第23話 偽り夫妻の不意の口づけ
重厚な扉をノックすると、中から「入れ」という低い声が返ってきた。
セリーヌが執務室へ足を踏み入れると、机に書類を積み上げていたレオンハルトが顔を上げる。
「……座ってくれ」
促されるまま椅子に腰を下ろした彼女に、レオンハルトはしばし黙り込んだ後、深く息を吐いた。
「……父上と母上が、こちらにいらっしゃる」
「えっ……!」
思わず声が上ずり、セリーヌの指先が震える。
「そ、それは……! 突然すぎませんか?」
「俺も今日知らされたばかりだ。だが、断るわけにはいかない」
いつも冷静な彼にしては、声にわずかな苛立ちが混じっていた。
執事クラウスが淡々と付け加える。
「旦那様と奥様が直接、お二人のご様子を確かめたいとのことです。やはり、ご結婚の報告の後、音沙汰がなかったのを気にされておいででしょう」
セリーヌは胸の奥が冷たくなるのを覚えた。
(……つまり、“本当に仲睦まじい夫婦かどうか”を見に来る、ということよね)
だが、レオンハルトの口から出た言葉はさらに衝撃的だった。
「父と母には、こう伝えてある。……『好きな人ができたから、その人と結婚する』と」
「……!」
セリーヌは言葉を失い、彼の顔を凝視した。
「そ、そんな……私は……」
「わかっている。白い結婚だ。しかし、あの二人を納得させるには、そう言うしかなかった」
彼は苦々しい顔をして、グラスの水を一気に飲み干す。
セリーヌは俯き、小さく息を吐いた。
「……わかりました。私も公爵家の妻ですから。やるべきことは、やります」
その真摯な声に、レオンハルトは短く「助かる」とだけ答えた。
寝室へ向かう廊下を並んで歩きながら、レオンハルトが低く囁いた。
「今夜からは、君はこっちの寝室に入ることにしよう」
「えっ……!」
セリーヌの心臓が大きく跳ねた。
「な、なぜですか? 普段通り、それぞれの部屋からで……」
「父と母がどこから見ているかわからない。廊下で部屋を分けて入る姿を見られれば、それだけで疑われるだろう」
「……なるほど」
確かに筋は通っている。だが「一緒の寝室」という響きに、セリーヌの耳は赤く染まった。
「もちろん、同じベッドで寝る必要はない。部屋を一つにしておけば十分だ」
「そ、そうですよね……」
少しだけ胸の奥で安堵と、得体の知れない緊張が入り混じる。
二人は寝室の扉を閉め、ソファに腰を下ろした。
「さて……他にも打ち合わせておくことがある」
レオンハルトが真剣な声で切り出す。
「食事の際は俺が君に料理を取り分ける。普段していなくても、夫婦らしく見えるだろう」
「えっ……そ、それは……でも、慣れてないと逆に怪しまれませんか?」
「俺が慣れているように振る舞う。君は微笑んで受け取ればいい」
「……はぁ」
細かく段取りを決めていく彼の姿に、セリーヌは思わず「軍略の打ち合わせみたいですね」と呟いてしまった。
レオンハルトは一瞬きょとんとした後、苦笑を浮かべた。
「確かに、戦場に出る前のようだな」
そんなふうに少し空気が和んだそのときだった。
セリーヌが立ち上がり、テーブルの端に足を引っかけてしまった。
「きゃっ──!」
「セリーヌ!」
咄嗟にレオンハルトが腕を伸ばす。勢いのまま二人はバランスを崩し、そのままソファへと倒れ込んだ。
ふわりと揺れたドレス。間近にある互いの顔。
次の瞬間、柔らかな感触が触れ合った。
「……っ!」
時間が止まったかのようだった。
セリーヌは大きく目を見開き、頬が一気に紅潮していく。
「ご、ごめんなさい! わざとじゃなくて……!」
「……俺もだ」
レオンハルトの低い声は少し掠れていて、耳の奥まで熱を運んでくる。
二人は慌てて身を離したが、鼓動は収まらない。
打ち合わせを続けるはずだった寝室には、甘く張り詰めた沈黙だけが落ちていた。




