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氷の鍵盤  作者: 宵凪琴葉
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プロローグ 『幸せな曲』


「ねぇ、奏音。お母さんはね、音楽が大好きなの」


 やわらかく微笑むその人からは、干したてのおふとんみたいな太陽の香りがした。母の腕がふわりと持ち上がり、目の前にある黒光りする蓋に手をかける。蓋をあけると、そこには白と黒の二色だけが広がっていて。でも、細い指がその上で軽やかにステップを踏み始めると、部屋の中が色んな色に染まるのだ。となりに座る母の腕が小刻みに動くのに合わせて僕の身体もその空間の中に溶け込んでいく。


 ――ねこ踏んじゃった。ねこ踏んじゃった。


 わずかな空気の揺れだけでこちらを安心させる澄んだ声が、優しく、残酷な歌詞を響かせる。


 「ねこさん踏んじゃったんなら、ごめんなさいしなきゃ。ぼく、いい子だからごめんなさい出来るよ?」


 思わずそう、屁理屈を返してしまったのはいつのことだっただろう。その日から僕の家で、この曲はただ幸せで、優しい曲になった。


 ――ねこさん、ごめん。踏んづけて。踊りましょう。仲直り。


 幸せな曲、幸せな時間。ふんふんと頭を左右に振りながら、自分も懸命に声を出す。


 ――ねこ踏んじゃった。ねこ踏んじゃった。ねこ踏んづけたけど仲直り。ねこ友達だ。ねこ友達だ。さぁ踊りましょ!


 鍵盤の上で舞い終わった指が膝へと戻って来る。軽くウェーブのかかった茶色い髪が僕の頬をくすぐる。ゆっくり息を吐ききった母が右手を僕の頭の上にぽんと置いた。


 「楽しいねぇ」

 「そうね。楽しいねぇ」

 「ねぇ、僕も、お母さんみたいにピアノが弾けるようになるかな?」

 「すぐに上手くなるわよ。楽しみだわぁ」


 ぱぁっと気持ちが明るくなる。じゃあ、これも、出来るようになるのかな。


 「僕も、お母さんみたいに幸せな曲を作れる?」


 茶色い瞳がきょとんと丸くなって、すぐに緩まる。


 「作れるわ。だって、奏音は音楽が好きだもの」

 「うん!ぼく、お歌大好き!ピアノも、お母さんも大好き!ぜったい曲作る!」


 頭の中に流れ出したメロディをお母さんにも伝わるように歌い出す。でも、声だけじゃ足りない。椅子からぽんと降りて、全身で表現する。母の笑う声が聞こえた。気持ちがほかほかした。母も椅子から降りたかと思うと、こちらへ歩いてきて、僕を抱き上げる。視界がぎゅんと高くなる。思わずキャハハと声が漏れる。


 ふふふ。きゃはは。笑い声が、幸せな部屋を満たしていた。満たしていた。

 

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