30『笑って』
「あら、こんなところでどうしたんですか?」
「え?」
その声は、間違いなく女神の声だ。どうしてここにいるんだ。
「どうしてここに来れたんですかねぇ」
と、小さく女神が呟く。
その言い草からすると、ここは普段は来れない場所らしい。となると、ありうるのはあの、『無の空間』か。
どうしてと女神は繰り返しているが、それは私も知りたい。
どうして私は『無の空間』なんかに来てしまったのか。
と言うより、『無の空間』にテレポートしてこれるものなのか。
そのまま声も出さずに考えていると、女神は合点がつかない様子のまま話を続けた。
「何かあったんですか?顔が赤いですよ。目も充血してますし」
「いえ、何でもありません。放っておいて下さい」
「あら、今日は弱気なんですね。ますます見逃せませんよ。私に何ができるという訳でもないですけど、話だけでも聞かせてください」
珍しく、優しい女神だ。
いつでもこうだといいのだが、残念ながら今、私にこの対応は必要ない。
「いいです。何でもないって言ったじゃないですか」
「そうは見えませんけどねえ」
女神はどうしても首を突っ込みたいらしい。
止めて欲しい。そういうのが余計……。
「あれ?なんか、水が……」
どこからか流れてきた水が私の口の中に入ろうとする。
水にしてはしょっぱい。
「涙……?」
どうやら、水だと思われたの私の目から零れ落ちた涙だったようだ。
涙は次々に頬を伝い、顔全体を濡らす。
「どうして……?」
「ほら、やっぱり。何かあったんじゃないですか。……聞かせてください。何があったのか。絶対力になりますから」
その言葉をきっかけに、涙は大量に溢れ出、止まることはなかった。
私の意に反して涙はどんどんと目から零れていく。
もう私も、どうすればいいのか分からなくなってしまった。
女神なんかに弱いところを見られたくないはずなのに。
本当は泣きたくなんかないはずなのに。
それでも、涙は溢れ出る。
もういっそ全部吐き出してしまいたいと思った。
吐いて吐いて吐いて楽になりたかった。
そして、私は女神に全てを話した。
「そうだったんですか……。すみません、なんかそれって原因私ですよね?知らなくて……」
「そうですよ。もとはと言えばあなたのせいですよ。あんたが直人なんかを連れてくるから」
「はは……。──でも!」
「うわっ」
耳が痛い。
急に大声を出すのは止めて欲しい。
「何ですか」
「そのおかげで夏目さんは変われるかもしれないんですよ。前向きに行きましょうよ」
「……私、変わるつもりなんて無いんですけど」
「え?なんか言いましたか?」
「いえ、何でも」
小声で言ったから聞こえなかった様なので、そのまま話をそらす。
「それより、あなたは何で私を見つけられたんですか」
「えーっとですねえ」
先程から気になっていたことだ。
私は『無の空間』を散歩しても誰かに会うものではないと思っていた。
その考えは女神に会った今でも変わらない。
ならどうして、女神は私を見つけられたのか。
『無の空間』はどういう空間なのか。
私の好奇心がくすぐられるような疑問ばかりだ。
「先程、ここへのアクセスが確認されました。私はそれを行った人を迎えるためにここへ来たのです。そこで夏目さんを発見しました」
「アクセスって?」
「アクセスとは言いましたが、単純に言うと、インターフォンみたいなものです。ここに誰かが来たからお出迎えに言った、そういうことです。ちなみに、誰かと言うのは大体死人ですね。今回は違いましたけど」
「あ、そういうことなんですか」
私を死人だと思ってきたわけか。
あれ?さっき?
「さっきってどういうことですか?」
「ああ、そこですか。さっきはさっきですよ。ついさっき知らせが来てついさっき来たんですよ」
「どうして?私は大分前に来ましたよ。3日は前に」
「不思議な事ではありませんよ。この空間では時間の流れなど無いにも等しいんですよ。その人が過ごしたい時を感じる。長くここに居たいと思えば長くいられますし、時が過ぎるのなんか一瞬だと思っていれば逆に一瞬で時は過ぎていくんです。私は、ずーっとここにいるもんですから、短いと思っていないと女神生やっていけませんよ」
「そうなんですか」
じゃあ、向こう──仲間がいる世界──でどれだけ時間が経っているのかも分からないのか。
それは不便だ。一体、何日経ったのだろう。きっと2人とも心配していることだろう。
そろそろ帰らないと。
でも、直人には会いたくない。
女神に吐き出して、少しは楽になったとしても、その思いだけは変わらない。
「夏目さんは、帰りたくないんですか」
女神が、ラリアンのように思考は読めないはずなのに、まるでそうしたかのように言ってきた。
そんなに顔に出してしまっていたのか。
「聞かなくても分かりますよ。暗い顔してますもん」
「そうですか……」
すぐに表情を変え、女神を真っ直ぐに見つめる。
これで暗くは見えなくなったはずだ。
すぐに表情を変えたからか、女神は意外そうにした。
「夏目さん」
「何ですか」
女神は、何かを心に決めたかのような顔をしている。
何を言おうとしているのか。
「帰りましょう」
「……」
──嫌です。
すぐにでもそう言えるはずだったのに、言えなかった。
何故だか、ラリアンとルイの、悲しそうな顔が浮かんできてしまったのだ。
──彼女達の笑顔が見たいから、帰りたい。
そんな風に思ってしまった。
人は、すぐには変われない。女神がそう、言ってくれた。
本当にその通りだと思う。
私はどれだけラリアンの説得を聞いても、直人を受け入れることは出来なかった。
それは今も変わらない。
けれど、今からでも私は変わりたい。
そう思って、伝えるためには少し遅かったのかもしれない。
でも、いつでもみんなで笑えるようになれるようになりたい。
そんな私は、子供みたい、と笑われるかもしれない。
それでも、私は変わりたい。
私は勢いよく立ち上がって女神の手を握った。
「帰りたい」
「はい。分かりました」
そう言って2人で微笑みを交わした。




