表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の鍵盤  作者: 宵凪琴葉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/13

第七話 『追憶のカンタービレ』

 凍てつくような空気が肌を刺す。

 仄かに視界が色を取り戻し始め、霧がすっかり晴れると、この世のものとは思えない風景が広がっていた。


 水色、紫、ピンク。様々な色を乱反射する氷に囲まれた空間の中に、黒光りするグランドピアノが一つ。

 ピアノを取り巻くように、氷の粒が放射状に散らばって浮いていた。指先ほどの小さいものから、ラグビーボールほどの大きさのものもあり、中でも一際大きい結晶が中央――ピアノの上に鎮座していた。


 何気なく、すぐそばに浮いている小さな粒に触れてみる。指先に触れた氷はふわりと(ほど)け――、


「負けられない」


 芯の通った、凛々しい声が耳朶を打った。辺りを見回すが、他の人影はない。足元で、霜を纏った黒猫がぶるぶると体を震わせるばかりだった。


「――でも、母さんの声……だったよな。今の」


 中央へ一歩踏み出しながら、手近にある氷に次々触れていく。


「どうして分かってくれないの」

「まだやれる。がんばれる」

「あー!おかえりー!」

「嘘つきッ……!」

「だって、音楽が私の中を巡ってるんだもん!」


 割れんばかりの拍手。洗濯物の間を吹き抜ける、乾いた風。塩辛い海の風と、ちょっぴり苦い涙。


 結晶が解けていくたびに、母さんの声が、母さんの感じたものが、自分の中に流れ込んできた。


 ――少し、離れたところに大きめの結晶が浮いていた。一歩進めば触れられる。それくらいの距離に。


「……母さん」


 ふらふらと誘われるように、結晶に近づき、両手で包み込む。視界に、光が弾けた。



 △▼△▼△▼△▼


 

 和室にあるちゃぶ台に、重苦しい空気が立ち込める。


「……それで、話というのはなんだ。桃音」


 呼び出したのは自分だ。それでも、威圧的な父の声に腕が震える。もう片方の腕で、震える手に爪を立て、平静を装う。


「私、ピアニストになります」


 父のそばで静かに佇んでいた母の目が見開かれる。


「桃音、それがどういう事か分かって――」

「俺は認めん」

「父さん!」


 母さんの言葉を遮って、父が断固たる口調で言い切る。抗弁しようとするが、それさえも遮られ――、


「確かに、音大に行くことは許可した。会社に入るのは苦労するだろうが、音楽を教えられるようになれば最低限の金は稼げるからな」

「でも……」

「教室を開くなら、資金援助もしてやる。だがピアニストは駄目だ。資金援助もしない。お前はそれでどうやって生きていくつもりだ」

 

 私はグッと唇を噛みしめる。

 音楽の世界は厳しい。父の言うことはもっともで、秀でてはいるものの、際立った才を持たない私には、音楽だけで生計を立てていくことなどできそうにもない。


 ただ、それでも、人には譲れないものがあるのだ。震える拳を握り直し、自分の中にある迷いを打ち破る。


 「父さん、それでも私はピアニストを目指します。私の中には音楽の泉がある。そこから弾きたい曲が、まだこの世に産声を上げてない曲が、湧き続けているんです。この曲たちを世界に生み出せないなら、私に価値はない」


 皆の心を惹きつけ、癒やし、時に鼓舞する。そんなメロディがあるかもしれない。いや、きっとある。

 この気持ちを、この素晴らしい旋律たちを、皆に届けずしてどうやって生きていこうというのか。


 父の目を真っ直ぐ見つめ、続く言葉を紡ぐ。


 「お金のことは自分でなんとかします。父さんには頼りません。それに、日向(ひゅうが)君がいます」

 「……ハッ!日向?お前の新しい彼氏か。彼氏頼みでうまくいくとでも?どうせすぐ逃げられる」

 

 「いいえ。彼は私を支えてくれる。そして、私も彼を支えます。そうやって生きていくと決めまし――」

 「それに、音楽なんぞで人の心は動かせん。諦めろ。」


 プツンと、私の中で何かが静かに弾けた。この道を進むことに反対されるのは予想していた。だけれど、この人は日向君を貶して、音楽を否定した。

 

 ――もう、いいや。


 「わかりました。もう理解してもらおうとも思いません。明日家を出ます」

 「……なっ。何だその口の聞きようは!」

 「子供の希望にも耳を傾けない親にも、自分の意志を素直に口に出せない親にも、愛想が尽きました。もういいです」


 糸の切れた人形のように無表情のまま、言い切った。そのまま私は踵を返して、二階にある部屋へと向かった。呼び止める声が聞こえたが、もう気にもならなかった。


 その日のうちに必要なものをボストンバックに詰め、翌朝日が昇り切る前に家を出た。

 玄関で靴を履いていると、茶色と白のまだら模様の猫がすり寄ってきた。


 「ヴィヴァーチェ。私はもういなくなるから、母さんに構ってもらってきて。じゃあね」


 扉を開けて、私は新しい世界へと踏み出した。希望に満ちた、どこまでも続く世界へと。


 △▼△▼△▼△▼


 フッと意識が戻る。両手で触れた氷はすでに崩れ、僅かな水滴だけを手のひらに残していた。


 「今のは母さんが学生の時の記憶……」


 あたりを見回す。視界にうつる限りでも、同じくらいの大きさの氷が何十個もーーいや、もしかすると何百個も浮いていた。

 ――その一つ一つに母さんの人生が、俺の知らない母さんの過去が。そして、その痛み、その想いが詰まっている。


 改めて、この空間に圧倒され、俺は立ち尽くすことしかできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ