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水の亡国  作者:
第六項: 魔女の図書館
23/46

八: 魔女 リース 02

「魔女の図書館へようこそ。私は人に終わりを視る魔女、ツェゼェラ」




 はじめの言葉は、それだった。

 全てを塗り潰すような、向こうが透けて見えるような闇の中、稚気に満ち溢れた笑みを浮かべる女は、ふわりと宙に浮いて手を広げる。女とリースだけが、おぼろげな光のように真っ暗闇に浮かび上がった。


「はじめましてというべきだろうか。最も新しい魔女よ」

「ここは?」


 彼女の言葉を無視し、間髪入れずにそう問う。ツェゼェラは、リースの目的の人物ではないのだ。つれないな、と女は拗ねたように薄い唇を尖らせると、リースの前までやってきた。

 リースよりもずっと背が高い。両手を後ろで組み、覗き込むように首を傾ける魔女の背に、艶やかに光の輪を作る黒髪が広がった。優美な獣のような紅目が、リースの全身を眺める。


「ここは私の領分。哀しみの“水”を取り込み、変質し、囚われた、そのなれの果ての場所」


 象牙のように白い指がリースの顎をとらえる。リースは無表情のまま女を見返した。

 上も下も何処もかしこも真っ暗な闇の中――全く性質の違う二人の魔女は、つかの間不思議な表情で見つめ合った。

 ふいに、終わりを冠する魔女はしなやかに笑う。


「さぁ。新たなる挑戦者たちよ」

 何処までも広がる闇に、美しい声が響き渡る。


「あなた方は、全てを終わらすことが出来るか?」

 眠りに誘うように、目覚めを促すように。


「終わりの魔女たる私に、終焉を見せてくれるか…?」








 ツェゼェラは、最初に亡国へ挑んだ者である。

「『歴史』を語ろうか。人を喰う本に喰われたが故に、誰も知らぬ『歴史』を。ただの記憶を」

 溌剌とした少年のようなやや高い声。ただのその声が呪文だったかのように、闇の中に幻影が浮かび上がる。


「初めに“水”を得たのは私だった」


 幻影は美しい女の姿をかたどると、不遜な笑みの女の影は、白い衣を翻して歩き出した。

「かつてこの亡国を訪れ、終わりを視るために、私は“水”の所有者となった。“水”は私に優しくはなかったが、多くのことを教えてくれた」

 女の放つ透明な刃が騎士たちを、黒い犬を、異形の本を切り裂く。女はそれらの“水”を手に取り、検分するように眺めた後、胸に抱き寄せた。


「次に“水”を得たのは、小国の王アリストラだった」


 女の影の後ろに、深緑の布を纏った男が現れる。銀の剣を携えた男は、実直そうな目で前を見据えた。

「今は亡き国……アクリアルに飲まれて消えたんだったか。かの国の土地はレヴァーンが蘇らせたそうだな。…王は国を救いに向かい、正義にとりつかれ、“水”を求め“水”にのっとられた」

 真摯だった目を狂気に染め、男は剣の柄を握り締め、ひたすらに敵を薙いでいく。だがその刃は同時に男を傷付け、遂に男は倒れた。


 翡翠の輝きが、一瞬だけ闇の中に閃く。

「私は自らによる終わりに興味がなく、彼は“水”にのっとられたが故に、再び仕切り直しとなった。歴史に残らぬ翡翠の血が、破滅を少しだけ先延ばしにした」

 そして、と。リースと並んで立つ女は、その紅の目をリースへ向ける。

 五百年後、水の檻の再誕。

 うっすらと喜びが透ける声に誘われるように――まどろみのような水のヴェールが、雲の切れ間から差す光の如く、空を覆っていく。


「最初に“水”を取り込んだのは、今度は鋼鉄の騎士だ」


 水のヴェールを叩き潰すように斬るのは、鋼鉄の鎧を身につけた騎士。兜は被っておらず、厳めしい顔が露わになっている。

「防具から鋼鉄と名付けられたのか、無愛想だから鋼鉄と呼ばれたのか? どうでも良いので割愛するが、彼は“水”を得ても変わらず、素朴であったが、彼には共に戦う仲間がいなかった。…良くない時代だった……」

 最後まで剣をふるい続けた騎士は、最期も淡々と終わりへ辿り着いた。


「賢者アムル。魔法にとりつかれ、“水”を求め“水”に溺れた者」


 齧りつくように書物に向かう、灰褐色のローブの老人。狂ったように筆を走らせ、自らの理論の足跡を残していく。

「君は知ってるよね? この老人を。彼は、魔法を『愛して』いた…」

 魔法の体系化を為した人物。その男を見つめながら、リースはただ沈黙する。


「聖女ユスティール。彼女は”水”の受け取りを拒否し、そのまま人として死んだ」


 夕陽を閉じ込めたような豪奢な金髪が、女が両手をふるう度に揺れた。丈の長い上着を身につけた、苛烈な眼差しの女である。女は朱鷺色(ときいろ)の目を細め、短い青の杖を天高く掲げ、徹頭徹尾自分の力を以って敵を退けた。少しだけあの聖者の従者に似ている、とリースは微妙な面持ちで佇む。


「そして、灰色のユト」


 次に浮かび上がった人物を見、リースは目を瞠った。

「鍛冶屋……」

「最も鋼鉄の騎士の仲間足り得た男だ。しかし彼は水の友たることを選んだ」

 無愛想な騎士に向かい、磨かれた剣を差し出す好々爺じみた男。彼らは大層仲の良い友人同士に見えたが、爺は淡い光に目をとめると、騎士の元を離れた。

「彼は今も、水の傍にいる」

 水色の淡い光だ。光は若い娘の姿をとると、寂しげに微笑んだ。

 

 再び、翡翠色の輝きが閃く。

「また、仕切り直し」

 おぼろげな幻影の中、一瞬だけ奔る強い閃き。それは陽を浴びた草原、美しい宝玉の緑だ。

「そして、今」

 その尊い色とは真逆のような、血のような紅がリースを見る。

「魔法使い、戦士、聖職者、聖者、騎士、狩人、傭兵、深淵の怪物、そして魔女……。これだけの役者が揃うのは、初めてだろう」

 なぁ、新しい魔女よ。ツェゼェラはそう微笑み、たおやかに手を広げる。

 リースは首を振り、きっとツェゼェラを睨んだ。

「わたしは、終わりになんて興味ないわ……」

「終わりから逃れたがるのは人の性さ。しかし君は、『知らなければ』ならないのでは? 終わりに至る旅路を、はじめるために」

 君はまだ、自分すら見つめられていないのだから。

 その言葉に、リースは口惜しそうに俯いた。

「『歴史』の授業はおしまい。ただの話をしよう。折角会えたのだから」

 急にツェゼェラは優しく頷くと、くるりとターンして左手を優雅に振った。その手の動きに合わせるように、闇の中に真白い空間が生まれ、木のテーブルと二脚の椅子が現れる。

「雑談にはお茶がつきものだよ。さぁ、いらっしゃい」

 テーブルの上には、ほかほかと湯気をたてるお茶、可愛らしい砂糖壺、美味しそうな菓子。リースは虚を衝かれた。そんな暖かなもの、物語の中でしか見たことがないのだ。 

そんなただの少女を、魔女は優しく見つめた。

「全部私の奢りだからね、なーんて。さぁ」





――魔女のお茶会


 奇妙なことになった。

 亡国に来てから異常な事づくしだが、これは輪をかけて酷い。

 良い香りのする茶や菓子が前に置かれても、リースは中々手をつけることが出来ない。本心では、喉から手が出るほど憧れたものを前にして、落ち着いてはいられないのだが。貝殻を模した形の、ふっくらと膨らんだ狐色の生地。甘ったるい香りがリースの所まで届いてくる。

「砂糖どうぞ。甘いもの嫌いでも、ちょっと砂糖を入れると香りが良くなるらしい。あとお菓子はあったかいうちに」

「……」

「なに、別に毒は入ってないよ。そんなの趣味じゃない」

「……殺しに、趣味なんてあるの」

「もちろん」

 ツェゼェラは優雅にティーカップを傾け、頬杖をついてにっこり微笑んだ。

「私は人の『終わる』瞬間が最も美しいと思う。その瞬間を彩ってやらなくて、なにが魔女ですか。私にも魔女の矜持というものがあるんだよ」

「…ただの人殺しじゃない」

「そう思ってくれて構わない。……しかし君は、自分の適性を見誤ってるようだな。君はこんなにも人の光に焦がれているのに、闇を名に冠するなど」

 リースは戸惑い顔で魔女を見た。何故この魔女はこんなにもリースの気に障ることを――こんなにも的を射たことを、言うのだろう。


「君は魔法をなんだと思ってるか? 自分の中から作りだすもの? でも水櫃は、自分の外にあるんだ。魔法は自分の性質を反映したものだけじゃない」


 魔女は人差し指をぴんと立て、指先に炎を灯した。

 赤い、赤い血のような炎を。

「私は人に終わりを視る。……それこそが私の魔法。終焉が私の冠する魔法。君は闇を冠するべきじゃないよ、『希望の魔女』よ」


 闇のように真っ黒な目を見開く。

 闇のように真っ黒なワンピースの裾を握り締める。

 だがそれは、リースが望んだものではなかった。

――わたしは、人に怒りと、憧れを――…


「私たちは世界の水櫃から生まれ、種々の性質から構成されている。個々の“水”も種々の性質を持つが…私が王子の“水”を得た時、私が見出したのは彼の諦観の性質だった。終わりへと至る諦観のね」

「王子? どういうこと?」

「それはまたおいおい話すよ。…だから、私たちの魔法は共感の魔法なんだ。そして、共感は確かに自らの性質の一部と言えるが、それが全てではない。それよりももっと――自らが焦がれてやまないものこそが、君の冠するべき魔法と言えるのではないかと思う」

 だって、とツェゼェラは言葉を続ける。

「人の“水”から力を取り出すこと…ちょうど今、君の仲間がやっているように…それは、水櫃から性質を取り出すことに似ていると思わないか?」

「何故そのことを知ってるの? それに、何を言いたいの?」

「この図書館は人を喰うからね、知ってることは多いんだ。私はこの場所から、人を喰った本を引き寄せ、読んでいた。…私が言いたいのは、君は無理して闇を手繰らなくても良いと言うこと。私たちの魔法の真骨頂は、人に何を視るかということが一番である」


 リースは小さな唇を噛み、しばし押し黙る。ツェゼェラは気にした風もなく追加の紅茶を注ぎ、狐色の焼き菓子を口に運んだ。茶器の立てる音だけが、何処までも続く暗闇に響いた。

「……何故、わたしにそんなことを言うの?」

 ツェゼェラが四個目の菓子を食べ終わった時、ふいにリースは顔を上げる。ツェゼェラはやっとかと微笑み、リースの冷えたカップに指を押し当て、熱で暖めてやった。

「正直、三度も繰り返すのは飽きた。早くこの亡国を終わらせてやって欲しい。その為には、君にしっかりしてもらわなきゃね」

 小鹿のような黒目が魔女の紅の目を見据える。そこには何の他意も含みもなかった。ただ少し、疲れのようなものが見えるだけだった。

「……あなたは、戦いが好きなのに? 戦場で多くの人間を殺したのに?」

 戦場に現れては、敵味方関係なく殺した魔女。世界で最も恐れられた魔女は、しかしほろ苦い笑みを浮かべると首を振った。

「私が狂っていたことは認めるよ。様々な人の終わりを見たり、終わりを促したり、演出してやったりするのが好きだった。ごちゃごちゃに混乱させて戦争を早く終結させるのも好きだった。長引いて全て壊れてしまっては意味がないから。けど、哀しい終わりをずっと視続けるのは、楽しくない」

 ツェゼェラは息を吐き、曖昧な目で遠くを見つめる。なんとなくリースも溜息をつき、自棄気味に紅茶をあおった。

 飲み干した紅茶の味は、想像より苦く、しかし不思議な爽快さをリースにもたらした。

「……いいわ。わたしだって、みじめな終わりを迎えるつもりなんかない」

「そうこなくっちゃ」

 ツェゼェラは悪童のような笑みを浮かべると、もひとつ追加と新たな焼き菓子を喚び寄せるのだった。




――さぁ、楽しくお茶会を


「アクリアルはね、割と身分を重視した国だったんだ。王と公爵、貴族たち。奴隷はいなかったが、民衆の中にも格差はあった。たくさんの国や土地を合わせて出来た国だからな、その辺は色々複雑だったらしい」


 リースが吹っ切れたように菓子を食べるようになると、ツェゼェラは嬉々として様々な菓子を用意した。何処からこんなものを取り出しているのかと聞けば、「『接続』の性質を用い、図書館の厨房からもらってるんだ。聖法にもあるだろう、遠くと繋げるやつ」と答えられた。材料に非常に不安が残るのだが、今更健康に気を遣うような身でもない。リースは初めて食べる菓子の数々に、内心歓声を上げている。


「侵略した方の国の民に不利な条文を設定したり、怨恨回避にその地方の統治を元々その国にいた貴族に任せたり、比較的大きい国を併合した時は、その国の君主に公爵の地位を与えたり。でもそういう国々の所有していた聖職者や魔法使いらはがんがん吸収してったから、武力という意味では並ぶものがいない状態だったらしいな」

「詳しいんだね」

「私はアクリアルがなくなってから、百年くらい後に生まれたから。流石に少しは資料が残ってるし、君の時代よりは記憶している人も多かった。アクリアルは水を信仰していたが、具体的な形を持つ神を信仰していた国を侵略した時は、その国の宗教に支援金を出した上で、その神は水に仕える者である、っていうのを教典にこそっとつけ足して何十年もかけてじわじわ広めていった。まぁ色々あくどいことしてたな。仕方ないね」

 リースは軽く頷きつつ、疑問点を口にする。

「魔法使いって、昔は国に仕えていたの? 今は逃げ回ってるけど」

「ん? ああそうそう、そうなんだよ。私の代でももう、魔女は忌避されていたけど。アクリアルの滅亡は、魔女のせいということにされてしまったから」

 何でもないことのように、ツェゼェラは言う。

 だがリースは目を見開いた。その言葉は、聞き過ごせるものではなかった。

「ということに、された…?」

「魔女はね、ひたすら利用されただけなんだよ。メリルルゥは悲哀の魔女。非道な実験なんて真っ赤な嘘、心優しい魔女だった」

「何故そんなことが分かるの?」

「私は一度、彼女の“水”を取り込んだから」

 またそんな訳の分からないことを。

 顔を顰めるリースに、ツェゼェラは根気よく続けた。


「言っただろう、この悲劇は三度繰り返されていると。女王の術と王の妄執が亡国を甦らす。そのために“水”も繰り返される。私やアリストラ、アムル、鋼鉄の騎士、ユトらは一度“水”を取り込んだがために、何百年もこの亡国に囚われているのだ。……私が魔女の”水”から感じたことは、ただひたすら『哀しい』、ということだけだったよ」


 それは、途方もない話だった。

 現在にあっても、”水”の研究は遅々として進んでいない。その技術の多くは聖職者たちが握り隠しているし、水櫃の研究だって多くが理論の域を出ないのだ。戦乱が多く巻き起こる世、資料が焼けてしまうことだって少なくないから、”水”にそんな力があるなど、リースは知らない。

 何より生まれた時から今まで、魔女として迫害され続けたリースは、そんな事実を迂闊に受け入れることは出来ない。単純に痛い目に遭いたくないからだ。魔女は非情なばかりでないと、確かに彼女は知っている。だが、迫害される原因の大元が嘘などと、そう簡単に信じたくない。信じてはならない。

 理性に反し熱くなりかける心臓を押さえ、リースは低く呻く。

「戯けたことを…」

「君は一度、“水”を手に入れるべきかな、と思う。そして直に感じてごらん」

「魔女は忌み嫌われるものだわ…。存在からして違うと、多くの人が言う。いるだけで災厄を引き起こすと、誰もが言う。聖者と魔女の別は何故生まれた? それ相応の理由があるからでしょう!」

「そうだね。だが、メリルルゥの所業の多くは、本来女王や諸侯のものだった。下剋上を目指す諸侯らと、それに操られた哀れな女王の行いの数々。それらを見ていた女王の妹メリルルゥは、人に『悲哀』を視るようになった――」

 メリルルゥが、女王の妹? 思いがけない事実に、頭が混乱する。


「女王は優れた術士だった。それはすなわち、彼女も水櫃を旅する者だということだ。クレトス王は水櫃の旅人を妃に迎えた。そして愛する娘を失くし、狂った彼女に、諸侯らはこう持ちかけたんだ。水櫃に戻った娘を取り返すため、水櫃を自分たちで造ってしまおうと…」


 全ては、単純な話なのだ。

 絶大な権力をふるう王の力を削ぐため、力をつけようとした諸侯は、王妃の力を利用しようとした。その悲劇を止めるため、自らを犠牲にしたメリルルゥに、生き延びた諸侯の一部が全ての罪を着せた。全ての資料を作り変え、塗り変え、『魔女』という存在を作り、全てをなかったことにしようとした――。

 反論より疑問より先に、おぞましさに吐き気がする。

「じゃあ…じゃあ、わたしはそんなことで、今まで…?」

「そうだね、そんなことで今まで、酷い目に遭ってきた」

「っ……」

 亡国に挑む者なら、本来は暴かれた事実に奮起すべきだろう。敵の打倒を掲げるべきだろう。だがリースは、それよりもやるせなさを感じた。憤りを感じた。心細さにも似た哀しみを感じた。

――非情な魔女の先例があるなら、自分が迫害されるのも仕方がないだろうと、そう――…

 そう、彼女は自分を納得させていたのだった。

「わたしは…っ!」

 溢れ出した涙が頬を伝う。ぶるぶると震える手が服を指が白くなるくらいに掴む。それでも、押さえられない嗚咽が漏れ、肩を震わした。

「可哀そうだと思うよ。私は正直自分を狂人と自覚しているから、迫害自体に不満を持ったことはなかったが。でも、仲間が罵られるのを見るのは、良い気分じゃなかった」

 率直なツェゼェラの感想が、今は心地良い。安易な同情も慰めも、今は欲しくなかった。

「……君には、メリルルゥに会って欲しいな。そして、考えて欲しい。この本をあげよう。読む気になったら読んで」

 何処からか取り出された、簡素な装丁の青い本。分厚いが、日記のようだった。

「メリルルゥを記憶する人々を喰った本さ。文字で書かれた本ではないから、君にも読めるよ。それと、メリルルゥが良く過ごした部屋は地下の書庫だったよ」

「……あり、がとう」

「…少し眠っていくかい? 夢の中で眠るというのも奇妙だが、起こす人がいるなら、眠りの夢を見るのは悪い事ではないかもしれないな」

「夢の中…?」

「そう」

 いつの間にかテーブルたちが消え去っている。再び闇が周囲に広がっていった。ツェゼェラが白い手を伸ばし、滑らかな手の平でリースの両目を覆う。まるで全てを覆い隠すように、全てから覆い隠すように。

「眠ると良い。ここは夢の中、終わりの魔女が用意した寝床。…眠りと終わりには似通ったものがあると思うから」

 視界が闇に包まれると同時に、ふわりと眠気が襲って来る。いつものような、朝が来ることを希う(こいねがう)ような眠りでなく、ただ安心する様な眠りだった。

「おやすみ。君には起こしてくれる人がいるから、だいじょうぶ」

 リースは、眠りに落ちた。





――ヤクタ 四階


 目を覚ますと、黒衣の魔法使いが顔を覗き込んでいた。

「あ…やっと起きた。良かった、心配してたのよ」

 ゆっくりと体を起こすが、特に体の強張りは感じない。あまり長い時間伏せていた訳ではないようだ。

「急に倒れ込んで、十分くらいかしら? 意識を失ってて…とにかく、心配したのよ。二回くらい敵に襲われたし。燃やしたけど」

 周りを見渡せば、倒れる前の景色と少し違う。隅の方に場所を移動してくれたようだ。

 礼を言って立ち上がろうとし、スカートから分厚い本が滑り落ちたのに気付く。

「あら? そんな本、持ってたかしら…?」

「……心配しないで、わたしの本だから。ありがとう、ヴィヴィー。助かった、起こしてくれて」

「え? いえ、良いのよ」

「魔法、教えて欲しいんだよね。でもごめん、先にやることがあるから。その後でも良い…?」

 上目遣いでそう問うと、魔法使いは慌てたように頷いて微笑んだ。

「ええ。約束よ」

「うん」

 誰かと約束をしたのは、それが初めてだったかもしれない。

 リースはヴィヴィーに別れを告げると、塔の地下へ向かった。

 メリルルゥが好んで過ごした、地下の書庫。そこには様々な実験書と拷問道具が――。

 そんなものは、やはりなかった。

 地下は所狭しと本が積まれ、中央に小さな椅子とテーブルがあるだけの空間だった。

 その椅子に腰掛け、リースは青い本を開く。

 途端に、いつかの光景が、眼前に広がった。


『お前の書庫を、霊廟として使わせてもらいたい。メリルルゥ』

『姉さまの伴侶の頼みを断ることは出来ませんわ、陛下』


 真紅のマントを翻しているのは、若き時代の王の姿だろうか。黒々とした髪は後ろに撫でつけられ、堂々たる偉躯は支配者の風格を漂わせていた。

 その王の前に、恭しく跪くまだ幼い少女がいる。

――悲哀の魔女、メリルルゥ。

 女王とは年の離れた姉妹であり、当代最強の魔女と謳われた少女。

 少女メリルルゥは褐色の髪を背に流し、澄んだ蒼の目で敬愛する主を見上げた。

 それは誇り高く、王家の者としてふさわしい光景だった。


 思いがけない光景に、リースは目を瞬かせた。迷いなく毅然と前を見据える姿。奥に秘めた思いやり。それをリースと同じ魔女が体現している。リースには得られなかったものを。

――いや。

 ポケットのハンカチを取り出し、リースは目を細めた。

 このハンカチの元の持ち主は、ただの人間だった。

「……わたしはもう泣き言はいわない。わたしを狩ると言うなら、喜んで相手になろう」

「物騒だなぁ。僕はただ話がしたいと、言っているだけなのに」

 虚空に投げた言葉に、あっけらかんとした男の声が返った。

 リースは剣呑な目元を隠さず、声の方へ顔を向ける。

 一階からの階段から音もなく現れたのは――当代最高とされる、聖者である。


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