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氷の鍵盤  作者: 宵凪琴葉


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第三話 『花束の哀歌』

 黒猫と共に部屋に帰り、どっと襲ってきた疲れに負けてへたりと座り込む。

 バタンと勢いよくしまったドアに苦情を申し立てるように、ドアベルのパイプバーがチリチリと音を立てたが、それすらも煩わしい。

 

 そもそも今は朝五時なのだ。しかも日曜日。いつの間にか窓から光が鋭く差し込む様になっているが、本来はまだ寝ているはずだった時間。

 座り込んだままジリジリと後ずさり、光に対して意味もなく唸って威嚇する。結局それも馬鹿みたいに思えてボスリと頭を膝に埋め、目を瞑った。



 △▼△▼△▼△▼



 机に座った男の子が、手のひらとにらめっこをしている。

 後ろからそっと近寄ると、男の子が小銭を見つめていたことがわかった。

 百円玉が3枚と、五十円玉が1枚。

 

 周りには他にいくつも机が並んでおり、いくつかの席の近くに集まった子どもたちが、賑やかにご飯を食べていた。目の前の男の子の机の上にも、2つ、パンが並んでいる。子供達は、まるで俺などいないかのように楽しげに談笑している。

 

 ――ああ、そうか。これは夢か。


 幼い頃の記憶。日曜日にも開講されている塾の授業。その間にある昼休みの情景。

 ――目の前にいるのは、小学生の俺だ。

 

 不意に場面が切り替わる。リュックを背負った小さな俺だけが昼下がりの道を歩いている。左手は握りしめたまま、家に帰る道とは全くの逆方向へ迷わず進んでいく。一歩踏み出すごとにリュックが上機嫌に揺れていた。しばらく歩いていく背中を追っていくと、赤いポップの目立つ花屋が見えてきた。


 ――大切な人に、カーネーションを贈りませんか?(お子様にはおまけつき!)


 店まであと数歩のところで小さな俺がピタリと立ち止まり、左手を開いてまた見つめる。大切そうに、握りしめていた小銭がちゃんとあるのを確認すると、店の中へと入っていった。

 ……の…日……母の……日…

 

 不意に俺の思考にノイズが走る。なんだ?

 

 そうこうしている間にも、俺はカウンターの方へずんずん進み、背伸びをしながらチャリンと小銭を置く。


 「あの、カーネーションください。350円、あります」

 「はーい!君、小学生かな?」


 小さな俺は緊張した面持ちでコクンと頷く。応対してくれたお姉さんは、にこーっと満面の笑みになるとこう言った。


 「お母さんに渡すのね。えらいわぁ。ねぇ、350円だったら3本買えるけど、


 ……塾……四年……

 店員さんの笑顔がそのまま固まり、またノイズが走る。数秒後にぷつんと音が止む。


 ーーどうする?」


 何事もなかったかのように再び世界が動き出し、我に返る。

 

 「えと……じゃあ3本ください」

 「はぁーい!じゃあ、ちょっとおまけも付けちゃうから、お店の中で待っててね」

 

 ――母の日、小学四年生……ってことは……!

 小さな俺はコクリと頷くと、店内に並べられているブーケを物珍しげに眺め始めた。

 ただの平和な光景だ。母親に渡す花を、お小遣いで買いに来た息子。店内にあふれる甘い香り。

 

 ――だが、その光景は数十分後には地獄に変わる。今日は、俺の母さんが死ぬ日だ。


 早く家に帰れ。そう声をかけようと小さい俺に手を伸ばす。触れたと思った手は小さな俺の身体をすり抜けてしまう。不意に周りの景色が歪み出し……引きずり込まれるような感覚と共に、意識が暗転した。

 

 △▼△▼△▼△▼


 胸いっぱいにお花の香りを吸い込む。この前ママと連弾した、花のワルツみたいに華やかで、思わず笑みがこぼれる。バラの甘くて重い香りをかき分けて香るのは、ほんのりスパイシーなカーネーションの香り。今日は母の日だ。

 

 昨日、ママとけんかしてしまいました。

 そのまま謝らずに塾に来てしまいました。僕は悪い子。

 でも、今日は母の日だから、プレゼントを渡せば良いのです!


 我ながら、素晴らしい計画に惚れ惚れしてしまう。お昼ご飯のパンを買って、財布に残っていたのは350円。前にママにつれてきてもらったことのあるお花屋さんに、思いついた勢いのまま来ちゃったけれど、店員さんがちゃんと花束を作ってくれそうで一安心。

 

 花束を渡したら、ママはどんな顔をするかな?きっと笑顔。もしかして泣いちゃったりして?怒ってたのも忘れちゃうかも。

 ……そしたら僕は謝って、またピアノのお稽古してもらうんだ。


 「できたよー!戻っといで!」


 お姉さんに呼ばれて僕はカウンターに向かう。


 「カーネーション3本と、おまけのカスミソウをつけたブーケです!どーぞ」


 赤いカーネーションの周りを、小さな白いカスミソウが取り巻いている。花の周りを飛び回る妖精のようだった。

 うわぁ、きれい。そう思ったけど、恥ずかしいから口には出せなかった。ペコリとお辞儀をして受取り、気がはやるのに任せて家に向かって駆け出した。頑張ってねーという温かい声が背中を押してくれた。


 不思議と鼻歌がこぼれだし、世界が普段より明るく色づいて見えた。澄み渡る青空、横断歩道の輝く白、白を優しく縁取る灰色。街路樹の緑とそこにひっそりと咲くピンクの花。

 角を曲がるとすぐに見えてくる、家の茶色い扉の前に飛び込み、インターホンを元気いっぱいに押す。

 気の抜けるチャイムの音がしたが、ドアが開く気配はなかった。


 ――おかしいな?


 ママは僕の塾が終わるのをいつも家で待ってくれているはず。買い物にでも行っているのかも。

 ドアに背中をもたせかけてしばらく待ってみる。


 鳩が四羽、スズメが十羽ほど視界を通り過ぎた頃、リュックがブーブーと振動を始めた。

 ブーケを床に置くか悩み、仕方なくポストの上にちょんと置く。リュックを下ろして中から子供用ケータイを取り出すとおばあちゃんからの着信だった。少し汗ばんだ手で着信ボタンを押す。


 「もしもし、おばあちゃん?」

 「奏音(かなと)!今どこにいる?」

 「どこって……家の玄関だけど」


 やけに切羽詰まった声だった。なんだか嫌な予感がしてきてスピーカーに耳を押し付ける。


 「家の近くにある総合病院への行き方は分かるかい?急で悪いけどね」


 確かに家から徒歩十五分くらいのところに総合病院がある。何度かお世話になったこともあった。


 「……うん。分かるよ」


 続く言葉を言い淀んでいるらしいおばあちゃんの様子に、冷や汗が背中を伝う。電柱に止まったカラスの鳴き声がうるさい。

 何かが起こったと言葉にされてしまったら、それはもう覆せない現実になっちゃうから。

 何がおきたの。そう聞きたい言葉を飲み込んで必要な言葉だけ絞り出した。

 

 「ん……奏音、落ち着いて聞いておくれ。お前の母さんが交通事故にあって、総合病院に搬送された。行ってあげてくれないか」

 

 世界から、音が消えた。だんだん視界が狭まっていくような錯覚を覚える。僕は助けを求めるように、ブーケに目をやった。


 「ま、ママは大丈夫なの?ねえ、ばあちゃんも来てよ。怖いよ……」


 ばあちゃん達は県の南側に住んでいる。僕らは北側。すぐに来れる距離じゃない。頭ではわかっているけれど、言わずにはいれなかった。

 

 「奏音……ばあちゃん達もすぐに行くからね。先に行っててほしいんだ。母さんはきっと大丈夫。でも、今も寂しがってるかもしれないだろ?」


 電話越しにばあちゃんが微笑んでいる、いや、微笑もうとしているのが分かってしまった。


 「ん……僕、行ってくる」

 「奏音……!すぐ行くから……」


 通話の途中だったが、プチリと切り、リュックに放り込む。水筒を取り出し、カラカラに乾ききった喉を誤魔化すように、溺れるように水を飲む。ほんのり、塩辛かった。

 リュックのチャックを閉じるとすぐに背負い直し、ブーケを掴む。大切に、大切に胸元に抱え込んで僕は病院に向かって駆け出した。

 カーネーションの花びらが一枚、はらりと落ちた。

 

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