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氷の鍵盤  作者: 宵凪琴葉


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第十話 『結びのカノン』

——ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……


 ……?メトロノームが鳴ってる。なんで?止めなくちゃ。

 腕を持ち上げようとするが、自分の体は思い通りに動いてくれなかった。ピリピリとそこかしこに走る痺れを自覚して、ようやく気付く。


 ——ああ、やっちゃった。


 多分、車に撥ねられた。感覚はあるから、どこも欠けてないけど……ピアノ、弾けるようになるかな。まだまだ■■と弾きたい曲、一杯あったのになぁ。あぁ、やっちゃったなぁ……。


 ——ほんとほんと。あーもう……。

 ——んもー!桃音ってほんと、おっちょこちょい!おたんこなす!


 聞き馴染みのない声に、思わず目を開け——ようとして出来ないことを思い出す。


 ——なんで、私の名前を知ってるの。


 見知らぬ声は答える。


 ——ちょっと!忘れちゃったの?私達よ!

 ——私はヴィヴァーチェ。こっちはカノン……。思い出した?


 え?ヴィヴァーチェにカノンって猫だよね?喋れるわけなくない?同姓同名のだれかが喋ってる?誰か知り合いにいたっけ……。


 ——あーもう!鈍い!


 ぽふっという音と共に、鼻のあたりがじんわりと温かくなる。それと同時に懐かしい香り。


 ——ほら!ヴィーも早く早く!

 ——えー私も?


 躊躇いがちに、二つ目の肉球が顔に置かれる。


 間違いない。あの二匹だ。二人とも、私の部屋によくきていたから。匂いを嗅いで、触れて、気付かないはずがなかった。


 ——思い出したみたい。


 そっと片方の手が退けられる。でも、もう片方の手は——、


 ——えー?久々に会えたんだよ。もう少しくっついてていいでしょー。


 そう言って、毛足の長い肉球が顔を撫で回す。くすぐったくて、思わずクスリと笑い——軽い咳と共に、掠れ声が喉から出てきた。


「宮森さん……!気付きましたか」


 答えようとするが、咳込みしか出来ない。そっと上体を抱え起こされ、水の入ったコップが口にあてがわれた。


「宮森さん、聞こえますか?お水、飲みたかったら頷いてください」


 飲みたい。必死に頭を振る。くらぁっとしたのでそこで振るのをやめた。


「じゃあコップ傾けますよー」


 声と共に、冷たく甘い液が口内に入ってくる。水ってこんなに美味しかったのか。


 だんだんと元気が出てきて、うっすらと目を開けてみる。ぼんやりとした視界に、自分を囲む白い影がいくつか見えた。


「あ、あれ……?カノン。ヴィヴァーチェは?いないの……?」


 二匹の姿を求めて、視線を彷徨わせる。


「宮森さん。聞こえますか?わかりますか」


 二匹がいない。さっきまで、お腹の上に重みを感じていたし、鼻に暖かみを感じていたのに。白一色の部屋には、黒も茶色も見当たらない。思わず、声が漏れる。


「あの……ふたり、どこ?」

「見当識障害かも。ご家族になるべく早く来てもらえるよう、連絡して」


 見当識?ああ、自分の状態を把握できてるかってやつか。それなら私の意識はおかしくない。だって、いたんだもん。絶対に。


 ——桃音。桃……ね……


 ほら。いるじゃない。でも少し音が遠のいた気がした。いや、聞こえなくなった。

 二人の姿を、二人の声を求めて、私の意識はさらに深く潜る。


 ——宮森さん!聞こえますか?


 あぁ、うるさい。また声が聞こえなくなるじゃない。無視して、さらに深くへ。


 ——桃音!なんで戻ってきちゃったの……?

 ——また会えた!ねえ、もう一度、抱かせてよ。ずっとずっと、寂しかったからさ。


 ようやくしっかり聞こえるようになった。二匹に最後に会ってからの数年間、心の底に溜まっていた愛情を思うままに示したくて。思わず溢れ出た言葉に返ってきたのは、拒絶だった。

 

 ——戻ってきて欲しくなかった。


 え……?思考がショートする。ちぎれた回路がなかなか繋がらない。溺れた人が酸素を求めるように、本来あるべきだった——あってほしかった答えを求める。


 ——なんで?いや、なんて?

 ——返ってきて欲しくなかった、だよ。だって桃音には、■■がいるでしょ?


 縋り付くように絞り出した言葉。ヴィヴァーチェは静かに私を諭す。


 ——■■くんだよ!忘れちゃだめだってばぁ……!

 ——桃音。私たちと別れた後のこと、ちゃんと思い出して。私達なんて見えなくても、触れなくてもいいんだよ。あなたはそれより幸せな事を知ってるはず。


 二人と別れた後……?まずカノンが家からいなくなって、私が家を飛び出して……。

 日向くんと別れて、何人かと付き合った後に秋ちゃんに出会った。それで……あっ。


 ——奏音。


 ——そう!そうだよ!奏音くんがいるでしょ?桃音は起きなきゃ。

 ——奏音くん、悲しませたら、だめ。


 うん。そうだね。奏音にたくさん教えたいことがある。もっと一緒に笑っていたいし、まずは仲直りもしないと。


 ——二人とも。じゃあ、行くね。


 返事はない。けれど、二人の尻尾が——もこもこした尻尾と、先っぽででカクリと曲がった尻尾が——触れる感触がして、手がぽわりと暖かくなった。

 息苦しくなってきた水面下から、陸を、生を求めて。私はぐんぐんと昇っていく。


 ほら、水面が見えた。キラキラと光が舞っていて、奏音の声が聞こえる。お父さんとお母さんの声も。

 あと、もう一息。


 ——行かせない。


 高いとも低いとも取れる、変声機を通したような声が鼓膜を打つ。さっきまで力強く水を蹴っていたはずの足が重い。ふと見ると、鎖が巻き付いていて、数メートル下で、黒衣の人物がそのもう一端をハシリと握っていた。

 

 ——いやだ。


 全力でもがき、全身を駆動させて上を目指そうとする。だけれど、無理だった。虚しく水をかく両手の先で、水面がみるみるうちに遠ざかっていった。

 ——あなたは、だれ。

 ——俺かい?なんだろうね。死神?悪魔?でも、意外と天使なのかもよ。嬢ちゃんは、どう思う?


 「かな…と……」

 

 私の意識は、静かに闇に沈んだ。

 


 

 ——桃音!おかえり!


 気付けば、視界の真ん中に毛足の長い黒猫がいた。その隣にはそっぽを向くふりをしながら、こちらをチラチラ覗き見る茶色と白のまだら猫も。カノンとヴィヴァーチェだった。カノンは満面の笑みでこちらを見つめながら、すり寄ってくる。


 ——ねぇねぇー!カノン、ご飯食べたい!


 そういうカノンの口元をよく見ると、キャットフードの欠片がついていた。吹き出しそうになるのをこらえながら言う。


 「カノン……ご飯はあげたばっかでしょ?」


 ——むぅーバレちゃったか。ね、桃音。今度は、いなくならないよね?


 ツーンと辛い香りが鼻をくすぐる。ふと、違和感を覚えた。カノンの横のヴィヴァーチェは何も言わない。ただその曲がった尻尾を舐めるだけ。

 

 ……カノンは、こんな事言わなかった。


 そう思った瞬間、カノンの笑顔が凍りつき、視界が歪み始めた。一日寝続けたシーツからぺりぺりと剥がされるように、意識がゆっくりと浮上を始める。

 

 ヴィヴァーチェが幸せを引き寄せるかぎしっぽをゆったりと揺らす。

 誰かの舌打ちの音が、はるか下方から聞こえた。

 また水面が近づいてくる。さっきよりももう少し近く。そこで浮上が止まる。

 

 ……ここまでかな。

 なぜか、ストンと腑に落ちた。諦めたわけじゃない。奏音ともっと話したかったし、笑っていたかった。美味しいものも食べたいし、素敵なおばあちゃんになりたかった。

 身体はこれ以上動きそうにもない。それでも、外の音だけは聞こえていた。


 「……ねえ、ママ?今日は母の日なんだよ?喧嘩しちゃったから……まだ、ごめんなさいできてないから……!カーネーション、買ってきたんだよ?」


 あぁ、奏音。私もごめんね。

 ついかっとなって、言い過ぎた。かりんとう、渡したかったな。ケーキ、食べたかったな。

 思うだけじゃなくて、ちゃんと仲直りがしたかった。


 カーネーション、買ってきてくれたんだね。

 受け取ってあげたかった。きっと、驚いて、それから思いっきり抱きしめただろうから。


 「……ねえ、なんで寝てるの!僕、買ってきたんだよ……?店員さんがおまけもつけてくれて、笑って欲しくって……!ねえ、またピアノ弾くって約束だったじゃん!なんで?なんでなの……?」


 もう、色々話すことがごっちゃになってるよ。

 おまけかぁ。見たかったな。何もらったのかな。

 花を買おうと思ってくれただけで、ううん、いてくれるだけで嬉しいよ。奏音といたら、私はいつでも笑顔だよ。あ、喧嘩したときは違ったけど……。うぅごめん。

 

 ピアノ、私も弾きたいよ。弾けなくなっちゃってごめん。無責任だけど、これからも弾き続けてほしいな。奏音、上手だし。

 

 そういえば、レコードは家に置きっぱなしだから、いつか気付いてくれるかな。未完成だけど、これが母さんの伝えたかった音楽だよ。


 あぁ、まだ伝えたいことがいっぱいあるな。親不孝にもなっちゃう。死にたくないなぁ……。


 みんなごめんね。先に行くよ。


 ——これまで、ありがとう。楽しかった。


 一人でに意識が沈んでいく。

 ピリリと、カーネーションが香った。



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