第三話 『花束の哀歌』
黒猫と共に部屋に帰り、どっと襲ってきた疲れに負けてへたりと座り込む。
バタンと勢いよくしまったドアに苦情を申し立てるように、ドアベルのパイプバーがチリチリと音を立てたが、それすらも煩わしい。
そもそも今は朝五時なのだ。しかも日曜日。いつの間にか窓から光が鋭く差し込む様になっているが、本来はまだ寝ているはずだった時間。
座り込んだままジリジリと後ずさり、光に対して意味もなく唸って威嚇する。結局それも馬鹿みたいに思えてボスリと頭を膝に埋め、目を瞑った。
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机に座った男の子が、手のひらとにらめっこをしている。
後ろからそっと近寄ると、男の子が小銭を見つめていたことがわかった。
百円玉が3枚と、五十円玉が1枚。
周りには他にいくつも机が並んでおり、いくつかの席の近くに集まった子どもたちが、賑やかにご飯を食べていた。目の前の男の子の机の上にも、2つ、パンが並んでいる。子供達は、まるで俺などいないかのように楽しげに談笑している。
――ああ、そうか。これは夢か。
幼い頃の記憶。日曜日にも開講されている塾の授業。その間にある昼休みの情景。
――目の前にいるのは、小学生の俺だ。
不意に場面が切り替わる。リュックを背負った小さな俺だけが昼下がりの道を歩いている。左手は握りしめたまま、家に帰る道とは全くの逆方向へ迷わず進んでいく。一歩踏み出すごとにリュックが上機嫌に揺れていた。しばらく歩いていく背中を追っていくと、赤いポップの目立つ花屋が見えてきた。
――大切な人に、カーネーションを贈りませんか?(お子様にはおまけつき!)
店まであと数歩のところで小さな俺がピタリと立ち止まり、左手を開いてまた見つめる。大切そうに、握りしめていた小銭がちゃんとあるのを確認すると、店の中へと入っていった。
……の…日……母の……日…
不意に俺の思考にノイズが走る。なんだ?
そうこうしている間にも、俺はカウンターの方へずんずん進み、背伸びをしながらチャリンと小銭を置く。
「あの、カーネーションください。350円、あります」
「はーい!君、小学生かな?」
小さな俺は緊張した面持ちでコクンと頷く。応対してくれたお姉さんは、にこーっと満面の笑みになるとこう言った。
「お母さんに渡すのね。えらいわぁ。ねぇ、350円だったら3本買えるけど、
……塾……四年……
店員さんの笑顔がそのまま固まり、またノイズが走る。数秒後にぷつんと音が止む。
ーーどうする?」
何事もなかったかのように再び世界が動き出し、我に返る。
「えと……じゃあ3本ください」
「はぁーい!じゃあ、ちょっとおまけも付けちゃうから、お店の中で待っててね」
――母の日、小学四年生……ってことは……!
小さな俺はコクリと頷くと、店内に並べられているブーケを物珍しげに眺め始めた。
ただの平和な光景だ。母親に渡す花を、お小遣いで買いに来た息子。店内にあふれる甘い香り。
――だが、その光景は数十分後には地獄に変わる。今日は、俺の母さんが死ぬ日だ。
早く家に帰れ。そう声をかけようと小さい俺に手を伸ばす。触れたと思った手は小さな俺の身体をすり抜けてしまう。不意に周りの景色が歪み出し……引きずり込まれるような感覚と共に、意識が暗転した。
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胸いっぱいにお花の香りを吸い込む。この前ママと連弾した、花のワルツみたいに華やかで、思わず笑みがこぼれる。バラの甘くて重い香りをかき分けて香るのは、ほんのりスパイシーなカーネーションの香り。今日は母の日だ。
昨日、ママとけんかしてしまいました。
そのまま謝らずに塾に来てしまいました。僕は悪い子。
でも、今日は母の日だから、プレゼントを渡せば良いのです!
我ながら、素晴らしい計画に惚れ惚れしてしまう。お昼ご飯のパンを買って、財布に残っていたのは350円。前にママにつれてきてもらったことのあるお花屋さんに、思いついた勢いのまま来ちゃったけれど、店員さんがちゃんと花束を作ってくれそうで一安心。
花束を渡したら、ママはどんな顔をするかな?きっと笑顔。もしかして泣いちゃったりして?怒ってたのも忘れちゃうかも。
……そしたら僕は謝って、またピアノのお稽古してもらうんだ。
「できたよー!戻っといで!」
お姉さんに呼ばれて僕はカウンターに向かう。
「カーネーション3本と、おまけのカスミソウをつけたブーケです!どーぞ」
赤いカーネーションの周りを、小さな白いカスミソウが取り巻いている。花の周りを飛び回る妖精のようだった。
うわぁ、きれい。そう思ったけど、恥ずかしいから口には出せなかった。ペコリとお辞儀をして受取り、気がはやるのに任せて家に向かって駆け出した。頑張ってねーという温かい声が背中を押してくれた。
不思議と鼻歌がこぼれだし、世界が普段より明るく色づいて見えた。澄み渡る青空、横断歩道の輝く白、白を優しく縁取る灰色。街路樹の緑とそこにひっそりと咲くピンクの花。
角を曲がるとすぐに見えてくる、家の茶色い扉の前に飛び込み、インターホンを元気いっぱいに押す。
気の抜けるチャイムの音がしたが、ドアが開く気配はなかった。
――おかしいな?
ママは僕の塾が終わるのをいつも家で待ってくれているはず。買い物にでも行っているのかも。
ドアに背中をもたせかけてしばらく待ってみる。
鳩が四羽、スズメが十羽ほど視界を通り過ぎた頃、リュックがブーブーと振動を始めた。
ブーケを床に置くか悩み、仕方なくポストの上にちょんと置く。リュックを下ろして中から子供用ケータイを取り出すとおばあちゃんからの着信だった。少し汗ばんだ手で着信ボタンを押す。
「もしもし、おばあちゃん?」
「奏音!今どこにいる?」
「どこって……家の玄関だけど」
やけに切羽詰まった声だった。なんだか嫌な予感がしてきてスピーカーに耳を押し付ける。
「家の近くにある総合病院への行き方は分かるかい?急で悪いけどね」
確かに家から徒歩十五分くらいのところに総合病院がある。何度かお世話になったこともあった。
「……うん。分かるよ」
続く言葉を言い淀んでいるらしいおばあちゃんの様子に、冷や汗が背中を伝う。電柱に止まったカラスの鳴き声がうるさい。
何かが起こったと言葉にされてしまったら、それはもう覆せない現実になっちゃうから。
何がおきたの。そう聞きたい言葉を飲み込んで必要な言葉だけ絞り出した。
「ん……奏音、落ち着いて聞いておくれ。お前の母さんが交通事故にあって、総合病院に搬送された。行ってあげてくれないか」
世界から、音が消えた。だんだん視界が狭まっていくような錯覚を覚える。僕は助けを求めるように、ブーケに目をやった。
「ま、ママは大丈夫なの?ねえ、ばあちゃんも来てよ。怖いよ……」
ばあちゃん達は県の南側に住んでいる。僕らは北側。すぐに来れる距離じゃない。頭ではわかっているけれど、言わずにはいれなかった。
「奏音……ばあちゃん達もすぐに行くからね。先に行っててほしいんだ。母さんはきっと大丈夫。でも、今も寂しがってるかもしれないだろ?」
電話越しにばあちゃんが微笑んでいる、いや、微笑もうとしているのが分かってしまった。
「ん……僕、行ってくる」
「奏音……!すぐ行くから……」
通話の途中だったが、プチリと切り、リュックに放り込む。水筒を取り出し、カラカラに乾ききった喉を誤魔化すように、溺れるように水を飲む。ほんのり、塩辛かった。
リュックのチャックを閉じるとすぐに背負い直し、ブーケを掴む。大切に、大切に胸元に抱え込んで僕は病院に向かって駆け出した。
カーネーションの花びらが一枚、はらりと落ちた。
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