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第18話 咄嗟の手


 午後の陽射しが街路を金色に染めていた。


 石畳を踏みしめる人々の足音が重なり合い、屋台の呼び声や笑い声が混ざり合って、街全体がまるで生き物のように脈打っている。

 甘い焼き菓子の匂いが風に乗り、香辛料を煮込む大鍋からは異国めいた香りが漂っていた。


 セリーヌは両腕に絵の具や筆の入った紙袋を抱え、その重みを嬉しげに確かめるように小さく微笑んだ。

 伯爵家の領地で絵を描いていた頃、色が尽きるたびに節約を余儀なくされていた自分を思い出し、思わず胸が熱くなる。


「……これで、また描ける」


 囁くように落とした言葉は、誰に聞かせるでもない。

 だが、それを横で耳にしたレオンハルトの胸に、妙なざわめきを生んだ。


 絵具と筆を抱えた彼女の姿は、初めてこの屋敷に来たときの不安げな令嬢ではなく、小さな夢を抱いた一人の娘に見えた。



 そんなときだった。


 広場の一角で楽師が弦を弾き始め、人々が一斉に集まりだす。

 気づけば二人の歩いていた通りは、押し寄せる人波に呑み込まれていた。


「……っ」


 背中を押されるように体が傾く。紙袋が揺れ、足元の石畳が不意に遠ざかる感覚。


「きゃっ!」


 声を上げたその瞬間――温かな力が彼女の腕をぐっと引き寄せた。


「大丈夫か」


 耳元に落ちる低い声。

 振り向けば、レオンハルトの顔がすぐそばにあった。


 大きな手が、彼女の細い手を包んでいる。

 その手は、冷徹な公爵のそれではなかった。温かく、そして何よりも迷いなく彼女を守るものだった。



 人混みの中を、彼は迷いなく進んでいった。

 周囲からぶつかりそうになる人々を肩でかわし、時に彼女を庇うように前に立ち、強い腕で彼女の手を握り続けた。


 セリーヌの心臓は早鐘を打つ。

 手の中に感じる体温と鼓動が、自分のものなのか、彼のものなのか区別できない。


(……公爵様が、私の手を……?)


 その意味をどう受け止めればいいのか。

 ただの偶然? それとも――。


 けれど、彼女の胸に浮かんだ答えはすぐに打ち消される。


(いいえ……違う。これはきっと、周りに人が多いから。私が倒れないように……責任で繋いでいるだけ)


 必死にそう自分を納得させる。

 夢を見てしまうのが怖かった。



 ようやく人混みを抜け、広場の喧騒が遠ざかったとき、レオンハルトは足を止めた。

 まだ手は離していない。


 セリーヌが見上げると、その横顔には冷静を装いながらもわずかに息を乱した様子が覗いていた。


「危なかったな」


 低く落とされた声は、どこか柔らかかった。


「……ありがとうございます」


 そう答えると、彼はわずかに目を逸らしながら言った。


「気にするな。護衛のようなものだ」


 短い言葉。

 だが、その声には微かな掠れが混じっていた。


 セリーヌの胸に、ほんの少しだけ寂しさが滲む。けれど彼女は微笑んだ。


「公爵様は……本当に責任感の強い方なのですね」


 その一言に、レオンハルトは返す言葉を失う。

 自分が伝えたかった想いとは違う形に受け止められていることに気づき、苦く唇を噛んだ。



 帰り道、二人は多くを語らなかった。

 レオンハルトはセリーヌの隣で黙したまま、指先に残る柔らかな感触を振り払えずにいた。


 互いに言葉は交わさない。

 けれど二人の心には、確かに違う感情が芽吹きつつあった

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