九: 聖者 アンドラステ in ヤクタ 02
――月の都 イェンティア
静謐たる水を湛えた、透き通るような銀色の水盆。
真っ白な台座に載せられたそれに、片膝を立て恭しく頭を垂れていた少女が、小さく息をついて立ち上がる。
「アンドラステ様、お待たせしました。行きましょう」
ユスティーファは微笑み、床に置いていた荷物を背に担いだ。
「聖なる水櫃を守る者として、初めての旅です。弱きを助けるは高貴なる者のつとめ。気を引き締めて行かねば」
そうだね、とアンドラステは頷き返し密かに溜息を溢す。左右にずらりと並ぶ聖職者たちの視線が酷く気に障った。義弟の門出を祝う兄の言葉をおざなりに聞き流し、さっさと屋敷の外へ出る。
『聖者』として避けられないのが、救世の旅であった。
「それがユスティーファの家に伝わる聖具?」
ずれた会話を繰り返しながらも、主従の結束を強めていった二人――アンドラステとユスティーファの両者は、共に修行に励むようになっていた。
「ええ、かの高名な聖女ユスティールの青の杖、『サンクタム・カエルレウム』です。ユスティールが没したと言われるアクリアル跡地にて発見されたそうです」
光によって水色にも濃青にも見える神秘的な短い杖。その滑らかな表面を撫でながら、ユスティーファは誇らしげに微笑む。
「わたくしが習得した聖法は十二。……アンドラステ様には遠く及びませんが、きっとお役に立てると思います」
それでも大したものだろう。通常の聖職者が身につけるのは大体六つほど。それもユスティーファほどには応用が効かない。成程聖者付きになるだけあって、彼女はとても優秀だ。
分厚い研究書に書かれた丸い陣を見つめ、ユスティーファは小さく何事か呟く。その玲瓏な声に合わせ、アンドラステの腕についた切り傷が徐々に癒えていった。ユスティーファが息をつき、不満げに眦を吊り上げる。
「……わたくしの鍛錬に付き合って頂けるのは感謝しているのですが。御身が実験台になる必要は……」
「本番は人にかけるのに、自分で練習してばっかりじゃ意味ないでしょ? 僕だって学校でそうしたんだから」
「ですが……」
「僕が良いって言ってるから良いんだよ。それより、ほら。失敗しなくなってきたじゃない」
まだ十一と幼い少女は納得しかねる様子だったが、主人に盾突くのも憚られたのだろう。渋々といった感じに頷き、研究書を両手で持ち上げてむーっと顔を顰めた。
「なんて名前にしょうかなぁ」
「は?」
「あ、いえ、すみません。今わたくしが使ったのは対象の傷を癒す聖法で……便宜上の名前はあるのですが、わたくしの父や母は自分なりの名前をつけているのです。それで、わたくしもと思って…」
「…………つまり君は、自分だけの詠唱を考えたい訳だ」
「はい! だって格好良いじゃないですか!」
その瞬間だけは年相応に快活な笑顔を見せる少女。アンドラステは理解しかねる、といった風に眉を顰めた。「アンドラステ様は淡泊に過ぎます」ユスティーファは幾分声の調子を落とし、取り出した紙に綺麗な円を描いた。このような声の時のユスティーファは、ちょっと不機嫌なのだとこの数カ月で学んでいる。アンドラステは苦笑して居住まいを正した。ちゃんと聞いてやらないと、この頑固な子は向こう三日はへそを曲げてしまうだろう。
「だって、聖具は生きているのですよ。詠唱は聖具に呼びかけるもの。自分なりの言葉を決めねば、聖具はきっと応えてくれません」
お決まりの文句にアンドラステは肩を竦める。魔法は詠唱が絶対必要という訳ではないらしいが、聖法には詠唱が必要不可欠である。それに対する説明に、『詠唱は神に捧げる詩なのだ』という派閥と『聖具に働きかけるもの』という派閥等が存在していた。ようは良く分かっていないらしい。
アンドラステは聖具を介して“水”を引き寄せると解釈しているが、ユスティーファなどは聖具の聖なる力が奇跡を起こす、と主張している。ただ王の話からしても、多分己の考えの方が正しいのだろう、とアンドラステは思っていた。
「昔はもっと簡単に性質の解析が出来ていた。なんせ情報網も発達しておらず、魔への風当たりも今よりきつかったからな。だが近頃は魔法使いを擁護する声をたまにとは言え聞くほど。まこと研究者に厳しい時代よな」
薄暗く広い室内に響く優美な声。紗幕を取り去ればすぐに陽が差し込むだろうに、敢えてそのままにしてある。元々陰気な性格なのだろう。
アンドラステは豪奢な長椅子に身を沈めたまま、男に一瞥だけくれてやった。この王もはなから答えなど求めていない。ただ愚痴を吐く相手が欲しいだけなのだ。
「人体実験だってままならない。数だけで言えばアクリアルが晩年行った実験に勝るが、成果は大差ないわ」
王の書庫には『禁忌』の資料が山ほどある。かつてのアクリアル貴族が持ち出したものだ。それを元に今の聖法実験の礎が築かれ、今なお水櫃の解析が続けられている。全くもって芳しい進行状況ではないようだが。
ひとつの性質を解析するにも恐ろしい時間がかかる。魔法使いや魔女を捕らえ、魔法の残滓を得、喧々囂々議論を重ねたり、得た性質を聖者に注入したり、聖具と掛け合わせたり、そうして得られた結果を書き留め、次代へ引き継いでいく。いつ成果が出る分からない、気の遠くなる作業だ。それもその根本の目的が『隠蔽』と『執着』ならばなおさら。
だから王はいつも疲弊しているのだろう。いつ終わるとも知れぬ欺瞞に怯えながら、降り注ぐ賛辞に愛憎を抱きながら。
そんな陰鬱な記憶を頭から払い、アンドラステは可愛い従者へと向き直った。
「もう何か決めてるの?」
「……はい。わたくしは丁度十二の聖法を修めましたので、それを時計に見立てようと思います」
一の針が、小さな魔を払い。二の針が、魔の動きを阻害する。
三の針が対象の足跡を追い、四の針が魔から身を守る。
五の針が対象の魔の力を封じ。六の針が傷を癒し。
七の針が呪いを解き、八の針が決められた武具を強化し、
九の針が魔の力への反発を利用し、力を生み出す。
「十の針は自分を中心に力場を爆発させる、十一の針は近くに居る者の聖法の手助けをする、そして十二の針は……操作、とでも言えば良いんでしょうか」
さらさらと紙の円に説明を書き加え、満足げに口元を綻ばせる従者。こう言う所は他の聖職者と似ているよな、とその頭を撫でてやりながら、「操作って?」と質問する。
「わたくしばかりが答えるのはずるいです。アンドラステ様も教えて下さい」
僕は別に適当だからと答えようとするが、あまりの期待に満ちた目に開けかけた口を噤んだ。数秒考え込んでから、「君と似たようなやつだけど」と切り出す。
「魔の力を封じるとか、魔への反発で攻撃するとか……。後は、対象に祝福与えるとかさ」
「祝福、ですか」
「うん。僕の聖者としての力。『光』の性質により、対象の能力を向上させたり、状態を向上させたり……まぁ色々」
わぁ、と少女の顔がアンドラステへの敬意に満ちたものになる。他の者にこういう顔をされると苛立つが、従者がすると、不思議とまんざらでない気持ちが湧き上がった。
「……まぁ、なんの役に立つんだか分かんないんだけどね」
「立ちますよ。世を救う力なのですから」
無邪気に笑う少女に、アンドラステは神妙な面持ちで俯く。この無垢な少女は、外の世界を見た時。どんな顔をするのだろうか。
どの聖職者も自分の正義を信じて疑わないのは、そこに疑念が介入する余地がないからだ。己は世を守り導くための剣である、己は聖なるものに仕え、水櫃を管理する者である。そう教えられ育てられた『子供達』は、自然と自分と仲間以外を見下し隔絶するようになる。時折それを疑う者が現れるが、そういう者は『教育』し直されるか秘密裏に処理されるか、或いはアンドラステのように枷や人質を用意されるのが常だった。
この子はどうか。美しい朱鷺色の目の娘。
ユスティーファは自分の使命にこの上なく誇りを抱いていたが、他人を見下しているかと言われると違った。この子はただ真摯だった。それは妄執にも似た頑なさだったが、不思議とこの子は最後の一線を越えることはないだろう、と予想出来た。どんなに魔法使いや魔女を憎み刃を向けようが、本当に傷付けることはしないだろう。仮に魔と聖の真実を知っても、酷く悩むだろうが、きっと答えを出すことの出来る娘だろう……今はまだ。
ただ、その純粋無垢な子が、人間の汚さを見て耐えられるかと言えば、話は別だった。
ユスティーファは無邪気に救世を信じている。人を『助ける』というある種の傲慢さを持っているが、助ければ皆優しさをもって生き始めるだろうという素晴らしい勘違いもしている。繰り返すのが人間なのに、だ。
「魔狩りの方々と違い、わたくしたちには戦で疲弊した街の人々を癒す使命がありますが……魔を司る者に出会う可能性もないとは言い切れませぬ。わたくし、誠心誠意アンドラステ様のお手伝いを致します」
気合いを入れるように何度も頷く従者。その姿が崩れるなら、やはり出奔して一人で生きよう、とアンドラステはひっそり決めるのだった。
二人が初めて旅に出たのは、アンドラステが十八、ユスティーファが十三の時である。
いかに厳しい修行を乗り越えたとはいえ、まだ年若い二人には旅は辛いものだった。毎日の武技の鍛錬、聖書の朗読、礼拝、教会での慈善活動、大人に付き添われての野営実習、それらの経験を駆使しても本物の旅は心許なく疲労を覚えるものだった。ただし日に日に迷子のような気持ちになるアンドラステに対し、ユスティーファは肉体の疲れと反比例して真剣な表情を見せるようになった。
「怪我をされている方はいらっしゃいますか?」
オンドーラは中立を謳っているため、戦争そのものには介入出来ない。だから主な仕事は戦から避難してきた人の救助や治療。病が蔓延する村があると聞けば薬を届けてやる。弱っている人がいればたわいもない話をしてやり、魔物が暴れているという話を聞けば討伐に向かう。
文章にすればそれだけのことだが、弱っている人間を見るのはそれだけで疲弊したし、そこで起きる争いには辟易という言葉しか出てこなかった。
人間、有事の際は協力し合えるというのは嘘である。
だが――ユスティーファは、アンドラステが思うよりずっと『頑固な』少女なのだった。
「お疲れのようですね、アンドラステ様」
幾度目かの野宿の時。つれづれに焚き火の灯りを眺めていた折、ユスティーファがお茶を差し出すのを見て、アンドラステは意識を浮上させた。あぐらをかいた姿勢から片膝を立て、その足にもたれつつお茶を啜る。
「アンドラステ様。はしたないです」
「……」
女性のユスティーファに注意され、釈然としないなりに足を伸ばす。微笑んだユスティーファが、薬草の調合器具を持ってアンドラステの隣に座った。朱鷺色の目が炎に照らされ、紅色とも茜色ともつかぬ不思議な色を宿す。
「ルカミットの山道を越えましたら、次はミシャに着きます。レヴァーンの影響を色濃く受けた街で、聖具に畏敬の念を持つ住人が多いそうなので、あまり歓迎されないかもしれません。しかし、それでこそ聖法の素晴らしさを教える甲斐があるというもの。教会の教えを広める良い機会でもあります。それにミシャでの活動を終えましたらオンドーラへの帰還が許されています……主よ、元気をお出し下さい」
別に特段オンドーラに帰りたい訳ではないんだけどね、と心の内に溢しつつ、表向きアンドラステは苦笑しておく。ユスティーファは心配性で気遣い屋なのだが、人の言葉は素直に受け取るし思い込みが激しい一面もある。だからあっさりアンドラステには騙されてしまう。アンドラステの顔に浮かぶ疲労も、きっと故郷を恋しがってのことだろうと、そう解釈しているのだ。
「……君は疲れてないの? 大変だろうに」
アンドラステも治療に討伐に様々こなしているが、それに加え雑用も引き受けているユスティーファの心労は並大抵のものではないだろう。十三の少女だからなおさらだ。しかし口下手なアンドラステは避難民との会話をユスティーファに任せがちだし、料理もからきしなので後片付け位しか出来ない。
――汗と泥まみれになった。怪我人の血で服を汚すなどざらにあった。死にゆく者の断末魔に顔を顰めた。足が棒になる位歩き通した。与えた施しに罵倒を返された。まだ幼い少年少女が戦わされている状況に遭った。飢餓にある村で食糧を巡って醜い争いを繰り広げる者たちの仲裁をした。自分が助かるために親しい者すら犠牲にする人間を見た。悲劇は、多くが人間そのものの手によるものだった。
薬草の調合を始めようとしていた少女は、主人の言葉に目を丸くする。
「問題ありません。ちゃんと鍛えていますから」
「うーん、肉体的な疲労もそうだけど、精神的にってこと」
「わたくしには御身に仕える使命があります。そのアンドラステ様と共に旅が出来て、むしろ光栄に思っておりますよ」
「…………」
にこにこ他意なく微笑む従者に、アンドラステはやや逡巡した顔を見せる。だが微かに目を伏せると、意を決したように切り出した。
「……そうじゃなくてさ。初めて外の世界を見てみて、幻滅したり、考えが変わったりしてないかってこと」
ユスティーファはきょとんと目を瞬く。だが主に試されているように感じたのか、きゅっと唇を引き結ぶと主人に向き直った。
「幻滅とは、どういうことでございましょう。何に、でしょうか」
「そのまんまだよ。今まではお綺麗なものに囲まれて過ごしてきたけど、現実を見てどう感じたかってこと」
ユスティーファの表情が曇る。アンドラステの言わんとすることを察し、すり鉢を置いて正座し直した。
「……そうですね。正直な所を申せば、衝撃を受けました」
「でしょう? 根っからの聖職者のユスティーファでも、やっぱりこんな事したくない、こんな奴ら助けたくない、とか思うんじゃないの?」
「……アンドラステ様」
咎めるようなユスティーファの声は、しかし常よりも張りがない。
「わたくしたちには、聖法が使えます。聖法は弱き者たちのためなのです。そんなことを言っては……」
「でも、そういう人間がいることは否定しないんでしょ?」
言いながら、何故僕は彼女を追い詰めるようなことを言っているのだろう、と意識の片隅で思う。そうして僕は、彼女から何を聞きたいのだろう。
アンドラステの幼い従者は、数秒考え込んだ後に顔を上げた。固い表情だが、不思議と意志の強さを感じさせる表情だった。
「……確かに、ああいう人間がいるのだと、驚くこともありました。わたくしは、皆助け合って生きるのが当たり前だと、そう思っていましたから……。だから、最初の頃は、本当は泣きそうなことがたくさんありました……」
そうなのか、と内心驚く。だが確かにこの少女は、騙され易くはあるのだが、隠したいと思ったことは隠し通せる少女なのだった。
「でもわたくし、初めてだったのです」
「……なにが?」
ふいに満面の笑みを浮かべるユスティーファに、アンドラステは訝しんで聞き返す。ユスティーファは白磁の頬を薄っすら紅色にし、はにかむように目を細める。
「あんな笑顔を向けられたことです。ありがとうと、心から言われたことです。オンドーラでは堅実な暮らしを心がけ、心を落ち着かせることを教えられてきましたから、あのような笑い声を聞くのは初めてでした。……とても、暖かいと思いました」
ユスティーファの語る言葉を、ぽかんと口を開けて聞く。
「子供にからかわれたのも初めてでした。わたくし怒りましたが、本当は楽しかったです。おばあちゃんに刺繍を教えてもらったのも、おばさんに怒られながら郷土料理を教わったのも……この旅は、初めて尽くしでした」
少女はなんのてらいもなく頷き、最後の言葉を言う。
「わたくしは、そういうものを大事にしたいのです」
「――そう」
「答えになったでしょうか……?」
「…………うん」
アンドラステは短く返し、それきり黙った。想いを言葉にするのが難しかった。
ただ。
胸に溜めていた空気を吐き出し。
揺れる瞳で、澄んだ夜空を見上げたのだった。
ここは決戦場だ。
魔女の待つ屋上へ続く階段を見上げ、アンドラステは小さく息をつく。
ようやく全ての欺瞞を見届けることが出来る。
きっとこれからも、自分は『聖者』以外にはなれないのだろう。
けれども、その中から見つかるものがあるなら、それだけでも良いと――そう思えるのだった。




