八: 魔女 リース 04
――ヤクタ 六階
六階はメリルルゥの私的な場所のようだった。
上ってすぐ左手に比較的大きな厨房があり、右手に湯浴み用と思われる空間があった。奥には簡素な寝台が置いてある。反対側は大量の紙やインクの保存庫のようで、書き損じの紙が所々に散らばっていた。
「おおー。昔は紙結構貴重品だったろうに。今はレヴァーンが量産してくれてるけど。原料は西の森林だけどね」
聖者がわざわざ右手を額に当て、眺め渡すような仕草をする。このような自由な所業を見るとどうして良いか分からず、リースはただ小さく頷くしかなかった。
「…レヴァーンは知の国だもんね」
「戦で逃げて来た研究者とかが一杯集まってるからね、あそこ。交易を結んでる国も多いから、戦争を仕掛けるのも容易じゃない…っと」
突然聖者が腰の剣を抜いたのを見て、遅れてリースが影の手を喚び出す。寝台の奥から、簡素な緑のドレスの異形が三人現れていた。
頭部が本になった異形は長く伸びた爪を掲げ、耳を劈くような奇声を上げる。本のページに書かれた文字が叫びに呼応してぐしゃぐしゃと入り乱れた。異形は抱きつくような格好で聖者へ飛びかかるが、聖者は透明な盾で爪を防ぐと、下からの袈裟切りで左脇腹から右肩を切り裂いた。余裕の頬笑みでリースを見る。
「そっち行ったよ」
「知ってるよ、うるさい」
リースが舌打ち混じりに右手を上げると、『手』は宥める風に異形の両肩を掴み、一気に床に叩きつけ――寝台の影に、水面に落とすように沈ませた。
一連の間に、手袋をはめ直した聖者が短く詠唱する。
『月の光に揺らぐ水』
その言葉に合わせ、透明な靄が三体目の足元に出現。つんのめるようにこけた異形へ、聖者は迷いなく剣の切っ先を突き刺した。
「なんか……武闘派な聖者さんだね…」
「ん? 聖者は皆こんなもんだよ……ああそうか、魔女に対する時は聖法中心だからね。ただこんなとこで槍放つと塔が壊れるし、ここの敵はたまに実体持たない奴がいるからさ」
「実体を持たないと、聖法は使えないの?」
やや目を瞠りながら聞くと、聖者は頷いて肯定する。
「うん。聖法は相手の力を利用して組むものだからね。相手の“水”に、相手の力を返しているようなもんになってしまう。実体があれば、その器を壊しちゃえば良いんだけど」
「へぇ…面倒なんだね」
「そうなんだよねー。ま、あんまり聖法使うの好きじゃないから良いんだけどさ」
「ふーん……じゃあ、だから聖女ユスティールは死んだのかな……」
なんとなくツェゼェラの話を思い出しながら、リースは靴のつま先で異形をちょんちょんとつつく。異形は軽く痙攣を続けているが、とりあえず死んでいるようだ。
「あー……。確かに、あの時代はまだそういうのが知られてなかったから、ユスティールも武芸はあまり磨いてなかったって聞いたことがある。護衛はいただろうけど」
そう、と短く返して厨房へ進む。あのお茶会で出たお菓子あるかな、と無意識に探しつつ、旧世紀の遺物といえる厨房内を見渡した。メリルルゥの人柄は知らないが、きちんと整えられている辺り料理好きだったのかもしれない。
そういえば、と聖者はリースを見る。
「君は、そういう知識を何処で得たの? 失礼な言い方になるかもしれないけど、魔女の暮らしというものは想像つかない」
この男、気遣い出来たんだ…と驚きつつも、リースは小さく肩を竦めた。
「…育ての親が、ある程度教えてくれた。それなりに本のある家だったし」
「ああ、育ててくれる人はいたんだ」
「そうだね。彼女が亡くなってからは一人だったけど」
変化のない日々ではあったが、人里での苦労を経た今では、何よりも大切な日々だったと痛感している。
ふと、何度も繰り返した問いを思い出す。辛いなら、家に帰ってしまえば良かったのだ。土くれの魔女の土地は、とても特殊なものだった。容易には人に見つからない。けれど、リースは帰らなかった。同じ魔女が欲しかったから。
――それだけか? 本当に?
「そっかぁ。一人で暮らすの大変じゃなかった?」
「結構軽く聞くね…。勿論、大変だったよ。上手く隠れられるようになるまで、随分かかった。……けど、哀しくなんてなかった」
聖者の青い目に哀れみが浮かぶのを見て、慌てて言い添える。自分より明らかに幸せな者に憐れまれることほど辛いことはない。
「何故?」
「何故って? そりゃあ、人間は汚いからだよ。そんなものの中に入れなくても、ちっとも構わない。わたしは同じ魔女を探して旅をしていたんだ」
「本当に哀しくなかったの?」
「……しつこいね…」
追及の言葉を止めない男に、段々むかっ腹が立ってきた。この男も旅をしていたのだ。人の汚さなど嫌というほど見て来ただろうに。それとも、他の聖者と同じように慈愛の精神で歪んだ感想を持っているのだろうか。
「わたしは幾つもの戦火にまかれた村を見た。自分のことしか考えない人間だってたくさん見た。伝承を知ってるよね、この亡国の。審判の日が訪れた時、亡国は甦る……この水の檻は、人への罰なんだよ」
人の間でまことしやかに囁かれる噂。それは、人の浅ましさを糾弾し、あの檻はその救済なのだと叫ぶもの。リースはそんなもの信じていなかったが、それでも口をついて出てきたのがこれだった。
「わたしは魔女だから、人なんてどうでも良い。むしろ高見の見物をしてやろうと思ってここに来たんだ」
哀しみを嘲笑に押し込め、震えを隠すために胸を張る。わたしは魔女。人に災厄をもたらす、恐ろしい魔女。だから、人への思慕など、持たないのだ――
だが聖者は目を伏せると、小さな袋を取り出した。
「あげる」
目を丸くして袋を見下ろす。微かに光を放っていた。
「霊廟の白の剣士の“水”が入ってるんだ」
「……何故、わたしに?」
「君が一番適任かなって。その“水”の持ち主は、長年人に疎まれていたんだって。人から排斥され、人に交わることが出来なかった。……だから、君に良いんじゃないかなって」
戸惑いながら、そっと袋に手を伸ばす。袋の口の隙間から、淡い青の輝きがちらりと見えた。
「なんか守人じゃないと力には出来ないみたいなんだけどさ。触って感じるだけなら、魔法使いや魔女にも出来るんだって」
「……なんのつもりかは分からないけど……」
紅い目の魔女の言葉が甦る。君は“水”を手に入れるべきだ、と。
「……じゃあ、もらう、よ」
ひったくる様に受け取り、ふいとそっぽを向く。聖者はしばらく飄々とした笑みで佇んでいたが、ふいに目を丸くすると身を翻した。
「ごめん。ユスティーファが来る。君もここにいると噛みつかれるよ」
「え?」
「契約結んでるから分かるんだ。下で引き止めとくから、先に上行って」
「わ、分かった」
慌てて階段にとって返し、ばたばたと七階へ上る。手近な本棚の影に身を隠し、ほっと息をついた。
急に静寂が寒く感じられる。リースは無意識に身を縮めながら、その場に座り込んだ。
手の中の袋を、恐る恐る開く。
青い光は、静かに点滅を繰り返すだけだ。
人から排斥された者、その“水”。
リースは目を閉じ、その光を手にとった。
流れ込んでくる悲痛な想い。相反する複雑な感情。
それは、リースに深い共感をもたらした。
人が恐ろしい。
人が恋しい。
幼い頃に負った火傷が疼く。
爛れた顔を晒す私を、奇異の目で見る人々。
私の手を引き、坂の下で置き去りにした母の目を思い出す。
人が妬ましい。
私も日の光を浴びたい。
だが主は言う。
月の光では不十分かと。
私の恨みは中々癒えなかった。
だが主は言う。
私は人の笑顔を忘れたくないと。
それこそが分かれ目だと。
そうして、私は月の光降り注ぐ場所へ招かれたのだ。
そうだ、とリースは頷く。
――結局、私は人を忘れられない。それでも良いから…その自分を認め、身命を賭して試みたいのだ。
自らの旅の目的を思い返す。これは、人を求める旅だっただろう。
リースは目を開き、握り締めていたハンカチを凝視した。
――彼は、彼はわたしを覚えているだろうか? わたしを魔女と知っても、拒絶しないだろうか?
たわいない出会いだ。だがその出会いこそが、少女に希望を与えるのだ。
――わたしにも、出来るだろうか? わたしはまだ、歩けるだろうか?
はっと顔を強張らせ、我にかえる。わたしは何を考えているのだろう。こんなことで左右されてはならない。もう馬鹿を見たくないと思ったはずなのに。
しかし、とリースは首を振る。
出来る出来ないではなく、そうせずにはいられないのだ。人を求めずにはいられないのだ。
――わたしはやはり、恐怖の魔女にはなれないのだ。みじめに無様に這いつくばりながら、それでも希望を捨てられないただの娘なのだ。
ハンカチをくれた青年の笑顔を思い出す。魔法を教えて欲しいといった女の言葉を思い出す。
――また、会いたい、な。
リースは、ようやくその自分を認めた。
――ヤクタ 七階
隅の椅子に腰掛け、再び青い本を開く。
『姉さま、お久しぶりです。メリルルゥです。覚えておられますか?』
メリルルゥの物語は、大輪の百合のような女の笑顔から始まる。
『もちろんよ、会いたかったわ、可愛い妹……』
大きな腹を抱えた女は愛おしげに腹部を撫で、妹へと笑いかける。だがその笑みには翳りが窺え、メリルルゥは心配げに眉を顰めた。十歳離れた姉の傍に寄り、労わるようにその肩を抱く。
『大丈夫ですわ、今度は御子も、姉さまの元に留まってくれます…』
『……ええ』
初子は死産だったと聞いているメリルルゥは、姉の憂慮が痛いほど分かった。
メリルルゥはほうと息をつくと、深淵から『光』を喚び出す。手のひらから溢れる光を部屋いっぱいに広げ、光のカーテンを作りだした。
『この光が、御子の道となりますよう……』
姉――クレトス王の妃リーンルルゥは、青白い顔を無理やり微笑ませ、妹に礼を言った……。
仲の良い姉妹。ようやく生まれた待望の後継者候補。幸せに安堵する姉夫婦。壮麗な光景を誇る大国アクリアル。
だからメリルルゥは、初子の真実を知っても、むしろ真摯に忠誠を強めるだけだった。
――この素晴らしい方たちを、どこまでもお支えしよう……
年は十も離れていたが、メリルルゥは姉を慕っていた。美しく聡明で、礼節を弁えた姉。実のところ、メリルルゥの方が第一妃候補であった程メリルルゥの力は優れていたが、クレトス王はリーンルルゥを選んだ。政略結婚である以前に、二人は愛し合っているのだ。
メリルルゥがアクリアルに呼ばれたのは、術者たちの教育のためだ。最強の術者として、新たに王国に知識を授けるため。
そうして図書館を与えられ、生徒を受け持ちながら、メリルルゥは人への愛を深めていく。
だから、自分が出来ることならば、なんでも。
あの悲劇が起こっても、メリルルゥはただその思いに忠実だっただけだ。
王国を揺るがす悲劇。
光が闇に転じる瞬間。
そうして水色の娘は招かれ、儀式は開かれる。
水櫃へと至る扉を壊すために。
最後に見た人物にぎょっとし、リースは目を見開いた。
「あれは……」
空を映した水面のような水色の目。灰色にけぶる髪。曖昧に微笑む少女は、紛れもなくあの噴水の淵に座る女を思い起こさせた。
「…………」
一旦本を閉じ、周囲を見回す。今のところ異変は感じられない。安全を確認した後、再び本を見下ろす。美しい装丁を指で撫で、鬱屈した想いを息で吐き出した。
「……」
目を閉じ、簡単な結界を周りに張る。こうすれば、何かあれば大事に至る前に気が付くだろう。
先程読むのを止めた所から、ゆっくりと本を開く。
さぁ、真実を視よう。
終わりに至る旅路を、始めるために。




