第19話 招かれざる招待状
庭園のガゼボに、柔らかな午後の光が差し込んでいた。
セリーヌは白いカンヴァスに向かい、淡い緑の絵の具を筆にのせる。
葉を一枚ずつ描き込む指先は真剣で、その表情には凛とした集中が宿っていた。
彼女が絵を描いている時だけは、公爵家の奥方でもなく、没落した伯爵家の娘でもなく、ただの「セリーヌ」という一人の女性に戻れるのだ。
(やっぱり……絵を描くのは、私の居場所)
胸の奥に、ひそやかな安堵が広がる。
少し離れた木陰から、その様子を一人の男がじっと見つめていた。
レオンハルト。
彼は気づかれないように距離を取りながらも、視線を逸らすことができなかった。
筆を持つ細い手、集中するときに僅かに寄る眉、描きながらふっと柔らかく笑う瞬間――。
どれもが、彼の記憶に鮮やかに刻まれていく。
それは好奇心とも違い、ただ目を離したくないという衝動に近い。
そんなとき――。
「奥様…!」
緊張感を破るように、侍女マグリットの声が響いた。
セリーヌは筆を止め、振り向く。
「どうしたの、マグリット?」
「こちらが……先ほど届けられた招待状です」
差し出された封筒は、淡い藤色のリボンで留められていた。
差出人の名を見て、セリーヌの瞳が小さく揺れる。
「公爵令嬢……エリザベート様?」
その名を口にした瞬間、木陰のレオンハルトの目がわずかに鋭くなった。
場面は変わり、公爵令嬢エリザベートの私室。
窓辺には、明るいブロンドを持つ気高い令嬢が椅子に腰かけている。彼女こそ、公爵家の嫡女エリザベート・ヴァロワ
その隣には、濃い栗色の髪を結い上げた侯爵令嬢カトリーヌ・モンターニュ
そして、控えめな笑みを浮かべる黒髪の伯爵令嬢ソフィア・リュシエール
三人の前には茶器が並び、香り高い紅茶が注がれていた。
「……聞いた?」と侯爵令嬢カトリーヌが口を開く。
「レオンハルト公爵様、没落寸前の伯爵令嬢を妻に迎えたんですって」
その声音には、明らかな嘲笑が混じっていた。
「ええ、もちろん」公爵令嬢エリザベートは涼やかな微笑を浮かべる。
「父からもお話は伺っているわ。正直、驚いたけれど」
「驚くだけ? 私は納得いかないわ」カトリーヌは唇を尖らせ、紅茶のカップを卓に置いた。
「本来なら、あのお方は私のような侯爵家の娘に相応しいはず。なのに……あんな地位の低い娘が奥方だなんて、屈辱だわ」
その言葉に、伯爵令嬢ソフィアが少し眉をひそめた。
「カトリーヌ様……。ですが、セリーヌ様はお人柄も穏やかだと聞いておりますし……」
「ふん、伯爵家の娘ごときが穏やか? 聞き飽きたわ。どうせ控えめなふりをしているだけよ」
カトリーヌは椅子の背に身を預け、指先で髪を弄んだ。
その目は、執拗に嫉妬の色を宿している。
「私はこの目で確かめてやるわ。彼女がどれほどのものか」
「まあ……」エリザベートが微笑を深める。
「それならちょうどよかったの。今度、私がお茶会を開こうと思っているの。そこにセリーヌ様をお招きしましょう」
「ふふ、それは素敵ですわ」カトリーヌの唇が吊り上がる。
「皆の前で彼女の正体を暴いてやればいい。奥方としての器がないことを、世間に知らしめましょう」
その場にいたソフィアは、小さく目を伏せた。
心優しい彼女は、セリーヌを直接知らぬ身でありながらも、胸にわずかな不安を抱いていた。
セリーヌは届いた招待状を前に、落ち着かない面持ちでいた。
「……お茶会」
「はい。エリザベート様直々のご招待です」マグリットが答える。
社交の場に呼ばれるのは久しぶりだった。
しかも相手は公爵令嬢。緊張しないはずがない。
封筒を見つめながら、セリーヌは小さく唇を噛んだ。
(私のような人間が……果たして公爵家の令嬢方と肩を並べられるのかしら)
そんな彼女の様子を、木陰からレオンハルトは静かに見守っていた。
彼の瞳には、ただならぬ憂いが宿っていた――。




