42『黄色い瞳の猫』
「がっ……はぁっ」
首を掴まれて、地面にたたきつけられ、気を失いかける。
立ち上がろうと手を後ろに置くが、力が全く入らない。
その上、口の中は血だらけだ。
「あらぁ?もう終わりかしら?男の子なのに、情けないのね。残念。もう、要らないわ。あなたは。また別の子連れてきてくれるんでしょう?さっきどこかへ行っちゃったあの子が。うふ、楽しみだわ。あなたは、どうする?逃げちゃう?いいわよ、逃がしてあげる。でもまあ、来るまでつまらないからね、それまでつきあってもらっちゃお」
殴られた腹が、頬が、頭が、脚が、痛い。
ズキズキする。今まで感じたことのなかった痛みが一気に襲ってくる。初めての恐怖を、初めての畏怖を、痛みとともに感じた。
──助けて、明日香。
誰かに、呼ばれた気がした。
何も無い空間の中で、私は何も無い空間に振り返った。やはり、何もありやしない。
ひたすら歩き続けて小1時間。状況は何も変わる事は無かった。
ただただ疲れただけだった。
何も無いんだったら、別の階に行けばいいじゃん、と思うのかもしれないが、そうもいかない。
何故なら、それを実行しようとすると今以上に時間がかかるからだ。
地下の街は階数が多いだけにやはり広い。
私1人だけの力ではどうしようもないのである。
「よっこいしょっと」
色々詰んだ気がするので地べたに直接座る。体育座りだ。
じゃりじゃりする。
──短パンは動きやすいけど、あんま短すぎると座った時に冷たいし、痛いなあ。まあ、変えるつもりはないけれど。
さあて。これからどうしよう。
この地下の街全てを探すのはもっての外だし、いると言われたところにはいない。
あー、誰か私を呼んでー。
「みゃん」
「へ?」
猫がいる。しかも、さっきまでいなかったのに。
可愛い黒猫。瞳の色は黄色。
敵の可能性もあるのに、私にはそうは思えなかった。
猫は一言鳴き、私に背を向ける。いや、尻を向ける。
どういう事だろうか。
普通なら、ついて来いという事だろう。
そのまま歩きだしたから、そういう事と解釈しよう。
猫はぐんぐん歩くスピードを上げていく。
「ちょ、ちょっとまって」
私の焦りも気にせず、猫はトトトン、と走って私を置いて行ってしまった。
どうしよう……。
あの猫しか手掛かりがなかったのに。
「うーん」
目を閉じて自分の不甲斐なさを悔やんでいると、ぼんやり光明が見えて気がした。
目の前は真っ暗で何も見えないはずなのに。
ん?光?
「あ……」
目を開けると、地面が仄かに光っていた。
よく見れば、光は猫の肉球の形をしている。さっきの猫の足跡だろうか。
あの猫の瞳の色と同じ色をした足跡は、ずっと奥まで続いている。
「──待っててね」
私に何ができる、と言い切れるわけでもないが、私を待ってくれているはずの人のために猫の足跡を駆け追った。
「ふぅ……ふぅ……ぅ」
息切れで肩が激しく上下する。
もう走れそうにない。
腰を落としたままの姿勢で敵を見据える。
「やっと止まってくれたか。さっきからちょこまかちょこまかと。うざったらしいったらありゃしない。全く。やけに体力だけは高いから厄介なんだ、亜人族は。その角の様子だと、持久力だけが取り柄のリキユン族かな?ふん、まあ、子供だから手加減していたが、やはり厄介だった。先程の濃密な戦いもあってさすがに、僕の魔力も尽きかけている。あーあ。どうせならあっちの勇者気取りの馬鹿を相手にしておけばよかった。全く。あいつは男が好きすぎる。俺は嫌われてるってのに。もっとマシな性格してたら元は美人のあいつのことだからもっともててたのにさ。勿体ない」
話がころころと変わる。し、独り言が長い。
ルイの前に立ちはだかるのは、全身真っ黒の長身男。
その目でいくらの人を殺して来たのか、そう疑いたくなるほどの圧迫感を持つその瞳で、ルイを見下ろしてくる。
流石に、さっきからその目をずっと見ているため足が竦み上がるような事は無い。
普通の子供だったらすぐにでも逃げ出すか泣き出すだろう。
それくらいの瞳を、彼は持っていた。
「ところで、君はこれから何をするの?僕に何を見せてくれるの?君はどれぐらい僕を楽しませてくれるの?」
2回目だ。初めにもこれを問われた。その時は応えなかった。答えられなかった。恐怖で足が竦み上がって、舌の筋肉が全く持って動こうとしなかった。
でも、今は応えられる。答えられる。慣れというのは恐ろしいものだ。
ルイは、はっきりとした自信を持って答えた。
「ルイのお姉ちゃんが助けに来てくれる。だからそれまでに、――ルイはあなたを倒す」
ルイの声が聞こえた気がした。
気のせいかもしれない。木のせいかもしれない。でも、ここに木はない。あるのは、たったひとり私だけだ。
猫の足跡を追いかけて、体内時計、10分。
そろそろ何かが見えてきてもいいはずなのだが、未だ何もない。
音もしないから、もっとかかるのでは、と思い始めている。
「みゃぉ」
再び、小さく猫の鳴き声が聞こえた。
もしかしたらもう目的の場所についてしまったのかもしれない。
私は、急いで猫の足跡を追いかける。
先を凝視すると、猫の足跡が途中で途切れていた。
目的地はすぐそこ。私はやっと見えてきた光明に一刻も早く触れるべく、体力がないのも忘れて全速力で走り始める。
息を切らして、気を失いそうになりながら、私は足跡の途切れた場所に着いた。
「はぁ、はぁ。……あれ?」
私が何かを疑問に思った、その理由。それはとても簡単なこと。
何も無かった。何も。猫の足跡も、いつの間にか消えている。
──困った。いや、困ったどころの話じゃない。困るどころか、困って、惑って、困惑している。
今までの努力は何だったんだ。
歩いて、困って、見つけて、追いかけて、歩いて、走って。結局、その努力も期待も全部無駄になった。
期待に集中して、目を逸らしていた疲労がどっと押し寄せる。
上がった息と披露した足を休めるために、その場に座る。
背を真っ直ぐにしていられる体力ももう残っていないので、地面が土だという事も気にせず大の字に寝転がる。
上下する胸、力が抜ける脚。
この疲労感を、魔法でどうにかできたらいいのに、と怠惰にもそう思う。
そう思ったところで、私は勢いよく起き上がった。
その姿勢で、頭をわしわしとかき混ぜると、ふと感じた。
何でか頭が妙に柔らかいし、ふわふわしている。
「って、えぇ!」
「みゃあ」
頭の上に乗っかっている謎の物体は、毛がふさふさの猫だった。
あまりにもびっくりしたので、頭の上から引っぺがしてしまった。
しかも、どうにもこの猫は重さを感じない。多分、こうだから頭の上に乗っていても築かなかったのだろう。
猫の瞳の色は黄色。さっきの猫と同じ猫のようだった。
猫は雑に扱われたのにもかかわらず、大人しく抱かれたままでいる。
「おまえ、どうして私の頭の上に乗っていたの?」
「みゃあ」
「うーん。分からないなあ」
「みゃん!」
猫は猫語でそう叫ぶと、手の中で暴れだした。
「はいはい、分かったから」
「みゃお」
猫は、解放されると、ナツメが向いている方向に歩き出した。
「みゅ」
猫は、猫とも思えない凄技で、片足を上げてこの世のものではないような異空間を出現させた。
猫は、そこから先に進むようなそぶりは全く見せない。
これは、行け、と言っているのだろうか。
私は、恐る恐る立ち上がり、進む。
異空間の前で立ち止まり、後ろを振り返る。
猫の表情は、真顔のままずっと変わらない。
「みゃー」
私はまだ先へ進む決心がつかない。
先が見えないことへの不安は人類共通だと思う。多分。
ゆっくり、ゆっくりと右足を動かす。
そこで、私に予想外のハプニングが起こった。
右足に当たったふにっとする何かにより、右足が大きく前に出されたのだ。
異空間に入ってしまったことにより、体が大きく前によろける。
「みゃみゃみゃん」
異空間に埋もれながらも、私は直感的に理解した。
私の足を押したのはあの猫だ。
──許さん。許さんぞ、猫。




