第一話 『薄明の旋律』
――生か死か。それが疑問だ。
ご立派な問いだ。だがそもそも何故人は生まれ、そして死んでゆくのだろうか?
カリカリとただひたすらにペンを動かす。かすかな灯りが頼りの薄暗い部屋、本の山が放つ埃っぽい空気、そして無機質な記号数式。俺が愛する物たちだ。ただ全てが静かで、全てが不動。誰にも邪魔されない自分だけの空間。それに包まれながら毎夜数式を解くのが俺の密かな楽しみだった。
――カチリと歯車の擦れる音が時の流れを告げる。続いて窓の外遠くから不気味に響くゴォーンゴォーンという鐘の音。海の底から吊り上げられる魚のように意識が引き戻され、それと同時に俺を包んでいた温かい空間も一気に温度を失う。机の隅に置いてある時計を見やると時刻は12時を回り、今日という言葉が指し示すのが5月10日になったことを告げていた。
ペンを置き、ノートを閉じて俺は立ち上がる。オレンジの卓上ライトをパチリと消すと部屋を照らし出すのは月明かりだけ。窓際にある蓄音機のラッパが光を反射し、壁に幾何学模様を映し出している。
だんだん物の輪郭がぼんやりと滲んでいく。迫り来る暗闇のせいもあるが、小さい文字が目に負担だったのだろう。頭を一つ振って部屋の反対側にあるベッドに倒れ込む。蓄音機が跳ね返す光が顔に当たって眩しいのに気付いたが、今日はもう疲れた。カーテンを閉める気も起きず俺は間も無く眠りに落ちた。
△▼△▼△▼△▼
――ジッ……ジジッ……ザァー……
……幻…曲……家…じ………かな……プレ……ト
切れ切れの誰かの肉声に続いて流れ出すピアノの音色。ゆったりとしたテンポに軽快なメロディが合わさる。音に誘われて意識が浮上する。が、あと一歩のところで睡魔に抗えない。ぼんやりとした頭は音の粒たちを受け入れながらもぷかぷかと浮き沈みを続ける。
不意に不協和音が鳴り響き、はっと意識が覚醒する。同時に掻き鳴らされるいくつもの旋律がねじれ、絡まり、配管の中に押し込められた空気のように荒々しく駆け巡る。慌てて起き上がり、すぐさま音の出所――蓄音機の針を持ち上げる。
まだ血の巡っていない頭にドクドクと脈打つ血管が酸素を送り込む。自然と息が上がり、思わず壁に手をつく。頭の中にはさっきの激しい旋律が染み付いて離れなかった。
重苦しい空気、やり場のない激情、響き続けるピアノの音色、黒くて暗い空間、ポツリと打ち捨てられた赤い……
――ガンッッ!
はっと我に帰り左右を見渡すと、窓際にいる猫のくりっとした黄色い目と目が合った。互いにしばらく無言のまま見つめ合う。見つめ合う。見つめ合う。見つめ合って……ずりずりと黒猫の顔が下へと下がっていく。
――まずい。
そう感じるや否や隣の窓を開け放ち、猫の胴体に手を回して室内に回収する。この部屋は2階。裏庭に生えているサルスベリの枝によじ登って部屋の中に飛び移ろうとして失敗したらしい。猫は枝に片足を残しながら前足と顔だけでなんとか落ちないように踏ん張っていた。
いや、まあ知らない猫だし部屋にあげる義理はないのだが……もし落っこちて怪我でもしたら寝覚めが悪い。猫を床に下ろし窓をそっと閉める。ふぅと一息ついていると左からチリーンと澄んだ音色が聞こえてくる。そちらに目をやると、俺の机の上で猫がそれはそれは楽しげに、後ろ足を目一杯伸ばしてドアベルにじゃれついていた。
猫ってこんなにもちょこまか動くものなのか……。早くもげんなりとしながら歩み寄り、不思議そうな顔をしている猫を抱き上げる。そのまま部屋の中央に連れ戻し、あぐらをかいて座る。
机上の時計をちらりと見ると時刻は朝の5時。日曜日の朝に二度寝をかます事ほど幸せなことはそうはない。今日も惰眠をむさぼる心積もりが早くも打ち砕かれたのを感じて腕の力がへなへなと抜けていく。そのまま膝の上に猫を乗せるが猫が怯える気配は全く無い。
「誰かの飼い猫なのかなぁ……」
聞く者もない独り言がまだ日の昇りきっていない朝の空気に溶けていった。首輪か何かついていないか、されるがままの猫を撫でてみる。毛足の長い猫だ。胴体に指が触れるまで毛をかき分けると、指全体が動物特有の生暖かさに包まれる。首のあたりを重点的に撫で回すも首輪らしきものはついていなかった。
「お前、どこから来たんだよ?」
よいしょと猫を持ち上げて、目線を合わせて問いかける。猫はご機嫌そうに黄色い目を細め、ふにゃあと鳴いた。
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(ここからは数日おきの更新になります。面目ない…)




