第十一話 『雪解けのファンタジア』
「……っはぁ、はぁ」
俺は肺いっぱいに空気を貪る。胸の奥で、心臓がバクバクと跳ねていた。
俺は無意識に、隣にいる猫を撫でる。
呼吸が収まるのを待って、辺りを見回す。
目の前にあった氷は跡形もなく崩れ、小さな破片が、周りをキラキラと舞っていた。
様々な思いが去来する。
曲は完成していた。俺の言葉は届いていた。母さんは、最期は自分の運命を受け入れていて……、その上で感謝の言葉を残して逝った。
——もっと一緒に居たかった。もっと色んな母さんを見たかった。大人になった姿を見せたかった。一緒に料理をしたかった。好きな物をプレゼントしてあげたかった。
胸に湧き上がる言葉を一旦は押し殺し、母さんの思いを咀嚼する。自分の心に刻み込んで、吸収して。
感情の奔流がひとまず落ち着いてから、黒猫に向き直る。
「母さんからの贈り物、ちゃんと受け取れたよ」
何気なく猫の頭に手をぽんと置き、ワシワシと撫でる。かぎしっぽがパタリパタリと揺れる。
ふと、手を止めて告げる。
「ありがとう」
猫の目が、満足げに細められた。
ひとしきり、猫と戯れた後、意を決して鍵盤の前に立つ。うっすらと残っている薄い氷の膜に手を触れると、氷はさぁっと空気中に散り、また集まって椅子の形を作った。
今しがた出来たばかりの椅子に腰掛け、鍵盤に手をそえる。目を閉じると、ホールに置かれたピアノ特有の、冷え切った硬い質感が伝わってくる。天板から飛び降りた猫が膝の上に収まり、ほわりと体を温める。
静かに一音目の鍵盤を沈める。
これが、母さんからの最後のレッスン。
幻想曲、家路——
鍵盤の冷たさとは裏腹に、コロンと丸くて暖かい音色が溢れ出す。
冬空の下、着膨れした母さんと商店街に向かって歩く。手袋越しに触れる手は互いの体温を伝えあい、溢れる吐息はふわりふわりと弾ける。
ぽんぽんと降りしきる丸い粉雪が街の光を一層華やかにし、足元でキュッキュッと弾む足取りを告げる。
サンタさんに何お願いするの?なんて会話をして。商店街のイルミネーションが二人を迎える。
ゴォォッ、ドーーン……
身を切るような風がピューピューと吹き付ける。目の前の海は、白いしぶきをあちらこちらに吹き上げて、腹の底を震わせる。
白いカモメが翼をすくめて、岩の上で立ち尽くす。空で輪をかくトンビも、風に煽られ、松林にある巣へと引っ込んでいく。林からは時折、パァーン……と木の割れる音がこだまする。
頬に拭きかかる塩水が、頬に流れる涙を溶かし飲み込む。パンッと頬を叩いて気合を入れる。
氷が張った泉の水が、コポコポと氷を叩く。気泡が次々生み出されては、間も無く爆ぜ、かすかな抵抗を示す。じわりじわりと押されて、厚かったはずの氷が、薄く、薄くなっていく。パキリパキリと、静かに氷が解け始める。
暖房の効いた事務所から外に出る。
身をすくめながら、家に帰る道を急ぐ。白く凍った空気が、その足取りをかすかに示し、数秒の後に掻き消える。
コツコツというブーツの音、弾む息。テンポが徐々に上がっていき、気分もどんどんと上向いてくる。
アンティーク調のポストがある玄関に辿り着き、ドアを押し開ける。
チリーンチリーンと、軽やかな音が優しく出迎える。
部屋の奥からトテトテと、可愛らしい足音が聞こえる。
こんこんと泉から水が湧き出る。ちろちろと下る水は、川を覆う雪を押し流し、泡がぱちぱちと爆ぜる。
空から舞い落ちる細雪もみるみるうちに減って行き、春の訪れを告げる風にさらわれ消える。
草が、花が、虫が、鳥が、空が、祝福の音を上げる。
私も、今日という日を言祝ぐ。この暖かい日を。
命あふれる、この日々を。
——ただいま。
たった三音。母さんが見つけた、最後のピース。
ベルの澄んだ音色が、曲の最後を彩り、冬の空気をそっと押し流した。
止まっていた時が、凍りついていた心が、ゆるゆると溶けていく。
閉じていた目を開けると、俺は元いたはずの氷の部屋ではなく、白銀の森にいた。
白銀の森のピアノは、いつの間にか黒い輝きを取り戻しており、ほのかにぬくもった鍵盤は、柔らかく光を弾いていた。色素の抜け落ちていた葉には、春特有の瑞々しい緑色が戻り、小鳥が囀っていた。
木々の間に立ち込めていた霧の向こうに、かすかに光が見え、俺はそれを目指して歩いて行く。
足にピシリとかぎしっぽが当てられる。そのまま巻き付きだしたので、苦笑しながら黒猫を抱き上げて、俺は進む。
霧の中に入ると、ほのかに露を乗せた下草が、ハサリハサリと擦れ合う。露が落ちるたびに、チリチリと高い鈴の音が森に響いた。
霧の向こうの光が、だんだんと茜色を帯び始め、じわりじわりと肌に温もりを伝える。猫の毛についていた霜も溶け始め、ポタポタと雫を落とす。
猫が突然体を震わせ、顔に飛沫が飛んでくる。肩に顔を擦り付けて拭いていると、ふみぃ……と少し申し訳なさが滲んでいそうな声が聞こえた。
仕返しに、猫の喉元をわしゃわしゃとくすぐる。
ごろごろという猫の声を聞きながら、俺は霧を突き抜けた。
——瞬間、視界が明るい光に満たされ、辺りを包んでいた湿り気がさあっと引いていった。
次回で完結します。




