第58小節
連弾の話がとってもうれしかったせいか、わたしは休み明けの演奏会の譜めくりをすごく楽しい気分のまま終えることができた。
とはいっても、仕事をきちんとこなすという意識は最後まで忘れないようにことあるごとに気をひきしめてはいた。
きれいに演奏会が終わったあとのお客さんの満足げな顔を、わたしはしばらく眺めていた。
そんなわたしの肩を彼は軽くポンポンとたたいて、おつかれさまと小声でいってから、ホールの脇のスタッフ専用の出入口のほうへと向かっていった。
彼のあまりにも優しい声にわたしはうっとりとしてしまっていた。
わたしは演奏会の余韻にひたっているお客さんがまだいるなか、立ち上がって小さな声でおつかれさまですと彼が消えたほうに向かっていうと、頭を下げた。
座ってホッとしているわたしのところにクレアがきて、あとで電話してといった。
何の用事がわからなかったけれど、とりあえず、うんというふうにうなずいた。
クレアは、じゃあねと帰っていった。
それからまだ20代に見える男性のスタッフがやってきて、楽譜などを片づける際に、今日はいちだんとステキでした、とわたしの目を見ずにいった。
ええ、ほんとに、とわたしがいうと、あなたのことです、とその男性スタッフはいい、そのまま顔をふせたまま去っていった。
わたしはポカンとなっていた。
じんじんと顔が火照ってきた。
そんなことをいわれたのは生まれてはじめてだった。
まだ免疫がなかったんだと思う。
聞き間違いではないかと考えたりした。
だけどステキをどう聞き間違えるのかどんなに頭をめぐらせても思い当たらなかった。
間違いない。
ステキ、に。
わたしはおそらくにやけたままでいたと思う。
たぶんよっぽど気持ちわるかったのだろう。
最前列の小学校の高学年くらいの男の子が、口をあんぐりとあけた状態でわたしの顔を見つめていた。




