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氷の鍵盤  作者: 宵凪琴葉


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第二話 『朝の即興逃走曲』

 さて、どうしたものか。とりあえず手持ち無沙汰なので黒猫の喉元をくすぐってやる。

 猫はゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らし、目を細めている。


「まぁ、野生に返さないとな」


 飼い主がいるならその人を探す努力でもするところだが、野良っぽいし外に逃すのが無難だろう。飼うことも出来なくはないが……猫のためにお勧めしない。


「いいかぁ。今からお前を家の外まで連れてってやる。そしたら後は自力で生きていくんだぞ」


 へそ天ですっかりくつろいでいる猫の腹を軽く突きながら言い聞かせる。

  猫は意味がわかっているのかいないのか、しっぽを盛んにパタリパタリと振っている。嬉しいのかこれ。


 猫を抱き上げたら、なるべく静かに階段を降りて、そのまま廊下を玄関まで突っ切る。猫を片手にぶら下げてドアを開け、門の外まで連れ出せばクリアだ。家に戻って手を洗い、部屋も掃除すれば問題ない。

 もし仮に不測の事態が起きれば、外に向かって全力で走るものとする。よし。


 方針さえ決まれば後は怖いものなどない。油断している猫の胴体を両手で包み込み、ドアを開ける。

 ドアベルが鳴ったがこれくらいは問題ない。部屋を出てすぐの階段を一段ずつ慎重に降りていく。

 下から三段目で板が軋むのでそこから飛んで……ふわりと着地。


 ――意外といけるもんだな。


 保護者の目を盗んで外出するために、中学から鍛えたこのスキル。2年ぶりに試しても問題なく効果を発揮してくれた模様。

 猫は目をまん丸くしているが鳴き出さなかった。えらい。


 ゆっくり立ち上がって長い廊下をすり足で移動する。が、全体的に老朽化の進んだ床板がところどころでミシリと音を立てる。頬をひきつらせながらも前進する。


 徐々にドアから差し込む朝日が近づいてくる。あと5メートル。4メートル。あともう少し……


奏音(かなと)!どこいくの!」

「あっ……」


 咄嗟に猫を隠そうとして、体を捻りつつ顔だけ相手に向ける。驚いて走り出すことはできなかった。

 そのまま無様な姿を晒して声の主と対峙する。というか猫が隠れきっていない。まあ、もうバレているか。


 開け放った襖から顔を突き出す声の主は、先程の怒声と裏腹に満面の笑みでこちらを見つめる初老の女性だった。

 ――俺の祖母である。俺が階段飛ばしを開発した発端。耳ざとく目ざとい我が保護者だ。



 俺に両親はいない。母親は6年ほど前に事故死し、父親は物心つく前に離婚していたらしい。母親の死後急に転がり込んできた俺を受け入れ、育ててくれたのがこの家に住む母方の祖父母である。

 二人とも人がよく、一方で昭和気質のスパルタなところがある。そして……二人とも無類の猫好きだ。

 実際、今も襖の奥に見えるリビングにあるキャットタワー上の猫達が、胡乱げな眼差しでこちらを見ている。


「ばあちゃんすぐに襖閉めて」

「ん?あぁそうか」


 野良猫は体中にノミやらダニやらを引っ付けているので先住猫とは接触させないほうがいい。

 すぐさまこちらの意を解し、廊下に出てきたばあちゃんはそっと襖を閉めてこちらに向き直る。


「で?その子は野良猫かい。どっかで拾ってきて、また捨てに行こうとしてる……とかじゃあるまいね」

「流石にそんな非道なことしないよ……。さっき俺の部屋に飛び込んできたの」


 かくかくしかじかと事情を説明する。


「……ってなわけでこれから外に逃がそうと」

「ウチで保護するよ。ガラスで頭を打ってるんなら一度病院に見せたほうがいい。これも何かの縁さ」


 うん。ばあちゃんに見つかった時点でこうなる未来は見えていた。猫を愛してやまないばあちゃんは、たまたま家に飛び込んできた猫など何としても飼おうとするだろう。


 一日中撫でくりまわされるのが苦痛でさえなければ、この家は猫にとって天国のようなものだ。健康に気をつけているし、ちゃんと可愛がる。

 ……ただその生活が野良猫に合っているかと言われると、何もせず野生に返すのが一番とも思えるのだった。


「病院、かあ」


 ぽそりと呟く。確かに怪我の確認はした方がいい。乗り気ではないが受け入れるべきだろう。


「なんだい。不服だってのかい?」


 聞こえてたらしい。

 

「いや別に。猫キャリーある?俺の部屋に来たし俺が連れてくよ」


 こうなったら自分の事は自分で背負い込もう。大した怪我がなければそのまま外に放すことも出来る。そう思って猫を正面に抱え直し、病院に行くと申し出る。

 猫の体を舐めるように見て大体の体格を把握したらしいばあちゃんは言う。


「大きさはうちのシトリンくらいか。とりあえず部屋に戻っときな。あとで部屋に持っていく」


 シトリンはこの家で飼われている猫の内の1匹だ。

 メスとは言え、茶トラ特有の筋肉質でがっしりした体格に、少し暴れん坊な性格も相まって、大きさに余裕のあるキャリーを使っている。

 腕の中の黒猫は感覚だが4キロを少し超えたくらいだろうか。毛がフサフサしているのでシトリンのキャリーはちょうどいいサイズだと思う。


 ばあちゃんの見極めになんとはなしに感心しつつ、踵を返して部屋に向かう。でもそういえば――、


「ねえ、ばあちゃんなんでこんな時間に起きてんの?じいちゃんは?」


「年寄りの朝は早いんだよ。爺さんは部屋でディアンと戯れてる」


 ふふんと胸を張りながらの返答が返ってくる。ちなみにディアンは焦茶のオス猫だ。

 二人とも起きていたと言う事は、どう足掻いても秘密裏に猫を逃す事は最初から不可能だったと言う事だ。

 

 ある意味徒労と化したこれまでの緊張の反動がどっときて、足取りも重く階段へと歩き出す。もう何か言い返す気力もわかなかった。

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