第九話 『カミツレのフィーネ』
「……よし」
腕で顔を拭い、前を向く。
周囲に広がるのは冷たい、けれど暖かい氷の部屋。
足元にいた黒猫を抱き上げ、目線を合わせて問いかける。
「俺、母さんからプレゼントを受け取りたいんだ。それで前に進めそうだから」
母さんの見出した幸せの形を受け取る。想いを伝えられず、後悔したあの時の続きを紡ぐのだ。
そうすれば、あの日止まってしまった時間が動き出す。そんな気がした。
だから、俺をここまで連れてきてくれた黒猫に、どこか間抜けな声で俺を誘う黒猫に、願う。
「俺を、連れてってくれないかな」
果たして黒猫は、ふみゃお!と頼もしく尻尾を振って見せたのだった。
猫を床に下ろすと、迷いなく部屋の中央——ピアノの方へと歩き出した。俺もそれに続く。
中央で黒く光を弾いていたピアノは、全体的に薄い氷に覆われていた。鍵盤の蓋はすでに開いていて、氷さえ解ければすぐにでも弾けそうだった。
そして、天板の上には、人が一人すっぽり収まりそうなほど大きな氷が浮いていた。
黒猫は天板の上に飛び乗り、こちらを見つめる。
俺も見つめ返して頷き——黒猫の背に左手を当て、右手で氷に触れた。
△▼△▼△▼△▼
「行ってらっしゃい」
「——」
塾に向かう奏音に、台所の扉越しに声をかける。奏音からの返事はなかった。
——まあ、喧嘩したばっかだもんね……。
些細なことだった。今にして思えば、あんなにギャンギャン言い争う程でもなかったのに。
——それでも、ちゃんと仲直りしないとなあ。お菓子でも買ってくるか。っとその前に。
昼ごはんの用意を済ませ、自室にあるパソコンを立ち上げる。ちょっとポンコツになり始めているパソコンの起動を待ちながら、部屋の片付けをし、それ——茶色い封筒に入れたレコード——が棚の隅っこに変わらず置かれているのを確認する。
奏音を産む前に思い立って作曲を始めたものの、いまいちしっくりくる曲が出来なかった。というより、育児は忙しいし、仕事は復帰しなきゃならないしでてんやわんやだったので、しばらく手をつけなかったのだ。そうしたら、曲の締め方がわからなくなってしまった。
音楽的にこうするのがいい、というのはある。けれど、数年間のうちに自分の幸せの形が変わってしまったのか、なんだか腑に落ちないのだ。
パソコンがフォンッと動き出したのを確認して、ファイルを開く。作曲をひとまず終えた時の録音データだ。このパソコンがいつ壊れるかわかったものではないので、レコードにもダビングしておいた。奏音にバレたらバツが悪いので、今度実家に行くついでに置いておくつもりだ。
お父さんもお母さんも、秋良と離婚した時から私の味方をしてくれて、今では年に数回顔を合わせる仲に戻っている。これも最近増えた幸せの一つ。
っと思考が逸れすぎだ。こないだテレビで言っていた、マインドワンダリングとやらだろうか。まあ、そんなことをのほほんと考えられている間は、いい日だと言うことでもある。
ようやく再生の始まった音源に耳を澄ませる。当初はメソッドに沿ってメロディテーマを作っていたのだが、今はどうでもいいと思っている。
これは世に出す音楽じゃなく、奏音に、愛する息子に届けるものだからだ。形式とかはどうでもいい。その代わりに、私にとっての幸せを象徴する旋律を意識した。
私にとっての今の幸せは、家に帰った瞬間。奏音と過ごすだけで、今日あった良いことが何倍も良く思えて、嫌だったことが吹き飛ぶから。特に冬はあったかい家の空気が大好きだ。
曲の序盤では、ぽんぽんと柔らかく降る粉雪をイメージした明るくて、軽い旋律。
その後通勤中に見える、波飛沫を上げる海をイメージした荒々しい旋律。
最後に、街の明かりと雪の反射、軽い足取り、その他諸々の感情を込めた、天井に舞い上がっていくような旋律。
奏音、喜んでくれると良いなあ……。曲を聴くたびに、そう思う。二回音源を聞き、パタンとパソコンを閉じる。
部屋の電気を落としてから、マイバッグと財布をポシェットに突っ込み、外に出た。
街には春麗らかな陽気が満ちている。澄み切った青空に浮かぶ太陽と沈みゆく白い月。新緑の香りを乗せて、頬に吹き掛かる暖かい風。
さっきの曲を頭の中で再生しながら、活気あふれる商店街を抜け、スーパーマーケットに入る。
——んー。今日はカレーと野菜炒めかな。
特売のシールが貼られたにんじんと玉ねぎを見て、一番たくさん入っていそうなネットを選ぶ。肉はちょっと奮発して牛肉にしよう。じゃがいもは家にある。キャベツも。
買い物を済ませ、最後にレジ近くのお菓子コーナーへ向かう。知育菓子やらクッキーやらが並ぶ棚の中から、かりんとうの袋をかごの中に入れる。
奏音はああ見えて、黒糖が好きらしい。喜んでくれるといいな、なんて思いながら会計を済ませて家へと向かう。
信号を挟んで向こうにある商店街に、赤いポップが立っているのが見えた。行きはうわの空で気付かなかったが、そういえば今日は母の日だった。
——商店街に新しくできたお店、試してみよっかな。
最近できた可愛らしいケーキ屋さんがあるのだ。信号が青に変わり、ルンルンと鼻歌混じりに白いカモミールをあしらったケーキを購入する。その時だった。
——あ!これだ!
曲の続きが、私の幸せを彩る最後の音が、決まった。
満面の笑みでケーキ屋さんにお礼を告げ、少し駆け足で家への道を急ぐ。
曲のテーマは、家路。奏音が待つ家へ帰る甘い時間。じゃあ、最後は家のドアを開けた時の音——つまり、ドアベルの音しかないでしょう?
思えばあのベルの音は完璧だった。雑多な金属音を奏でるだけのベルではなく、綺麗に基本音が響くベルなのだから。低い音から一オクターブ上の高い音まで、一気に駆け上がる。そんな音がするのだから。
終わりを見失っていた旋律と、同じ特徴だった。
この調子だと、今年奏音に贈れそうだな。ちょうど十歳になるし、良い感じ。
気分は軽やかに、そして伸びやかに。頭の中で完成した旋律に酔いしれて、家路を進む。
交差点を曲がった時だった。頭の中の曲にクラクションが乱入する。車のヘッドライトが、目を焼いた。白く焼き切れた視界に、ゴムがアスファルトと擦れる音が近づいてくる。
———――—。
――――。
――――――——あ。
目が痛くなるような青色に、光を吸い込む黒色に。視界が二転三転する。
道路に、野菜がころころと、ころがった。




