第四話 『薄氷のスモルツァンド』
病院に駆け込んで、受付でお姉さんに声をかける。
「あ、あの!宮森奏音って言います。えと、マ……お母さんに会わせてください……」
キョトンとした顔のお姉さんの視線が僕の顔と手に持ちっぱなしのブーケに向いた気がした。不安になってブーケの根本を握りしめる。視線はすぐに逸らされ、お姉さんは僕の苗字を呟きながら手元の端末を操作し始めた。
「……宮森桃音さんだね」
一刻も早くママに会いたくて、こくこくと首を縦に振る。
「君、一人?大人の人は、誰か一緒じゃないの?」
「来れないんです……!ねえ、会わせて下さい。だめなの?」
じれったくて、少し大きな声で言ってしまった。目元がかあっと熱くなる。でも、僕の必死さは伝わったらしい。
お姉さんはポケットから白いケータイを取り出し、二言三言告げた後こう言った。
「奏音くん。今からお母さんのいるお部屋へ連れていきます。……静かにね」
「……うん!」
お姉さんは早足で病院の中を進んで行った。あまりに早くて、僕が少し小走りになるくらいだ。
お姉さんが壁にカードをかざすと自動ドアがスーッと開き、診察待ちの人たちのざわめきも一気に遠くなった。
灰色の無機質なエレベーターに乗せられ、4階へと上がる。消毒液の香りがツンと鼻につく、緑色の廊下をこれまた足早に通り抜け、あるドアの前でぴたりと立ち止まった。
僕の頭より高いところにあるプレートを見る。宮森桃音。ママの名前だ。
「ここです。入る前に手の消毒だけお願いね」
ブーケを脇に挟み、手をお椀の形にして差し出すと冷たいアルコールがシュッと降ってきて、汗と共に消えていった。
手をこすこすしていると、目の前の引き戸が開いていく。
「ママ!」
待ちきれず飛び込むと、ベッドの上に毛布に包まれたママがいた。
柔らかい茶色の髪は肩までバッサリと切られ、頬にはガーゼが貼られている。それでも、寝顔は穏やかだった。
そばに寄って顔を覗き込むが反応はない。
看護師さんに助けを求めるように目線をやる。
「奏音君のお母さんは、車に撥ねられちゃったの。今はまだ眠ってるけど、もうすぐ目覚めるはずよ」
看護師さんもそばにきて、毛布の中からママの手を出し、僕に握らせてくれる。
「お母さん、頑張ってるから、そばにいてあげて」
それから荷物を壁際の籠に入れて、看護師さんと他愛のない話をして待った。まだ、ママは目覚めない。
その時、おばあちゃんとおじいちゃんが来た。
おばあちゃんは病室に入ってくるなり、僕を抱きしめる。
「奏音。遅くなってごめんね。もう、大丈夫だからね」
安心と、まだママが目覚めない不安とでごちゃ混ぜになった感情が上手く言葉にできなくて、僕はされるがままに、おばあちゃんに包み込まれた。
おばあちゃんの温もりを感じながら首だけママの方を向く。おじいちゃんが僕の代わりにママの手を握り、お医者さんとお話ししていた。
「……かな…と……」
部屋の中のみんなが弾かれるようにベッドの方を向く。ママがうっすらと目を開けて、僕の名前を呼んだ……気がした。
おじいちゃん達がすぐに顔元に近づいて声をかける。
「桃音!私だ。分かるか?」
「……カ…ノン?ご飯は……あげたばっかでしょ?」
おじいちゃんが目を見開き、口だけ「カノン?」と動かす。お医者さんがおじいちゃんの名前を呼び、静かにとつとつと話し始めた。
「大変申し上げにくいのですが、宮森様は衝突事故の影響で、意識が混濁しています。カノンという名前に心当たりはありますか?事故直後から呟かれることが多いのですが……」
「……カノンは、昔うちで飼っていた猫の名前です。桃音の一番お気に入りの子で」
難しくてよくわからない言葉が多いけれど、おじいちゃんの声は震えていた。多分だけど、あまり良くない状況なのだろう。
お医者さんは一つうなづいた後、声を固くしてこう続けた。
「お父様、お母様。宮森様は今、内臓損傷による内出血を起こしており、急変する可能性が。今夜はお近くに。……最悪の場合の覚悟も、お願いします」
二人が口をきゅっと引き結んで、うなづいた。
――その、直後だった。
これまで一定のリズムを刻んでいた電子音が乱れ始める。看護師さんもお医者さんも慌てた顔をして、指示を飛ばし始める。さっきまでうっすら空いていたママの目は力なく閉じ、顔は青ざめていた。
「輸血!用意して!」
「サチュレーション、落ちてます!」
「緊急オペだ。同意書もらって」
ママ!桃音!宮森さん!ベッドを囲う誰もがママの名前を口々に呼ぶ。僕も、ママの目が覚めるのを祈りながら何度も呼びかける。
ベッド横でママの手を握り続ける僕達の方に歩いてきた看護師さんが、文字がびっしり書かれた何枚かのプリントを手渡す。
「緊急手術が必要になりました。開腹して、出血箇所の縫合を行います。ご同意いただけますか」
「……はい。あ、あの、桃音は助かるんでしょうか」
おじいちゃんが迷わずサインする横で、おばあちゃんがすがるように問いかける。
看護師さんは厳しい顔を微塵も変えることなく、最善を尽くしますというだけだった。
いつの間にかママの顔には酸素マスクがつけられ、血の入ったパックが運ばれてきていた。
「血圧、上がりません」
「このままだとオペは……!」
「すぐに昇圧いれて。輸血開始。まだ諦めちゃだめだ」
怒号が飛び交い、半ば戦場と化した室内にお医者さんの凛とした声が響く。しかし、部屋の温度が下がる気配はなく、ただ虚しく時間だけが流れていった。
失礼します。その一言で握っていたママの手から引き離され、部屋の壁際へと移動させられる。ママの手には新しい点滴の管が刺されていた。
見ているのが怖くなって荷物籠からはみ出るブーケを見つめる。カーネーションは、全体的にくたりとしおれ始めているように見えた。
程なくして部屋の熱気がどんどん冷め、皆が渋い顔になり始めた。お医者さんが手を動かし続けながら言う。
「申し訳ありません。おそらく手術は間に合わない。……手を握ってあげてください」
心拍を告げる電子音が徐々に、徐々に遅くなっていく。どこかうわついていた心地がすとんと落っこちてきて、鼻にツーンとした痛みが襲ってくる。滲む目に、白い病室には似合わない、紅い花が見えた。
カーネーションを掴んでママの手を強く強く握りしめる。氷のように冷たい手。その手にブーケを添える。
「ねえ、ママ?今日は母の日なんだよ?喧嘩しちゃったから……まだ、ごめんなさいできてないから……!カーネーション、買ってきたんだよ?」
頬に涙が伝うのを感じる。誰からも返事は返ってこない。
背におばあちゃん達の温かい体が触れる。無機質な電子音はどんどんテンポを下げていく。自分が今どんな気持ちなのか、わからない。でも――、
「ねえ、なんで寝てるの!僕、買ってきたんだよ……?店員さんがおまけもつけてくれて、笑って欲しくって……!ねえ、またピアノ弾くって約束だったじゃん!なんで?なんでなの……?」
感情が溢れて止まらない。今言わなきゃいけないこと、言いたいこと、全部全部わからない。
「桃音!奏ちゃんがきてるわよ!起きて!まだいかないで!お願いだから……」
「桃音……まだ、やりたいことがあるんだろ?戻ってこい……」
――ねえ、またピアノ弾こうよ
――ねえ、笑って受け取ってよ
――ねえ、僕の曲、聞いてよ
――聞いてくれる約束じゃん……!
――これからも、これからも、ずっとさ……!
――ピッ……ピッ………ピッ………………ピー
無慈悲に停止を告げる音が鳴り響き、僕は嗚咽以外を漏らすことはできなかった。ただ涙だけがポロポロとこぼれ落ちていく。部屋全体が灰色に染まっていき、音も匂いも時も全て止まる。
記憶が飛んで、僕は家のドアをくぐっていた。
カランコロンと明るい音色が、呪いのように頭の中に響く。
凍りついた時間の中で、紅だけが、目に焼き付いていた。毒々しい、血の色だった。




