第八話 『祝福のアダージョ』
今すぐにでも母さんの記憶に触れたい。そう思いつつも、迷いが胸の中にあった。
本来俺が知ることができないはずの母さんの記憶を、自分の欲のままに覗く。その行為は本当に認められるのか。
そして何より、ここにある記憶たちは、人の手が触れた瞬間に崩れ去り、他の人には届かない。もちろん、自分でもう一度見ることもできない。
――それは、なんだか勿体無い気がした。
一人勝手に葛藤していると――、
うにゃーぁあ……
少し遠くから猫の声の反響がした。そちらへ目をやると、黒猫が一つの結晶の下でブンブンと尻尾を振り、時折結晶に飛び掛かるそぶりを見せていた。
なるべく他の結晶に触れないようにしつつ、猫の声に導かれるように氷の部屋を進む。
猫のところまで辿り着くと、猫は尻尾を舐めるのをやめ、結晶を見上げて一声鳴いた。
「これを触ってみろって?」
指差しながら確認すると、みゃおと威勢のいい返事が返ってきた。
心にはまだ葛藤がある。それでも、この猫の意志を――いつしか見失っていた母さんを思い出させてくれた黒猫を、信じてみたかった。
こくりと頷き返し、そっと氷に手を伸ばす。
△▼△▼△▼△▼
私はそっと、膨らみ始めた自分のお腹に触れてみる。
まだ胎動は感じないが、そこには一つの命が息づいている温かさがあった。
「桃音ー!色々買ってきたぞ!」
「秋ちゃんおかえりー。見せて見せて」
犬のように元気でコロコロ笑う、私の愛する旦那様こと長峰秋良が紙袋から次々と育児グッズを取り出す。
紙おむつにガラガラに、絵本まで。
「……まだ絵本は早くない?」
「いーんだよ!読み聞かせの練習しなきゃな」
我が旦那様はどこか抜けていて、いつでも前向きで。弱みを見せず、いつも厳しかった実家の父とは大違い。
――お腹の子も、そんな子に育ったらいいな。周りでみんなが笑ってくれて、みんなで幸せを掴み取るの。
「桃音?どうしたの?すっごい口角上がってるけど」
表情に出ていたらしい。口元に手を当てながら、真面目な顔を作ってみる。が、耐えきれず笑い出す。
「もーなんだよー」
秋ちゃんだけがぶーたれた顔をしているが、その顔もすぐに綻んだ。
実家を飛び出して六年。色んなことがあった。
ピアニストとして仕事をもらい、拍手を浴びて。
時にお金がなくなって、バイトを掛け持ちして。
休みの日に、新しい料理に挑戦して。
秋ちゃんと出会って、安心できる場所が増えて。
家を飛び出した頃は、成功こそ幸せと考えていたのに、いつの間にか普段の生活にも小さな幸せが増えていって。しかも子供を授かることまでできた。
「ねえ秋ちゃん。子供の名前、なんにしようか」
「えー?何がいいかな。やっぱ音楽系の漢字は外せない……?」
秋ちゃん自身も、ポップス系の仕事についている。音楽にまつわる名前は、私たちの子供にふさわしいと心の底から思った。
「そういえばね、奏って漢字を使いたいの」
「へー?それはなんで?」
「奏って漢字はね、音を奏でるって意味だけじゃなくて、物事を成し遂げるって意味があるから。功を奏するとか言うでしょ?」
「あー、なるほどな。いいかも。いや、むっちゃいい!」
奏にどんな漢字を合わせたらいいだろう。読みも考えないとな。ありきたりすぎても面白くないけど、みんなに読んでもらえるやつがいい。
「あ!あとね、奏は、ものが集まるって意味もあるの。知ってた?」
ふと思い出した知識を秋ちゃんに披露する。
「えーなんで」
「湊って字があるでしょ。さんずいつけて。物が集まる港と関連のある漢字だから、らしいよ。どーだ博識であろう」
眉をぴょこんとあげる秋ちゃんに、思わず自慢したくなり、胸を張る。
音楽が流れるところには、人が集まる。音楽が流れたら、皆の心は揃い、踊り出す。
古来から、音楽はそういう性質を持っている。
皆の心を繋げ、幸せを生んでいく。そして自分のやりたいことを成す。
うん、やっぱり名前には奏の字を入れよう。それがいい。
手近にあった紙とペンを引き寄せて、隅っこに奏と書く。
自然と、その紙に印刷されている楽譜が目に入る。
――そうだ。曲を作ろう。
大学を出てからなかなか作曲する暇がなかった。でも休暇中の今なら。
お腹の子は私にとっての幸福そのものだ。私にとっての幸せを詰め込んだ曲にしよう。
そして、この子が成長したら、プレゼントするのだ。きっと世界があなたを祝福してくれるから。
気分は窓の外に広がる青空のように晴れ渡っていて、心は空を舞うひばりのように軽やかだった。
秋ちゃんと他愛のない日常を、笑顔で包みながら、頭の中に流れる旋律を捕まえようと、手を伸ばした。
△▼△▼△▼△▼
ふっと現実に舞い戻り、視界に冷たい氷の部屋が戻ってきた。
ぽろぽろと、こぼれ出す涙が止まらない。
記憶にない、朗らかな僕の父親。家族であることに幸せを見出すことができた母さん。
――その二人の間に、祝福されて生まれた俺。
ずっと俺のせいで、母さんが苦労していると思っていた。離婚して、好きだったピアノを辞めて、指先の荒れそうなパートを掛け持ちして。それでも俺には笑顔で接して。
俺は母さんにとって負担でしかない。そういう自覚がずっと心の奥底には眠っていた。
けれど、母さんは俺を祝福していてくれた。俺に将来送るためのプレゼントまで用意して。
言い表しようもない気持ちで胸が一杯になる。
俺からこぼれ落ちる涙を、黒猫は静かに受け止めていた。
以前投稿した話に誤字を見つけましたので、訂正しています。
(内容に変化はありません!)




