第22小節
朝食から部屋にもどり、海シリーズの楽譜を持ってホールへと向かった。
扉からピアノへとつづくバージンロード……いや、ホールの造りが造りなのでついついそんな気分になってしまう……。
いまはピアノホールだから中央の通路、を歩いてゆく。
ピアノの譜面台に楽譜を置いてわたしは椅子に座った。
蓋をあける。
深呼吸をして、楽譜をひらく。
その最初の音符をポンと鳴らす。
いつも弾くまえにしているわたしのおまじない。
いわば、ピアノへのあいさつ。
そうしてわたしはおおきく息を吸い込むと、弾きはじめた。
海シリーズ。
Ⅰ。
第1楽章。
第2楽章。
第3楽章。
約30分、弾きつづけた。
3週間あまり譜めくりのためにピアノからはなれてしまうことは覚悟の上だった。
わたしは何かを変えたかった。
あえてはなれることで、変化を望んだ。
このアルバイトに応募することで、もういろいろと考えすぎずに、そしてもうこれ以上あれこれと悩まずに済むかもしれないと思った。
とりあえずピアノ以外の何かをじぶんに課したかった。
そんなわたしに、譜めくりは最適だった。
それはピアノとの絶妙な距離感のようにも思えた。
だけど採用が決まったら決まったで、少し欲がでた。
そうゆう欲もずいぶんとなかったものだから、わたしはいい傾向としてそれをとらえた。
そこには演奏用とはいえピアノはあるので、朝のほんのちょっとした時間でも、それはほんとうにほんの30分程度でもいいので弾かせてもらえたらと、わたしは担当の方にお願いしてみようとは思っていた。
だめならだめでそれでよかった。
ふんぎりがつくし、後悔なくあきらめられた。
そう思っていたら、午前中なら弾いてもいいように彼が配慮してくれた。
彼のさまざまな配慮には感謝しかなかった。
わたしの危惧していることを、まるで透視したように彼はひとつひとつ取り払ってくれている。
ピアニスト同士だからできる、というよりは、人としてのその思いやる能力のすごさに感動すらおぼえていた。
またそうでなければあれほどの美しいメロディーは生まれないのだろう、とも思った。
ピアノにさわれないならさわれないで、そこまで自分を追い込んでみることもそれはそれでショック療法として必要なことだという、そういった覚悟も一応はしていたつもりだった。
しかしもしほんとうにそうなっていたとしたら、この譜めくりのアルバイトをつづけられていられたかどうかは、わからない。
ピアノへの渇望は、想像以上のものだったから。
そのことをわたしは、軽視していたから。
それらは、はなれてみてはじめてわかることではあった。
それは裏返せば、じぶんがどれほど、ピアノに対しての依存度があるのかを知ることにもなった。
悪い意味ではなくて、はなれられない、どうしていいのか迷う、なくなったら困ってしまうといった、そのかけがえのなさの度合いという意味で。
なのでいまこうして思いっきり弾けることがとてもうれしくて、何より、あからさまに気持ちがよかった。
何かに邪魔されないで、気持ちよさがむきだしになっていた。
何に、邪魔されていたのだろうって思った。
何が邪魔していたんだろうかって。
この、弾き終えた、心地よい疲れ。
疲れは、ただつらいだけだったのに。
疲れは、たまってゆくいっぽうだったのに。
どこか気づかないところに、変にチカラが入っていたのだろうか。
何かをつかめそう。
そんな感触が、指先のしびれにあった。
それは、うち震えているほうの細胞の振動だと思った。
彼のいう通り。
弾きたい、という号令をかけた、わたしの細胞の反応。
わたしはカバンからミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、時間をかけて3分の2ほど飲んだ。
からだにやさしく、そっと、そっと。
ここにも彼の影響はでている。
そうすると疲れはすぅ~と消えていった。
わたしはふたたびピアノに向かった。
そして海シリーズのⅡとⅢを通して弾いた。
弾き終えたとき、スマホの時刻を見るとちょうど11時を過ぎた頃だった。
このまま少し休憩してⅣを弾こうかどうか迷った。
でもやっぱりひさしぶりだったし、無理はしたくなかった。
わたしは部屋にもどって、休むことにした。




