メリルルゥの日記
――ヤクタ 六階
『大号の月の三日。姉さまと九年ぶりに再会した。いえ、これからは女王とお呼びしなければならないでしょう。
相変わらずお美しく聡明で、記憶にあるわたしは五歳の幼子だったでしょうに、まるで大人の女性に対するように接してくれて、改めて姉さまへの尊敬の念を強めました』
メリルルゥの筆致は繊細かつ丁寧で、彼女の生真面目な様子が窺い知れた。冊子に綴られた当時の日々の日付は飛び飛びで、メリルルゥは備忘録的な意味でこの日記をつけていたのだろう。真剣な表情のユスティーファに目配せし、アンドラステはページをめくる。
『命黙の月の十四日。この大国アクリアルにて、わたしは王立図書館ヤクタの管理を任されることになりました。ヤクタにはたくさんの貴重な本や古い本が収められており、そこではたくさんの学者や術士たちがしのぎを削り合っています。ゆくゆくは彼らをわたしが教育することになるのでしょう。まだ若輩者もいい所なわたしですが、早く女王のような術士になれるよう頑張りたいです。
わたしの教育係としてついたレシュは元は陛下の護衛だったらしく、老いた今退役し若手の教育に回っているそうです。不慣れなわたしの世話をしてくれるのは上級司書のマイア。落ち着いた雰囲気の女性で、わたしにこの国の習慣などを教えてくれます。今度はわたしの国のことを教えようかな』
『鈴祥の月の十日。この国に来て一年。あの霊廟の状態も安定したようで一安心、陛下は数日に一度殿下の様子を見に行かれています。それが女王の気に障るご様子ですが、殿下も彼らの御子なのです。いつかはその事実が姉さまの心に届くことを、メリルルゥは切に祈っています』
『白百合の月の二日。今日はかの百合の君、リリアーヌ王女殿下の生誕を祝う日でした。王女の誕生に沿って「白百合」と改名されたこの月は、美しい百合がこの世に産まれたことを一月中祝うことになっているそうで、中でも王女の生誕日である二日は特に国中が飾り立てられます。
白雪の都を覆い尽くす百合の花々、家々の壁は青や黄、薄紅色に塗り立てられ、通りには色とりどりの旗や看板が掲げられ、出店から漂う良い香りで一杯です。普段は図書館に籠もりきりのわたしですが、今日はレシュやマイア、主役たる王女自身の誘いもあり、祭りに参加することに致しました。店で買い食いをしたことなど初めてで、今年七歳になられた王女の可憐な姿も相まり、とても楽しい日を過ごすことが出来ました』
『瓏瓏の月の二十日。御年十歳になられる王女殿下が、陛下の視察にご同行なさいました。官吏の不正を許さず民を愛す父君の姿に感動なさったのでしょうか、帰ってくるなりリリアーヌ様は「もっと旅に出たいわ!」などとおっしゃいました。まさにこの国の君主にふさわしい御方。
……もちろん、殿下のことを忘れている訳ではありません。ですが女王は最早彼を亡きものとして扱うおつもりのよう。陛下は何度も説得を試みておられるようですが、女王の意志は固いようです。
先日、殿下に本を数冊贈りました。なんでも少し前に霊廟前に捨て置かれていた少女が、殿下に大層懐いているらしいのです。喜ばしいことです。年若い者に慕われる経験が少ない御方です。きっとむず痒くも何処か暖かい気持ちを抱いていらっしゃるのではないでしょうか』
『爛綴の月の八日。今日は王女殿下がはじめての旅から帰還なさった日です。帰ってすぐ彼女はわたしの部屋までいらっしゃり、そのお辛い心中を告白なさいました。まだ若い王女にとって、旅はやはり苦しいものだったご様子。
「ずっとずっと思い描いていたように、わたくしは民を助けられませんでした。わたくしはこの国を守る王族だというのに。メリルルゥ、わたくしは、もっと頑張れるかしら…」
王女殿下は真摯な御方です。きっとこの苦難を乗り越え、素晴らしい君主に成長して下さるとメリルルゥは知っていますわ』
『稜黒の月の五日。わたしも二十五歳になりました。最近は女王に「良い人はいないのか」と聞かれることが多いです。確かに、この年では行き遅れと言われても仕方がないでしょう。しかし教育者としてこの国に召喚された以上、その義務を放棄する訳にはいきません。また恥ずかしいことに、わたしには全く縁がないのです……。姉さまに似てきたと言われるこの頃、きっと容姿は悪くないと思いたいのですが、研究に没頭する姿が男性を遠ざけるようで……』
たわいもないメリルルゥの話は続いていく。だがその端々に幸せだった頃の笑顔と忍び寄る悪夢の影が見え、なんとなく重い気分がせり上がってくるのだった。
『白百合の月の二日。御年十二歳になられる王女殿下が、突然「庭園」の建設を提案なさいました。なんでも、自身の薬草研究に役立てたいとのことです。
娘を溺愛している女王です、ふたつ返事で承諾なさいました。ただ少し気になるのは、その時の王女の顔色があまり優れなかったことです。長旅の影響でしょうか? メリルルゥの杞憂であれば良いのですが……』
『夕蓉の月の三日。わたしの心配は的中してしまいました。庭園が完成し、寝室などもすっかり整えてしまった王女殿下は、庭園を離れなくなってしまったのです。
もちろん女王も陛下も心配し、帰ってくるよう何度も説得なさいましたが、王女は使者も両親すらも追い返してしまいます。唯一の救いはきちんと食事をとられている点でしょうか。護衛の騎士と産まれた時から傍に居る侍女らだけおき、庭園と旅の目的地だけを行き来する生活を送られる王女殿下。なにか、メリルルゥに出来ることはないのでしょうか』
『鈴祥の月の九日。使者を通して、王女からわたしに、「兄へ渡して欲しい」との封書がありました。添えられていたのは幾つかの種と鉢に移された花、苗木、そして育て方が書かれた紙。
わたしは驚きました。王女殿下はさきに産まれた兄君の存在をご存じだったのです。誰から聞いたのでしょうか、それは分かりませんが、血を分けた兄へ贈るものです。心からの使命感を以って仲介を務めねばなりません』
『緑黎の月の十一日。この国に来て、十八年の月日が経ちました。この矮小な生の半分以上を此処で過ごしていることになります。王女殿下は相変わらず庭園に籠もられておりますが、式典には参加なさいますし、健康にもかわりはないようです。
霊廟は人が増えました。時々陛下と共に様子を伺いに参りますが、伝染病の心配はなく、管理者の女性も信頼が置けるよう。常日頃凛と厳めしい顔つきの陛下も、殿下と過ごされる時はただの父親のような表情をなさいます。殿下に稽古をつける様も普通の親子の姿のよう。このまま、何事もなく、平和であれば良いのですが……』
『大号の月の十三日。最近、ブランデンミール候の動きがおかしい。
きっかけは書類の数字の改竄でした。ブランデンミール候は由緒正しき貴族の家柄、アクリアルに国号を変えた時から王に仕える一族です。清廉潔白な王の手前言えないが、少しは私腹も肥やしたくなるのだろう……と見逃していましたが、ついこの前何人か優秀な術士を密かに迎え入れていることを知りました。何を企んでいるのでしょうか? 研究目的にしても、ブランデンミールが目立った研究をしているという報告はありません。また秘密ですか。
謀反を企てているのでは、と思います。しかし幾ら優秀な術士を集めようと、陛下とその兵士に敵う者はいません。陛下には付き従う多くの術士に兵、あの可愛いドラゴン、最強の術士たるわたし、なにより姉さまがいらっしゃいます。
仮に兵力でこちらを上回ったとしても、彼らには王家の証たるものが何一つない。王剣ウンディーネは王族の血筋にしか扱えませんし、王家の証たる翡翠の瞳もない。確固たる裏付け無しに国を奪ったとしても、そこに残るものはなにひとつないでしょう。民は付いて来ませんし、争いが広がるだけ。そこまでブランデンミールが馬鹿だとは思えない。
しかし無駄な血を流さないにこしたことはありません。あまり度が過ぎるようでしたらすぐさま陛下に報告し、芽を摘み取ってやりましょう』
それからしばらく、日付が空いた。何もない一ページをめくった後、前の日記からだいぶ日をおいて書かれた文字は、書き手の戸惑いを表すかのように震えていた。
『命黙の月の七日。女王に「会って欲しい子がいる」と言われました。案内されるままに入った部屋で、わたしは彼女に会った。
ああ水の神よ、あの子は人間なのでしょうか? わたしには得体のしれない何かにしか見えなかった。夜明けを名に持つ彼女は、王女殿下が旅で見つけた少女だと言います。見た目は十代前半くらいでしょうか。美しい娘でしたが、わたしはただただ驚きました。――彼女ははじまりを告げる者。そういう性質を持っています。
「オーロラといいます。この国に夜明けをもたらすために参りました」
ひたすら動揺を抱いたわたしでしたが――オーロラ自身は、何処も変わった所のない少女でした。その性質以外は、きっと普通の少女なのでしょう。ですが彼女がいるだけで、周囲は「夜明け」を求められる。何もかもがはじまりを告げる。そうして、全てが変わっていく。
姉さまは「珍しい毛色の娘だから招いた」と言っていましたが、そのお顔にはそこはかとなく狂気が見え隠れしているように思われました。
姉さまは彼女を招き、何をするつもりなのでしょうか? このところ姉さまはブランデンミール候と親しくされているご様子。妙なことを吹き込まれていなければ良いのですが、頼りの陛下は現在隣国を訪問なさっている真っ最中です。その隙を狙っているのでしょう。わたしがしっかりせねばと思うのですが、姉さまにとってわたしはまだまだ可愛い妹のよう。わたしの言うことなど、話半分なのでしょう……。
この国は揺らいでいます。都市のあちこちで不正が起きています。霊廟の住人は増加を続けています。王は憂いを見せるばかりで、その原因が自らの重臣かもしれない可能性を排除し続けています。王は清い御方です。親しき者を疑うことを知らぬ御方です……。
これまでその役目を負っていたのは姉さまでした。聡明で美しい姉さま。時に冷徹に敵を追い詰め、夫の障害となるものを全て排除する女王。ですがその女王が壊れたなら、この国はどうなるのでしょうか』
『白百合の月の十五日。
このことをどう書いていいのか分かりません。そもそも、文字として残して良いのかも。ですが王女の命令です。わたしは全てを書き残し、伝えねばならないと、リリアーヌ様はそうおっしゃいました……。
王女殿下が出産されました。ご懐妊も何もかもを全て隠し通し、密やかなる出産を選んだのです。ここ一年庭園に籠もりがちな王女が更に身を隠し、旅すら止めていたのには、このような理由があったのです。
お相手は護衛の騎士だそうです。一時は彼に詰め寄ったわたしですが、御子がリリアーヌ様の子であることには変わりません。きちんととり上げ、小さなお体を清めました。
「リリアーヌ様、何故黙っていらっしゃったのです。この騎士は家柄も確かで、陛下の信も篤い。女王を説得するのは骨が折れたでしょうが、それでも何も隠すことなどなかったはずです」
王女の服を整える侍女を手伝いながら、わたしは詰るように王女へ言いました。御子はとうの騎士が抱き抱えています。寡黙な男だと思っていましたが、この時も何も言いませんでした。
「わたくしはこの子を「アクリアル王族」にするつもりがないのよ。この子は何処か遠くで、何も知らず穏やかに暮らせば良い。子が出来たことを知った時、わたくしはそう思いました……」
「何故です! この子は貴女様の御子、誇りあるアクリアル王家の一員として……!」
「本当に清い国だと思う? 本当に誇りある国だと思う? わたくしはそうは思いません。……確かに、何処で生まれれば幸福なのかは、わたくしにも分からない。でももうアクリアルは歪んでいる。この国に大切なわたしの子を置く訳にはいかない」
王女の言葉は決然としており、それでいてそのお顔は空虚に染まっていました。死相です。リリアーヌ様は、まるで死にゆく者のような顔をしながら、薄っすらと微笑みを浮かべて寝台に横たわっていたのです。
「わたくしにこの国を正す力はないわ。酷い親ね。でももう駄目なの……わたくしは弱いから……。わたくしはこの国に骨を埋めます、わたくしを頼ってくれた民の気持ちに報いるために。だからあなたに頼みたいの。この子を遠くにやるのを手伝って。彼のつてを頼り、面倒を見てくれる家は既に見つけています。侍女のひとりと共にこの子を送りましょう。あなたはその道中を守り……そして、出来ればその後も見守り続けて欲しい。お願いよ、わたくしからの最後の願いです……!」
懇願する王女の顔が、まだ幼き頃の泣きべそ顔に重なりました。彼女はわたしの大切な姉の娘なのです。何より、この国に不安を覚えているのはわたしも同じでした。
わたしは承諾しました。そして、もしこの国を建て直すことが出来たなら、この子を連れ帰っても良いか、と聞きました。王女は判断はあなたに任せる、と言って下さいました。姉さまにとっては大事な孫となる子です。その誕生を隠すのは心苦しいことですが、今の状態の姉さまにお見せする訳にはいきません。……殿下の顔が浮かんだのは、否定しません。
会話を終えた後、オーロラが庭園へやってきました。緊張を覚えたわたしですが、リリアーヌ様が呼んだようです。いつも通り透き通るような水色の目を持つ娘は、御子に名を授けに来た、と言います。
「名は人をかけがえのない物にするだけのものです。けれど力ある者が授けた名なら、その者の性質すら左右するでしょう。わたし、夜明けのオーロラが命名します。“ベルアウローラ”。この娘の名は、黎明を告げる鐘……」
産まれたばかりの赤子の額に指を押し当て、オーロラは厳かに呟きます。その瞬間、致命的に何かが変わるのをわたしは見ました。
「ありがとうオーロラ。わたくしの娘に力を授けてくれて……」
「これがどう転ぶかは分かりません。ですが黎明を告げる者は何処までも生き延びるでしょう。あなたの子供も、そうなると思います」
騎士から受け取った御子を丁寧に布でくるみ、小さな籠に入れ、わたしと侍女は旅立ちました。途中まで転移を重ね、辿り着いた場所は、アクリアルから西へ随分行った先の森だった。
転移を重ねて行ったため、時間はそれほどかかりませんでした。朝になる前に図書館に帰ることが出来、マイアに怪しまれることもなかった。しかしそのことに恐怖を覚える自分がいます。なんと大それたことをしてしまったのだろう、と。
この日の十数日後、王女殿下は自害しました』
『王女殿下が自害した後、坂道を転がるように国は傾いていった。
姉さまは毎日リリアーヌ様の名を呼び、森中を彷徨う。陛下はそんな姉さまを気にかけながらも、この機に乗じて攻め入ろうとする隣国への牽制、突然反抗的な態度をとり始めた諸侯らの対応に追われる。諸侯らは心を壊した姉さまに取り入ろうとし、姉さまはわたしの言うことも聞かず、甘い甘い言葉に惑わされ続ける。
水櫃。それはわたしたちの故郷。
「リリアーヌは水櫃に戻り、帰り道が分からなくなってしまったのよ。ならば入口を喚び出し、道を作ってあげなくては」
姉さまは毎日そう言い、わたしに協力を求めてきます。混乱する国の中、わたしは殿下まで死ぬことのないよう、多忙な陛下にかわり物資などの援助を続けました。しかし権限のないわたしでは官吏を説得するのが難しく、時に脅すような行為をして物資を確保しました。
わたしの判断は間違っていたのでは、と今更ながらに思います。娘がいれば、リリアーヌ様もあのような極端な行動に出なかったのではと。ですがあの時、わたしはリリアーヌ様が娘や夫共々身を投げるような気がして怖かった。だから御子を遠ざけることに同意したのですが、やはり間違いだったのでしょうか。
姉さまは着々と準備を進めています。何度も拒否したため、もうお前は妹ではない、と言われました。それでもわたしは姉さまを救いたい。
その為ならば、何だってしましょう』
「…………」
重い、重い沈黙が部屋に落ちる。お互いなんと言って良いか分からず、ただページに目を落とし、小さく呼吸を繰り返した。
「これは……」
初めに声を出したのはユスティーファだった。白皙の顔に困惑を浮かべ、これは本当にメリルルゥの日記か、と細く呟く。そうだよと短く返し、アンドラステは自嘲気味に微笑んだ。
「これが初めの魔女の真実。僕は知ってたけど……ここまで細部は知らなかったけど……君は、初めてだよね。この話を聞くのは」
「わ…わたくしは……! どういうことですかアンドラステ様、これでは、これではまるで!」
続く言葉を飲み込み、ユスティーファは小さな唇を震わす。
アンドラステの欲しい情報はなかったが、当時のことを当時のままに知れる資料を得られ、だいたい満足だった。
「じゃあ行こうか。魔女が上で待ってるよ」
「ままま、待ってるって……。しかし、わたくしは、その……!」
懇願する様な、迷子の子供のような顔。アンドラステは従者の小さな頭を撫で、苦笑して言う。
「ごめんねユスティーファ、僕は君が思うような高貴な人間ではないんだよ。君のしてきたことは、無駄だったかもしれない。魔女なんてつまらないし、聖者なんてもっとつまらないし、その従者はただのゴミに仕えているようなものだ。今更だけど謝っとくよ、ごめんね」
自分を傷付けるように重ねられる言葉。ユスティーファは数秒あっけにとられたように口を開けていたが、やがて常のように唇を引き結ぶと眦を吊り上げた。
「……何を勘違いなさっているのかは分かりませんが、わたくしの主人は貴方だけです。ちゃんとお話をお聞かせ下さいアンドラステ様。言葉の足りない貴方の癖を直すのも、従者の務めですから」
予想通りと言えば良いのか、予想以上にと言えば良いのか。
アンドラステは今度は困ったように微笑むと、うん、と頷き返したのだった。




