第56小節
午後になって小雨が夜まで降りつづいたのでわたしたちはずっとホテル内にいた。
母と桟橋のベンチで海を眺めたかった。
すべてを受け入れる海に向かってだったら、母にいろんなことを話せそうな気がした。
残念がるわたしを、母はその楽しみはとっておきましょといってなぐさめてくれた。
夕食をレストランでとり、部屋にもどって順番にお風呂に入り、テレビのバラエティ番組で大笑いした。
母がアイドル時代の同期のアイドルが、いまは女優としてそのバラエティ番組に出演していた。
そのことをわたしが母にいうと、母はなつかしそうに彼女との微笑ましいエピソードを話してくれた。
その流れでわたしは、シーフードレストランで理事長がお母さんと昔仕事をしたことがあるとかいってたけど、そのことをおぼえてるかどうか聞いた。
もちろん、と母は答えた。
理事長がグループを継ぐまえのまだ広告代理店の一社員であったときに、母の新曲のキャンペーンで夏のあいだ全国を一緒にまわったことがあったそうだ。
お互いに励まし合っていたことはおぼえていると母はいった。
グループの経営難をほっておいて、このままじぶんが好きなことをつづけていてもいいのかって理事長はずいぶん悩んでいたらしい。
母はあまりアイドル時代のことをじぶんからは話さない。
でも聞けば何でも答えてくれた。
売れなかったことも。
楽しいことばかりじゃなかったことも。
でもそれ以上に毎日ときめいていたことも。
あんなに素敵なデビュー曲を歌えたからって。
テレビ画面の同期を見る母の顔は、あの頃にもどっているようだった。
家では野球中継ばかり見ている父だったから、こんなふうにバラエティ番組を母と見ることはほとんどなかった。
そんな話をわたしがしたら、母はこういった。
ほんとうはお父さん、娘であってもあなたとキャッチボールをしたかったのよ、と。
でもピアノ習いはじめてからはあきらめたみたいだけど、って。
知らなかったな、とわたしはいった。
いってくれたらしたのに、って。
つき指でもしたらとりかえしがつかないからやめて、と母はいった。
お父さんも断ると思うし、って。
何で、とわたしは聞いた。
あなたがじぶんのせいでピアニストでなくなったら、お父さん、生きていけなくなるからよ、と母は答えた。
ピアノ、ぜんぜん関心ないって思ってたけど、とわたしいった。
それから母は語ってくれた。
小学校に入ったばかりのあなた。
ピアノ教室主催のピアノ演奏会。
そう、あなたのはじめての演奏会。
お父さんとふたりで聴いた、たったいちどのあなたのピアノ……
お父さんは演奏会が終わったとき、母に向かっていったそうだ。
このために生きないか、と。
だからあなたに、親からの変なプレッシャーはかけたくはなかったのよ、と。
あなたは賞という賞を総なめにするほど立派なピアニストになっていった。
天才ピアニストとしてみんなが称賛してくれるほどに。
あなたも自覚して、誇りを持って、歩んでくれた。
あなたがこのところずっと悩んでいることはお父さんともよく話していた、と。
もうじゅうぶんピアニストとしてよろこばしてくれたから、あなたが違う道に進みたいといったら、そのときはうなずいてあげようとも。
母からそのことを聞いて、わたしは何げなくあたりまえに自分のことをピアニストと呼んでいたけれど、はたしてわたしはほんとうに父が望むピアニストになっているのだろうかという疑問をもった。
ほんとうにわたしは父の期待に応えられていたのか。
優勝することだけがその答えだったのか。
父がいつか聴きたかったピアノを弾けるまでにわたしは成長していたのだろうか、と。
となりのベッドで眠る母の寝息を聞きながらそんなことを考えていたら、いつしかわたしも深い眠りに落ちていた。
目を覚ましたら、元気な夏だった。
わたしたちは遅めの朝食をとった。
それから母とは玄関ロビーで別れた。
去りゆくバスを見たら泣くかもしれなかったから。
母もわかってるのか、ここでいいわといった。
ロビーにいた男性スタッフが母を送迎バスの乗り場まで案内してくれた。
わかりにくい場所にあるのかもしれない。
最終日、ホテルを去る日をわたしはちょっと想像した。
きちんと終えて去りたかった。
そのためにもより一層意識を高く持たなければならないと気合いを入れなおした。
わたしは部屋にもどりクレアに電話した。
わたしが元気そうなので、彼女はよかったと何度もくりかえした。
譜めくりはうまくいき演奏会は無事に終わったとのことだった。
今日のプレコンサートは彼女にお願いした。
彼女はいいよ、だけど無理しないでね、といった。
わたしはありがとうといって、彼女がじゃああとでねといって、電話を切った。
明日は中日で演奏会は休みだった。
明日、不安なまま過ごすのはいやだった。
今日、きちんと譜めくりの役目を果たしておきたかった。
わたしは今日の演奏会の予習をはじめた。




