌの姿を、レオンハルトはすぐに捉えた。
彼女は何事もなかったように、静かに歩を進めてくる。その表情に変化はない。だが、レオンハルトは先ほどまで彼女がそこにいたことを知っている。
彼は歩み寄り、低い声で問う。
「……誰と話していた?」
セリーヌは少しだけ驚いたように瞬きをし、だがすぐに答えた。
「ヴァロア侯爵家のご子息、エドモン様です」
その名を聞いた瞬間、レオンハルトの瞳にわずかな鋭さが宿った。
しかし、セリーヌを不安にさせまいと、すぐに平静を装う。口元に笑みさえ浮かべて。
「……そうか。どんな話をした?」
セリーヌは首を傾げる。
「えっと……ご挨拶をして、それから少し。王宮の庭が美しいですねとか、初めての舞踏会で緊張していないかとか……」
彼女は思い出すように言葉を並べる。
レオンハルトはさらに探りを入れる。
「それだけか?」
セリーヌは小さく笑った。
「はい。それだけですよ。変わった雰囲気の方でしたけれど……丁寧にお話ししてくださいました」
その答えに、レオンハルトは一瞬目を伏せた。
――ただ話すだけで済む相手ではない。
彼は長年の経験から、エドモン・ヴァロアが社交の場で仕掛ける時は、必ず裏に別の意図があることを知っていた。しかも、セリーヌに声をかけたということは――。
背筋を走る冷たい感覚に、彼はワイングラスを手にした。
「……そうか」
短くそう言って、何事もなかったかのように杯を口へ運ぶ。
セリーヌは不思議そうに彼を見たが、追及はしなかった。代わりに「そろそろ戻りましょうか」と、にこやかに微笑む。彼女には、この空気の奥に潜む重さが伝わっていない。
その後、レオンハルトの耳にはいくつかの噂が届いた。
――ヴァロア家が最近、新興の商会と手を組み、王宮の一部貴族と盛んに接触している。
――さらには軍部の一部にも寄付を行い、兵器の取引にまで口を出そうとしている。
酒杯を傾けるふりをしながら、レオンハルトはその断片的な情報を組み合わせていった。
(……やはり、動き始めているか)
ヴァロア侯爵はこれまでも隙あらば影響力を強めようとしてきた。王家に忠実な自分――レオンハルトを快く思っていないことも周知の事実だった。
だが、これまで彼らは「正面から」仕掛けることはなかった。
しかし今夜、彼らは――セリーヌに接触してきた。
(彼女を巻き込むつもりか……)
冷ややかにワイングラスを置くレオンハルトの視線は、会場の一角に立つ青年へと向けられた。
エドモン・ヴァロア。
妹のカトリーヌとは違い、野心と欲望を隠そうともしない男。その瞳はどこか獲物を見定める猛禽を思わせた。
セリーヌは何も知らず、王妃や令嬢たちと談笑している。時折笑みを浮かべ、緊張しながらも気丈に振る舞っていた。
――その姿は、彼女をただの「政略の駒」としか見ない人間にとって、格好の的に映るだろう。
ダンスが再び始まる。
人々がホールの中央へと集まる中、レオンハルトはセリーヌを連れ、ダンスの輪へと加わった。
手を取り、ステップを踏む。セリーヌの小さな足が一瞬彼の靴を踏んでしまうが、レオンハルトは苦笑し、囁く。
「大丈夫だ」
セリーヌは赤くなり、ぎこちなくも必死に彼のリードに応じる。その様子に、レオンハルトは一瞬心を和らげた。だが、次の瞬間にはまた現実が押し寄せる。
(――これ以上、彼女を危険に晒すわけにはいかない)
ダンスの余韻がホールに響き渡る。客たちが拍手を送る中、レオンハルトはセリーヌの手を握りしめたまま、ふと視線を上げる。
その先に――冷笑を浮かべるエドモンの姿があった。
彼は人混みの向こうで軽くグラスを掲げ、こちらに視線を向けている。
挑発とも、警告とも取れるその眼差し。
レオンハルトの胸中に、確信が芽生えた。
舞踏会の華やかさの裏で、ひそかに動き出した影。
それが自分とセリーヌを狙っている――。
レオンハルトは彼女の手を握る力を、ほんのわずかに強めた。
セリーヌはその変化に気づかず、微笑んでいる。
――彼女を守るためなら、どんな敵でも容赦しない。
その決意を胸に刻みながら、レオンハルトは再び冷たい笑みを浮かべるエドモンを見据えた。




