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氷の鍵盤  作者: 宵凪琴葉


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第六話 『迷い猫のカデンツァ』

 ジリジリと暑さを増してきた日差しから逃げるように、早足で家の玄関までたどり着く。鍵を忘れてきたようなので、キャリーを一度ドアの前に置き、インターホンを押そうと道路まで出る。

 不意に、視界の端を黒い影が通り過ぎた。こわごわとキャリーを見ると、なぜか扉が空いていて、もちろん中は空っぽになっていた。


 道路の左右を見ると、とんでもない速さで駆けていく黒猫のシルエットが見えた。つられて俺も走りだす。


 ――いや待て、別にこのまま逃がしても良いんじゃないか?もともと出来そうならそうしようとしてたんだし。

 

 天使と悪魔を足して二で割ったような声が聞こえる。

 

 ――でもよく考えてみろ。家の前で脱走したのにそのまま一人で帰ってきたら、ばあちゃんになんて言われるか。


 もう一つの声も聞こえてきて、俺の意志は速攻で決まった。

 ――しばらく追いかけるだけ追いかけて、捕まらなかったことにする。

 

 猫を見失うか、見失わないかの距離を保ってのチェイスが始まった。


 


 ……なのに、なんでこいつは座ってるんだ。

 何個目かの角を曲がったところで、逃げるどころかこちらを向いて、優雅に香箱座りをしている黒猫を見つけた。


 俺が近づくと、すっと立ち上がり、今度はスタスタと歩き出す。十歩ほど進んだところでこちらを振り返り――、


 なぁーお?


 来ないの?とでも言わんばかりに鳴いてみせ、再び歩み始めた。


 「なんだよ……。ついてけばいいの?ついてけば良いんだな?」


 これでは逃がしましたなんて報告はできないな。半ばあきらめ、猫の後をついていく。

 俺がついてくるのを確認すると、猫はだんだん歩調を上げていった。猫だけを見て追いかけていくと周りの風景がどんどんと流れていく。


 猫が立ち止まったところで周りを見渡すと、俺は家の近くにあるはずがない、森の中に立っていた。

 

 白い森だった。木の幹が白樺のように白く、葉も色素を失って銀色に鈍く光っていた。木々の隙間は深い藍色で先が見通せず、霧がたなびいていた。


 下草だけが緑色をしていて、すこし開けたところに、これまた白いグランドピアノが、ぽつんと置かれていた。ピアノの天板にはところどころに苔が生え、ツタが絡んでいて、森の一部かのように馴染んでいた。


 黒猫は軽くジャンプして、ピアノの天板をペシペシと尻尾でつつきだす。

 ピアノに近づき、蓋を開けてみる。鍵盤はちゃんと白黒で、見慣れた色をしていた。ただ、鍵盤にもところどころに苔が付き、まともな音は鳴りそうにもなかった。


 鍵盤をそっと撫でてみる。ざらりとした汚れ越しに熱が吸われ、指先がひんやりとした。

 いつの間にか、倒された譜面台の上に来ていた猫のしっぽが、鍵盤に触れている僕の腕を掠める。


 ――ふにゃーお

 

「弾けばいいの?」

 ――にゃあ!


 音が出そうにもないが、そもそもこんな異次元空間にあるピアノなのだ。鳴るのかもしれない。

 ものは試しだ。指のウォームアップで、耳慣れた曲の一音目に指を置く。


 ――猫ふん……


 鍵盤が沈んだ。しかし音はひび割れていて、とても音楽と呼べないような有様。しかも三音目は鍵盤が沈みすらしなかった。


 どういうことだと猫の方に視線を向ける。いつの間にやら、天板の端まで後ずさり、ジト目でこちらを見つめていた。

 さらに、香箱座りをして体の下にしまい込んでいた右前足を出してきて、クールクールと天板に円を描き出す。


 「分かんないよ。ねぇ、俺帰っても良い?」


 ピアノから離れ、木々の隙間から外が見えないか覗き込む。


 ――み゙ぅー……


 猫はグルグルと唸りながら、不服そうに鳴いている。霧に囲まれたような森の隙間から、外の景色が見える予感は全くしなかった。諦めてピアノの前に戻ると、猫はまだ前足で円を描いている。


 「なぁ、俺をここに連れてきたんだろ。帰り方教えてくれよ」


 猫を持ち上げ、軽く前後に揺さぶる。これまでは大人しく抱かれていた猫は、今回ばかりは大暴れして手の中から逃げ出した。

 そのまま譜面台の上に戻り、上からそろそろと手を伸ばして一つの鍵盤をつつき出す。

 しばらくつついた後はまた別の鍵盤。


 いくつかの鍵盤をつついてから、こちらを見つめて、うにゃあと不機嫌そうに喉を鳴らす。

 

 猫のご機嫌を取らないとここから帰れそうにもない。猫が人間の言葉を解するとは思えないが、もし、俺に何か伝えようとしてるなら?猫が俺に求めてるのはなんだ?


 ――クルクル、円、右前足、鍵盤、猫……


 よく考えると、猫が指し示した鍵盤の順には見覚えがあった。ちょうど今朝から聞いているレコードのイントロだ。だとすれば、前足でクルクルしていたのはレコードって意味か。

 意味は通る。が、本当に猫がそんなこと伝えてくるか……?


「レコード?母さんの曲?」


 こちらも右手をクルクル回しながら猫にそう問うてみる。


 ――ふにゃ!


 満面の笑みに戻った猫が、嬉しそうに尻尾を振る。

 信じ難いが、こんな反応をされてはもう確定事項だろう。猫は何か目的を持って俺をここに連れてきている。しかも人語を理解しているらしい。


「なあ、俺の言葉分かってんの?あの曲弾いたら帰してくれる?」


 返事の代わりに、尻尾の動きが激しくなった。黒猫は手で顔を洗って、準備万端とでも言いたげにこちらを見つめている。

 

 全て妄想で、馬鹿なことをやっているのかもしれない。

 この状況全てが謎だし、もしただの思いこみなら滑稽でしかない。


 が、この黒猫は明らかに、俺があの曲を弾くことを求めている。なら、誘いに乗ってやろう。


 そっと初めの音の上に指を置く。苔の湿り気が指先を濡らすが、一つ息を吸い、思い切って鍵盤を力強く押す。


 ――次の瞬間、パキパキという軽い音と共に、鍵盤が凍りつく。冷気がブワッと吹き出し、辺りが真っ白に染まった。

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