最終話 『幸せの花』
——戻ってきた。
正午前の春の日差しに照らされる住宅街に俺はいた。腕の中の猫は、何もなかったかのように地面に降り立ち、伸びをする。
「……今の、本当にあったこと、なんだよな?」
伸びの姿勢のまま、猫は大あくびをした。
ポケットの中に動物病院のお釣りがあるのを確認して、俺は商店街を目指す。付いてこないのかと訊いたら、猫は駆け足で寄ってきた。
商店街の中で、一際鮮やかな赤のポップと、華やかな香りを漂わせる店——フラワーショップの前に立つ。ペットが入れるか分からないので、黒猫には店の外で待つよう声をかけておいた。
深呼吸をしてから、店に入る。
「いらっしゃいませー!」
元気のいい店員さんに軽く会釈を返し、店内を物色する。一際目立つのは、やはりカーネーション。赤はもちろん、黄色やピンクの変わり種まで、かなり広めのコーナーに集められている。
一通り品揃えを確認してから、カウンターへ向かう。
「すみません。白いカーネーション、ありますか?」
店員さんの目がまんまるになり、二、三回瞬きをする。しばし口ごもってから、彼女は口を開いた。
「あの……失礼ですが、白のカーネーションの意味ってご存知ですか……?」
「大丈夫です。知ってます」
そう言うと、彼女はアワアワとし始めて——、
「……っ!大変申し訳ありません!在庫、確認してきますので少々お待ちくだ——」
「あるよ」
彼女の言葉を遮って、バックヤードとの仕切りらしいカーテンから初老の男性が顔を出す。カウンターに立つ彼女の口が、てんちょう、と動く。
あっけに取られる俺と彼女をよそに、彼は続ける。
「白いカーネーションだよね。店内には出してないんだけど、数本置いてあるんだよ」
「一本欲しいんですけど、おいくらでしょうか?」
彼女より先に我に返り、値段を尋ねる。
男性は顎に手を当てて、少し悩む素振りを見せてから、こう言った。
「うーん……。花言葉は知ってるんだよね。それなら無料でもいいよ。まあ」
「いや、流石に無料はこちらの気が引けます。受け取って下さい」
カウンターに1500円を並べる。二人が何かを言う前に続けて言葉を紡ぐ。
「それと、赤のカーネーションを2本」
「……!かしこまりました」
男性はバックヤードに引っ込み、店員さんは店内に花を取りに向かう。その背に、一つ思い出して声をかける。
「すみませーん!かすみ草も一本、お願いします」
はい!と軽やかな声が返ってきた。
男性がバックヤードから白い花を手に戻って来る。まもなく、一本ずつラッピングされたカーネーションを手渡された。かすみ草は白のカーネーションにつけてもらった。お釣りを受け取り、店を出る。
去り際に——、
「今日は、いい日ですね」
初老の店長が、そう言いながら店の前まで出てきて、手を振ってくれた。店の奥からは、ありがとうございましたー!と最後まで威勢の良い声が届く。
振り返って、会釈をしてから、背を向けた。
ビニール袋を下げた腕に、店の横の路地に座り込んで顔を洗う黒猫を抱き上げる。少し離れたところから猫を観察していたらしい女子学生が、寂しそうな顔をしたので、近づいて声をかける。
「触ります?ちゃんと洗ってるのできれいですよ」
おずおずと黒猫に触れた学生は、ほぅと息を一つついて、微笑む。
「……可愛いですね」
「この子、かぎしっぽなんで、きっと幸せが付いてきますよ」
「……!ありがとうございます」
ふわりと、笑顔の花が咲いた。
二言三言交わしてからお別れし、撫でられ足りなそうな黒猫を回収する。猫は、学生の姿を見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。
「さ、帰ろ」
腕の中の黒猫に笑いかけ、商店街に背を向ける。
一歩踏み出すごとに、ビニール袋がカサカサと揺れた。
澄みきった青空に、鮮やかなハナミズキの花。サツキの爽やかな香りに、石塀に絡みつくツタの放つ、ほのかな甘い香り。そよ風に揺れるポピーに、羽音を轟かせるクマバチ、電柱で囀るイソヒヨドリ。
世界が色に、香りに、音に満ちていた。
「このカーネーション、どうしようか」
誰に話しかけるでもない独り言が、まろやかな空気の中に吐き出され、溶ける。うにゃんとご機嫌な猫の声がした。
カーネーション、じいちゃんとばあちゃんに一本ずつプレゼントするか。それとも先にじいちゃんに渡しておいて、ばあちゃんに二人でプレゼントするか。
……後者のほうが良いかな。普段から仲がいい二人だが、ばあちゃんが母の日にかける執念はたまにこちらを驚かせる。つまりは、この選択に宮森家の平和、ひいては夕食のおかずの品数がかかっている。
きっと今日も猫と戯れて、祝日なんて忘れているだろうじいちゃんに、カーネーションを渡したらどんな顔をするだろうか。愉快な風景を思ってふっと笑みがこぼれる。
そして——残った特別な一本に目を落とす。
そうだ。白いのは窓際に飾っておこう。かすみ草も添えて。
瞼の奥に想像したカーネーションは、外から吹き込む柔らかい風にそよそよと吹かれていた。リーンと部屋の中に澄んだ音が響く。風は太陽の香りを孕んでいた。
弾む足取りで家路を進む青年と猫を、春の日差しが暖かく包んでいた。
これで氷の鍵盤、完結となります。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
作中で奏音が買い求めた、白いカーネーションの花言葉や意味、もし気になったらぜひ調べてみてください。この物語が、より深く皆さんの心に届いたら嬉しいです。
また、まだ予定段階ではありますが、本作の外伝を投稿するつもりです。
投稿が始まったらまた活動報告にて報告いたします。
改めて、ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました!次の作品でお会いしましょう。




