52『涙の数だけ』
「明日香、あすかぁ」
直人が、呪文のように私の名前を読んでいる。その瞳には光がない。
私が見てない間に直人に一体何が起きたのか。
直人は、目の前に私が居ることに気付いていないらしい。
それに、いくら頬を触ってもその頬は冷たいままで、何の反応もない。
手は私に触れているのに。探るように、何度も、何度も。
「私は、ここにいるよ」
直人の手を握り、訴える。その手もまた、頬同様に冷たい。
それでもまだ、直人には私が見えていない。
全く何が起きているのか分からない状況で、女神に送られてきた私は、途方に暮れていた。
一体、女神は私に何をさせたかったのか。まるで分らない。
けれど、この状況を打破しないと私も直人も、向こうに帰れない事は確実だ。
「直人、直人。起きて。帰ろう」
肩を揺さぶり、反応を確かめるも、予想通り、彼は私になされるがままに体を揺らすだけだった。
完全に行き詰っている。何をそうすればいいのか、全く分からない。
「女神!いる?」
仕方がないので元凶であろう女神を呼び出す。
『はあい。何でしょう?』
「直人が変なの。なんか知ってるでしょ?」
少しの沈黙があった後、女神は静かに言った。
『遅かったみたいですね』
……意味が分からない。これは絶対、知っているか、という質問に対しての答えではない。
「どういうこと?」
女神は、またもやその質問に対しての正しい答えを返さなかった。
『まあ、私にとってはいい事なんですけど』
「ん?」
『もう取り返しのつかないことなんで、話しましょうか』
そう言って、女神は勝手に語りだした。
『最初は間違いだったんです。本当は、藤谷さんを夏目さんのところに送る気なんて無かったんです。
けれど、その時の私は忙しかったので、手違いで藤谷さんを向こうに転移させちゃったんです。
それにシュが気付いて、危うくこの世界も私も消されそうになったんで、今回、直人さんをこうするに至ったんです。
……ここは、地獄ですね。来た人に、その人が望む幻覚を見せ、捕らえるんです。永遠に地獄から抜け出せないように、抜け出そうと思わせないように。
ある意味、幸せですよね。苦痛は無いんですよ。ただただ夢を見ている。それだけなんですから。
今の藤谷さんは、永遠に見つからないあなたを探して、永遠の旅をしていますよ。
地獄から帰ってくることは不可能です。
あ、安心してくださいね。夏目さんはただ、覗きに来てるだけなんですから。
彼と一緒に帰りたい?無理って言ったじゃないですか。
そもそも、彼の居場所は既に、地獄になっているんです。
帰るも何も、ここが彼の居場所なんですよ』
「あんたは、最低だよ」
女神は、すぐに返事を返さなかった。
返す気もないのか、それとも、私の次の言葉を待っているのか。
「直人は、地獄に落ちる理由なんて無いじゃない。なのに、あんたは……」
『彼は地獄に落ちるべき人です』
食い気味に、女神は言った。
「どうして」
『彼は自殺を選んだ。それは、許されないことです』
「じゃあ、私も自殺しようとした。同罪じゃない。なら、私も地獄に落としてよ」
どちらも、双方の言葉が終わるとすぐに次に続けるため、口論のスピードが上がる。
『あなたは、違います』
「何で」
『あなたは、事故死です。彼とは違う。それに、あなたはこの世界に送られるべき存在だった』
「私は別に、この世界に来たくはなかった」
『仕方がないんですよ。私が間違えてしまったんですから』
「あんたさあ、さっきから、間違えた間違えたって、全部あんたのミスじゃない。私達のせいじゃないじゃない。私が死んだせいで、直人は自殺を選んだ。だからそもそも、あんたが私を殺しさえしなければ、直人は自殺なんかしなかった。全部あんたのせいだよ」
『でも……』
「ううん。でも、はない。全部あんたが失敗したせい。あんたが失敗さえしなければ、私達はこんなことにならなかった。直人と私は、出会わずに、それぞれ別の、普通の生活をしてた。……違う?」
『……』
「あんたはどう責任取ってくれるの。どうしたら私達を普通の生活に戻してくれるの」
『もう、取り返しがつかないんですよ……』
女神は、か細い声で、言葉を続けた。
『こうしないと、私も、この世界も、消されてしまうんです。シュの言う事には抗えません』
「私は、そんなことどうだっていい。今は、直人を助けたいだけ」
『じゃあ、逆に聞きますけど、どうしてあなたはそんなに、直人さんにこだわるんですか』
「そんなの、あんたは知らなくていい。知ってほしくもない」
『あなたは、過去のしがらみに囚われたままです。私は、それから解放したくて……』
「そんなのいらない!私は、ただ、直人に生きていて欲しいだけ。あの世界でもこの世界でも、普通に幸せに生きていて欲しいだけなの。……分かった。交換しよう。直人の命。私の何かと。私の事はどうだっていい。そうすれば、直人は救われるんじゃない?それが、定番でしょ」
『……っ』
「出来なければ、私も地獄に落として。あんたならそれが出来るでしょ?」
『私はっ』
「早く」
『分かりました。でも、夏目さんを地獄へ落とすことだけはできません。なので、世界の終わりを防ぐ為の代価を差し出さなければなりません』
「私はなんでもいいよ。私に出来ることなら」
『今の夏目さんに必要のないものは何ですか』
「直人の命に代えられるなら何でも」
『では、私が勝手に選びますね……』
女神はどこか寂しそうだ。萎れている、と言うべきか。
正直、私は、直人を救えるなら命だって要らない。
女神がそれを望まないのだとしても。
『決めました。……チート能力にしましょう』
「直人、直人!」
誰かに肩を揺すられている。温もりと、懐かしい香り。
直人は目を覚ました。
どのくらい眠っていたのか、分からない。
直近の事を思い出そうとしても、何も思い出せない。
今はただ、近くに感じるこの香りを味わっていたかった。
「ちょっと!」
そんな声が聞こえたと思うと、直人の頬からベチン!と音が鳴った。
とすぐに、頬が痛み、直人はそこを押さえずにはいられなくなった。
「い、いってぇ」
頬を擦ると、途端に、ふわりと空気が動いた。
甘い香りが近くに来たかと思うと、直人の身体が動かされた。
驚いて目を開けると、すぐ近くに何者かの頭と、青い空が広がった。
「なおとぉ」
よく聞くと、その声はよく聞くそれであった。
「明日香……。どうしたの?」
身体に力が入らず、そのまま明日香に抱きあげられたままでいると、彼女の声が聞こえた。
「心配だったんだからね!」
聞くところによると、自分はどうやら、地獄に落とされていたらしい。
地獄の定義については、幻覚を見せるもので、あの矛盾が起こったのは女神の修正が入ったから、らしい。
――どうりで、変だと思ったんだ。
あの幻覚の明日香は、いつもより優しかった。
あんなに丸くて優しい訳がない。それに、今の明日香より、昔の明日香の方がとがっていた。
今の明日香より優しい事なんて無いんだ。
今の明日香も直人には厳しいし、相変わらず嫌われているようなのだが、だからこそ――
「明日香の事が好きなんだ」
やっと、伝えられた。前と全く変わらない、自分の想いを。
3度目の告白。なので、3度目の正直、といきたいところだが……。
「……ごめん。やっぱり、その想いには答えられない。直人の事は嫌いじゃないよ?だけど、直人のその想いは間違ってる。勘違いなんだよ。私なんかが、直人と一緒にいていいはずがない。本当ならあの時、私だけが傷つくべきべきだったんだ」
「それ、何回も聞いた。俺は、気にしてないって言ったじゃん。それに、明日香なんかじゃないよ。俺は、明日香がいいんだ」
「ごめんなさい」
明日香は悲痛の顔で、迷わすにそう言った。
明日香には笑顔でいて欲しい。そんな思いが、直人の想いを押さえつけてしまう。
だからいつまでも、先に進めないんだ。そう思いながらも、直人は続けざるを得なかった。
「俺の方こそ、ごめん。でも、いつかきっと、明日香を……」
その先は、喉が詰まってしまって言えなかった。
男が涙を見せるまい。必死に抑え込んで、直人は笑った。
それに、明日香は気付いていたのかもしれない。
「うん。待ってる。それに、私だって変わって見せるから」
そう言って、直人たちは笑い合った。
「さ、行こ。ラリーたちが待ってるよ」
明日香は、直人に右手を差し出した。
「ああ」
直人は、目に浮かんだ雫を無理やりぬぐい取り、明日香の手を取った。




