第22話 素直になれない心と、街の噂
セリーヌは鏡の前で深呼吸をした。昨日の夜から何度も心の中で言葉を練り直している。――どうしても今日だけは、直接言わなければならない。
レオンハルトが自分のために新しいドレスを用意してくれたのだ。もちろん、彼が「公爵家の名誉のため」と考えてのことだろうと分かっている。だが、それでもあの一着を受け取った瞬間の胸の高鳴りを、セリーヌは忘れることができなかった。
廊下を歩き、重厚な扉の前に立つ。数回ノックすると、低く「入れ」という声が返ってきた。
「失礼いたします、公爵様」
執務机に向かっていたレオンハルトが顔を上げる。険しい表情のまま書類を手から離さずにいるが、その視線は一瞬だけ柔らかさを帯びたようにも見えた。
「……何か用か?」
「はい。あの……先日は、素敵なドレスをありがとうございました。とても助かりました」
緊張で声がわずかに震える。セリーヌは深々と頭を下げた。
レオンハルトは一瞬言葉を失い、咳払いをして視線を逸らした。
「……当然のことだ。公爵夫人として、見苦しい姿をさせるわけにはいかん」
「はい、重ねて感謝いたします」
淡々とした返答に少し胸がざわめいたが、それ以上は追及せず、セリーヌは礼を述べて部屋を後にした。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。レオンハルトはしばし机の上の書類を見つめたまま固まっていたが、やがてゆっくりと口元が緩む。
「……まったく、あれくらいで礼を言うとは」
自嘲のように笑いながらも、その横顔には明らかな喜びが滲んでいた。
「奥様、本当に絵を売りに行かれるのですか?」
「ええ。せっかく描いたものだし……少しでもお金になるなら」
その日の午後、セリーヌとマグリットは街へ出かけた。セリーヌが大切にしている趣味――絵画。彼女の柔らかな色使いと緻密な筆致は、見る者を穏やかな気持ちにさせる力を持っていた。
馴染みの画材店に足を運び、絵の具や筆を買い揃えるついでに、店主に数点の絵を見せると、意外にも高値で引き取ってくれた。
「いやぁ、奥様の絵は素晴らしい。本当に人気が出ますよ」
笑顔の店主に励まされ、セリーヌは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
だが、街の広場に差しかかった時、耳に入ってきた言葉がその温もりを冷たく変える。
「聞いた? グレイヴ公爵は没落寸前の伯爵令嬢を妻にしたんだって」
「まぁ、ありえない話よね。きっと政略だろうけど……本当にお飾りなんでしょうね」
「かわいそうに。あんな立場じゃ、肩身が狭いだろうに」
人々の視線がちらりとセリーヌに向けられる。彼女たちは公爵夫人が目の前にいると気づきながらも、わざと聞こえるように噂を囁いていた。
マグリットが顔を真っ赤にして反論しようとしたが、セリーヌはそっと彼女の腕を押さえた。
「いいのよ。慣れているわ」
穏やかに微笑んだが、その瞳の奥にはわずかな痛みが走っていた。
屋敷へ戻る馬車の中、セリーヌは窓の外を眺めながら深く息を吐いた。
「結婚して……もう半年が経つのね」
静かに呟く。あと二年半すれば、この婚姻は解消される約束だ。その時に受け取る慰謝料は、すべて領地の再建のために使うつもりでいる。だからこそ、自分自身の生活費は別に貯めておかなくてはならない。
売った絵が、少しずつでも力になれば。そう考えると、ほんのわずかだが未来に灯がともる気がした。
「私は……ちゃんと自分の足で立たなくちゃ」
決意を込めた声は、馬車の中の静寂に吸い込まれていった。隣で座るマグリットはその横顔を見つめ、胸の奥に小さな誇りと切なさを覚えていた。




