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第29話 美しさに息を呑んで


 王宮の大舞踏会が迫る日の午後。セリーヌは寝室で衣装棚を開け、並ぶドレスの裾を指でつまんでは悩んでいた。


「やっぱり……これしかないわね」


 手に取ったのは、この前エリザベート達のお茶会に参加したときに、レオンハルトから贈られたドレス。けれどそれでも、公爵夫人として王宮に立つにはどこか物足りない。地味ではないが、並ぶ令嬢たちの煌びやかな衣装を思えば、不安ばかりが胸を占めた。


(……でも、仕方ないわ。贅沢なんてできないし、これで精一杯)


 自分に言い聞かせるようにドレスを畳もうとしたその時――。


 コンコン、と扉が叩かれた。

「失礼いたします、奥様」


 執事クラウスが姿を現した。その手には大きな箱が抱えられている。


「これを、お渡しするようにと旦那様から」

「……公爵様から?」


 目を丸くするセリーヌに、クラウスは微笑を隠さず差し出した。箱を開けると、そこには淡いブルーグレーのドレスが静かに収められていた。上品でありながら贅を尽くした刺繍が施され、光を受けて宝石のようにきらめく。


「……こんなに、美しい……」

 思わず息を呑み、指先で布地をそっと撫でる。


「旦那様が仰っていました。『公爵夫人が公の場に立つにふさわしい一着を』と」

「……あぁ、なるほど。公爵家の名誉のために、ですね」


 胸の奥がわずかに熱を帯びたが、セリーヌは自らにそう言い聞かせた。これは義務の一環、そう考えるほうが楽だったから。



 そして当日。


 侍女マグリットに手伝われながら、その新しいドレスに袖を通すと、鏡の中に映った自分は見違えるほどに変わっていた。

 繊細なレースが肩を包み、胸元には小さなサファイアの飾りが煌めく。腰のラインを流れるように描くドレープは、彼女の華奢な体を一層引き立てた。


「奥様……まるで、本物のお姫様みたいです」

「……からかわないで、マグリット」

 頬を赤らめつつも、心臓は高鳴りを抑えられなかった。


 やがて支度を終え、セリーヌは階段をゆっくりと降りていく。


 大理石のホールに立つレオンハルトは、玄関で馬車の用意を確認していたが、彼女の姿を見た瞬間、動きを止めた。



 氷のように冷静なはずの彼の胸が、不意に熱に侵される。ドレスの色が彼女の透き通る肌を際立たせ、微笑の端に宿るかすかな緊張すら愛おしく思えた。


(……これが、俺の妻……)


 普段は言葉にできないその事実が、今だけは彼の中で圧倒的な重みをもって迫ってくる。


 背後でクラウスとマグリットがこっそり顔を見合わせ、にやけるのも知らずに。



 馬車に乗り込むと、重苦しい沈黙が流れた。


 セリーヌは膝の上で手を組み、緊張でこわばっている。

(粗相をしてしまったらどうしよう……)


 一方のレオンハルトは、目の前に座る妻の姿を意識するあまり、普段の落ち着きを欠いていた。

(どうしてこんなにも……ただ見ているだけで心が乱される……)


 互いに胸を高鳴らせながら、言葉ひとつ出せずにいた。


 その時。

 石畳を走る馬車が大きく揺れた。


「きゃっ――!」


 セリーヌの身体が横に傾く。とっさにレオンハルトが腕を伸ばし、その華奢な体をしっかりと受け止めた。


 至近距離で見つめ合う。頬に触れる彼の手の温もりに、セリーヌは思わず息を呑んだ。

「……っ、あ、ありがとうございます……」


「気をつけろ。……君に傷がついたら困る」

 低く囁く声は、叱責のようでいて、どこか震えていた。


 セリーヌは慌てて姿勢を正すが、胸の鼓動は収まらなかった。

 一方のレオンハルトも、拳を膝の上で握り締め、動揺を隠そうとしていた。


 馬車は王宮へと向かって進み続ける。

 互いの心臓の鼓動だけが、沈黙の中で響いていた。


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