第七話 『追憶のカンタービレ』
凍てつくような空気が肌を刺す。
仄かに視界が色を取り戻し始め、霧がすっかり晴れると、この世のものとは思えない風景が広がっていた。
水色、紫、ピンク。様々な色を乱反射する氷に囲まれた空間の中に、黒光りするグランドピアノが一つ。
ピアノを取り巻くように、氷の粒が放射状に散らばって浮いていた。指先ほどの小さいものから、ラグビーボールほどの大きさのものもあり、中でも一際大きい結晶が中央――ピアノの上に鎮座していた。
何気なく、すぐそばに浮いている小さな粒に触れてみる。指先に触れた氷はふわりと解け――、
「負けられない」
芯の通った、凛々しい声が耳朶を打った。辺りを見回すが、他の人影はない。足元で、霜を纏った黒猫がぶるぶると体を震わせるばかりだった。
「――でも、母さんの声……だったよな。今の」
中央へ一歩踏み出しながら、手近にある氷に次々触れていく。
「どうして分かってくれないの」
「まだやれる。がんばれる」
「あー!おかえりー!」
「嘘つきッ……!」
「だって、音楽が私の中を巡ってるんだもん!」
割れんばかりの拍手。洗濯物の間を吹き抜ける、乾いた風。塩辛い海の風と、ちょっぴり苦い涙。
結晶が解けていくたびに、母さんの声が、母さんの感じたものが、自分の中に流れ込んできた。
――少し、離れたところに大きめの結晶が浮いていた。一歩進めば触れられる。それくらいの距離に。
「……母さん」
ふらふらと誘われるように、結晶に近づき、両手で包み込む。視界に、光が弾けた。
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和室にあるちゃぶ台に、重苦しい空気が立ち込める。
「……それで、話というのはなんだ。桃音」
呼び出したのは自分だ。それでも、威圧的な父の声に腕が震える。もう片方の腕で、震える手に爪を立て、平静を装う。
「私、ピアニストになります」
父のそばで静かに佇んでいた母の目が見開かれる。
「桃音、それがどういう事か分かって――」
「俺は認めん」
「父さん!」
母さんの言葉を遮って、父が断固たる口調で言い切る。抗弁しようとするが、それさえも遮られ――、
「確かに、音大に行くことは許可した。会社に入るのは苦労するだろうが、音楽を教えられるようになれば最低限の金は稼げるからな」
「でも……」
「教室を開くなら、資金援助もしてやる。だがピアニストは駄目だ。資金援助もしない。お前はそれでどうやって生きていくつもりだ」
私はグッと唇を噛みしめる。
音楽の世界は厳しい。父の言うことはもっともで、秀でてはいるものの、際立った才を持たない私には、音楽だけで生計を立てていくことなどできそうにもない。
ただ、それでも、人には譲れないものがあるのだ。震える拳を握り直し、自分の中にある迷いを打ち破る。
「父さん、それでも私はピアニストを目指します。私の中には音楽の泉がある。そこから弾きたい曲が、まだこの世に産声を上げてない曲が、湧き続けているんです。この曲たちを世界に生み出せないなら、私に価値はない」
皆の心を惹きつけ、癒やし、時に鼓舞する。そんなメロディがあるかもしれない。いや、きっとある。
この気持ちを、この素晴らしい旋律たちを、皆に届けずしてどうやって生きていこうというのか。
父の目を真っ直ぐ見つめ、続く言葉を紡ぐ。
「お金のことは自分でなんとかします。父さんには頼りません。それに、日向君がいます」
「……ハッ!日向?お前の新しい彼氏か。彼氏頼みでうまくいくとでも?どうせすぐ逃げられる」
「いいえ。彼は私を支えてくれる。そして、私も彼を支えます。そうやって生きていくと決めまし――」
「それに、音楽なんぞで人の心は動かせん。諦めろ。」
プツンと、私の中で何かが静かに弾けた。この道を進むことに反対されるのは予想していた。だけれど、この人は日向君を貶して、音楽を否定した。
――もう、いいや。
「わかりました。もう理解してもらおうとも思いません。明日家を出ます」
「……なっ。何だその口の聞きようは!」
「子供の希望にも耳を傾けない親にも、自分の意志を素直に口に出せない親にも、愛想が尽きました。もういいです」
糸の切れた人形のように無表情のまま、言い切った。そのまま私は踵を返して、二階にある部屋へと向かった。呼び止める声が聞こえたが、もう気にもならなかった。
その日のうちに必要なものをボストンバックに詰め、翌朝日が昇り切る前に家を出た。
玄関で靴を履いていると、茶色と白のまだら模様の猫がすり寄ってきた。
「ヴィヴァーチェ。私はもういなくなるから、母さんに構ってもらってきて。じゃあね」
扉を開けて、私は新しい世界へと踏み出した。希望に満ちた、どこまでも続く世界へと。
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フッと意識が戻る。両手で触れた氷はすでに崩れ、僅かな水滴だけを手のひらに残していた。
「今のは母さんが学生の時の記憶……」
あたりを見回す。視界にうつる限りでも、同じくらいの大きさの氷が何十個もーーいや、もしかすると何百個も浮いていた。
――その一つ一つに母さんの人生が、俺の知らない母さんの過去が。そして、その痛み、その想いが詰まっている。
改めて、この空間に圧倒され、俺は立ち尽くすことしかできなかった。




