第57小節
わたしはいつもよりはやくホールの控室に入ると、すでに彼とクレアがソファーに向かい合って座っていてわたしを笑顔で迎えてくれた。
わたしは静かにドアを閉め、向きなおって深々と頭を下げた。
「だいじょうぶかい?」
と彼がいった。
「はい」
とわたしは彼の顔をちゃんと見ていった。
「わたしがいて正解だったでしょ?」
とクレアがいった。
「ほんとに」
「じゃあ、弾いてくるね」
とクレアはいうと立ち上がった。
すれ違うとき、彼女はそっとわたしの肩に手を置いた。
ふれた手が、ジンとあたたかかった。
ドアが閉まった。
「座って」
と彼はいった。
「はい」
とわたしはいって向かいのソファーに座った。
「ぼくが最初にいろいろと注文をつけてしまったね」
「そんな」
「そういっておきながら、つぎは機械的でいいっていってしまって混乱させてしまったのかもしれない。きみがあらかじめ描いていたリズムみたいなものを壊してしまったようだね、ごめんね」
「いえ、ぜんぜん。それはわたしがほんとに、何ていったらいいのか、ただただあれで、ほんとに自覚が足りなかったみたいで、その何てゆうか、自分でもこんなに迷惑をかけてしまうなんて、ほんとに情けない思いでいっぱいで、ほんとうに申し訳ない思いでいっぱいで、どうあやまればいいのかわたし……」
「あやまる必要なんて何もないよ」
「いえ、でも」
「じゃ、あやまらないで」
「あ、はい」
「うん」
「はあ……」
「まあ、何はともあれ、大事に至らなくてよかった」
「ほんとにご心配おかけしました」
「ううん。気にしないで。悪いのはこっちだと思うから」
「そんなことはぜんぜん」
「ねえ、アルバイトははじめてだったのかい?」
「はい。本格的な……お手伝いみたいなのをしてお金をいただいたことは何度かありましたけど」
「そっか。見えない緊張感ってなものがあるからね。だからぼくはきみに余計なことをいって過剰なストレスを与えてしまっていたんじゃないかって思ってる」
「まったくそんなことは。ほんとに楽しくって、あのほんと楽しいんです、このお仕事。だからこんなに楽しくっていいのかなって逆に心配になってたくらいで」
「それならいいんだけど。まあ、ほんと無理しなくていいからね」
「ありがとうございます」
「ところで」
「はい」
「きみが弾いた、プレコンサートの曲」
「あ、はい」
「あれはきみがアレンジしたの?」
「すみません勝手に」
「ううん。それはぜんぜんかまわないんだけど。いや、あまりに素晴らしくってちょっとびっくりしてね」
「ほんとですか?」
「ほんとほんと。すごくポップになってて、まるできみの曲みたいだったよ。ほんとアイドルっぽくて」
「ああ、わたしはアイドルっぽくはないんですけど、曲はアイドルポップスっぽくしてみました」
「すごく80年代のアイドルポップスのきらめきがあって、あの頃のテイストがほんとにキラキラしてたよ」
「大好きなんです。80年代のアイドルポップスが」
「そう。いや、きみのデビュー曲にあの曲提供しよっかなって思ったほどだったよ」
「うれしいです。でももうすぐ19歳だし、いまはもうピアノでって思ってるところでもあるので」
「そうなんだ」
「はい」
「でね」
「はい」
「きみさえよければあの曲、連弾できないかなって思ってね」
「わたしとですか?」
「きみと」
「演奏会で」
「うん、演奏会で」
「ええっ」
「ぼくがメロディーで、きみがハーモニーをね」




