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第28話 社交デビューの準備


 王宮からの招待状を受け取った夜から、セリーヌの胸は落ち着かなかった。

 王太子殿下の婚約披露という晴れの場に出るなど、没落寸前の伯爵家にいた頃には夢にも思わなかったことである。

 礼儀作法や立ち居振る舞いは、クラリッサに教わった数日で多少自信を持てるようになった。けれど――大きな問題がひとつあった。


(……社交ダンスなんて、ほとんど覚えていないわ)


 母が病床に伏していた頃、舞踏会に出られるはずもなく、家計のやり繰りに追われる毎日だった。幼少期に少し習っただけのダンスは、記憶の彼方に霞んでいる。

 これでは、王宮の大広間で誰かに手を取られたとき、恥をかくのは目に見えていた。



 そんなある日の午後。

 セリーヌはマグリットの提案で、庭のガゼボでこっそりダンスの練習をしていた。


「奥様、少しずつ思い出せば大丈夫です。はい、まずはステップから――」

「こ、こう……?」

「ええ、それで……あぁ、でももう少し姿勢を伸ばして」


 たどたどしく足を動かすセリーヌ。だが、すぐにバランスを崩しそうになる。

 見かねて声を掛けたのは、偶然近くで作業していた若い庭師だった。


「もしよければ……俺で練習なさいますか?」

「えっ……!」


 青年はまだ十代後半か二十歳そこそこの、快活な雰囲気を纏った男である。

 気恥ずかしさを覚えつつも、セリーヌは藁にもすがる思いで頷いた。


「では……よろしくお願いします」

「はい! 俺、トマスと申します」


 両手を取られると、ぎこちないながらも音楽のないステップが始まった。

 トマスは驚くほど器用にリードしてくれる。農作業で鍛えた腕は力強く、セリーヌをしっかりと支えてくれる。


「わぁ……すごく上手」

「子供の頃に村祭りで踊ったことがあるんです。こんな風に、です」


 セリーヌは少し笑みをこぼした。緊張がほぐれて、足も自然と動き出す。



 だが――その光景を、廊下の窓から見ていた者がいた。


 レオンハルトである。

 彼は無言のまま、拳を強く握りしめていた。


(……なぜ、庭師風情に妻の手を取らせている?)


 理屈ではない。胸の奥を焼くような感情が込み上げ、気づけば足が勝手に庭へと向かっていた。


「もういい。その役目は私が代わろう」


 突然の低い声に、セリーヌとトマスは驚いて振り向いた。

 トマスは慌てて手を離し、深く頭を下げる。

「も、申し訳ありません、公爵様!」

「下がれ」


 冷ややかな声に、青年は逃げるように庭の外へ去っていった。



「こ、公爵様……」

 セリーヌは慌てて言い訳を探す。

「わ、わたし、ただ練習が必要だと思って……マグリットも一緒でしたし」


「理由はどうでもいい。私が相手になる」


 そう言うや否や、レオンハルトは迷いなくセリーヌの手を取った。

 その瞬間、セリーヌの鼓動が跳ね上がる。


(えっ……な、なに? どうして、こんなに近いの……?)


 大きな手が腰を支え、しっかりと導いてくる。

 幼少期にしか経験のない彼女でも、彼のリードに従えば自然と足が運ぶ。


「……悪くない。だがもっと背筋を伸ばせ」

「は、はい……」


 冷静に指摘する声に反して、その眼差しはわずかに熱を帯びていた。

 セリーヌは視線を合わせることができず、頬を赤らめたまま必死に足を動かす。


 彼の腕の中で、舞踏曲のないダンスが続いた。

 たとえ音楽がなくても、不思議と二人の鼓動が拍子を刻んでいるようだった。



 数分後。

「……今日はこのくらいにしておこう」

「は、はい……ありがとうございました」


 セリーヌは軽く礼をし、胸に手を当てた。

 速く打つ鼓動を落ち着けようとするが、どうしても収まらない。


 その横顔を見下ろしながら、レオンハルトは心中でひとつの答えを噛みしめていた。


(……やはり、誰にも渡したくはない)


 言葉にはせずとも、その感情は確実に彼の中で形を成しつつあった。



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