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第26話 揺らぐ心


 机の上に積み上げられた書類。

 レオンハルトはその一枚一枚に目を落とすふりをしながらも、内容はまるで頭に入ってこなかった。


 笑っていた。

 今朝、セリーヌは母のように優しく微笑むクラリッサと並び、父のように大らかなギルベルトに守られるようにして街へ出かけていった。

 その笑顔は、レオンハルトが今まで一度も向けられたことのない種類のものだった。


(……俺は何を考えている)


 ペンを持つ手が無意識に震え、インクのしずくが書類に落ちる。

 慌てて紙をめくり隠したが、胸のざわめきは収まらない。



 クラウスが執務室に紅茶を運んできた。いつも通りの落ち着いた所作でカップを置き、軽く頭を下げる。


「セリーヌ様は、本当にクラリッサ様と仲睦まじいですね。あのご様子、まるで母娘のようで」


 その言葉に、レオンハルトは小さく息を呑んだ。

 クラウスは彼の動揺を見逃さず、静かに目を細める。


「……もしかすると、旦那様は少し寂しく思われているのでは?」


「そんなはずがあるか」

 レオンハルトは即座に言い返したが、声が少しだけ掠れていた。


 クラウスは深く追及せず、ただ淡々と告げた。

「ご自身のお気持ちを誤魔化すのは、ご自由です。しかし……ご夫人が笑顔でいられること、それを喜べぬのであれば――心の中で何かが変わり始めている証かもしれません」


 そう言い残し、クラウスは静かに退室した。


 執務室に一人取り残されたレオンハルトは、こめかみに手を当てて目を閉じた。

(……俺は、あいつが笑っていることを素直に喜べていないのか?)


 そう問いかけると、胸の奥が痛む。

 セリーヌが幸せそうにしているのは良いことのはずだ。だが、それが自分ではなく両親との時間によるものだと知ると、どうしても心がざわめいてしまう。



 夕暮れ。

 馬車の車輪の音が屋敷の前で止まった。


 執務室の窓から覗くと、セリーヌが両親とともに笑いながら馬車を降りる姿が見えた。手には新しい靴の箱を抱えている。

 クラリッサが楽しそうにセリーヌの頬に触れ、ギルベルトが大きな声で「よく似合うぞ!」と褒めている。


 セリーヌはそのたびに顔をほころばせていた。


 その光景を目にした瞬間、レオンハルトの中で抑えていた感情が爆発する。

 彼は窓から視線を逸らし、椅子に深く身を沈めた。


(なぜだ……どうして俺は、あんなにも苛立っている? 両親がセリーヌを大切に思ってくれるのは、望ましいことのはずだろう)


 だが心の底では理解している。

 これは嫉妬だ。

 彼女の笑顔を、自分の知らぬ誰かに向けていることへの。



 夜、廊下を歩いていると、偶然セリーヌとすれ違った。彼女は新しい靴を抱えていて、嬉しそうに微笑んでいた。


「公爵様。……あの、今日、義父母様に靴を買っていただいて……本当に幸せでした」


 そう言って笑う顔は、純粋で、無垢で、そして――胸を締めつけるほどに美しい。


「……そうか」

 それだけを短く告げ、レオンハルトは歩みを止めず背を向けた。


 だが、離れていく足音の裏で、心は乱れに乱れていた。


(……俺は、どうしたいんだ? セリーヌが嬉しそうにしているだけで、こんなにも苦しいなんて……)


 寝室に戻っても眠れず、彼は何度も天井を見上げた。

 胸の奥に生まれた感情に、ようやく名を与えるときが来ているのかもしれない――そう思いながら。


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