第8話
「私には、近寄らせないで!」
パウラが叫んだ。
私は壇の下で足を止めた。医師が彼女の前に膝をつき、脈を取ろうとする。
「診察いたします。こちらの手を」
「嫌よ! お姉様が見ているもの!」
「先生、右手にも何かお持ちです」
私が伝えると、パウラは右腕を身体の下へ滑り込ませた。
その拍子に、銀の口金が絨毯を打った。
小さな平たい容器だった。口が開き、赤い液体が細く流れ出す。
医師が布を被せ、そばの騎士に渡した。
「これは保管を。口に含んだものですか、パウラ嬢?」
「ち、違います!」
ロルフ卿は殿下のすぐ横に立ち、静かに周囲を見ていた。
私は学園長と法務官が壇へ上がるのを待ってから、口を開いた。
「お話を整理しましょう。パウラは今日の夕方、控室で、私が直接渡した紅茶を飲んだのですね?」
「そうよ!」
「学園長先生。その時間、私はどこにおりましたか」
「私の執務室です」
学園長の声は、拡声魔導具を通して広間の奥まで届いた。
「卒業行事の会計記録の引き継ぎをしていました。教員が二名、記録係も同席しています。ここへも私と一緒に来ました」
「その前よ! 私、時間を間違えたの!」
「では、何時ですか」
パウラは唇を開いたまま、私を見つめた。
新しい時刻を口にすれば、その時の居場所も尋ねられる。それくらいはわかったらしい。
「給仕した方はいらっしゃいますか?」
学園長の問いに、壁際の女性が手を挙げた。
「控室のお茶を担当しました。パウラ様はお一人で召し上がっていました。アグネス様のお姿は見ておりません」
「お姉様が後から来たのよ!」
「私どもは交代で、ずっと室内におりましたが……」
女性は困ったように同僚を見た。隣の給仕も、首を横に振る。
殿下の手が、パウラの肩から少し離れた。
「で、では、その赤いものは何なのだ! 血ではないと言うのか!」
医師は容器の周囲についた液体を確かめた。
「色だけでは何とも言えません。容器の中身を調べる必要があります。ご本人も別室で診察を」
「嫌! 私は何ともないわ!」
会場が静かになった。
パウラは自分の言葉に気づき、慌てて胸を押さえ直す。
「い、今は少し楽になっただけで」
「その容器、うちのです」
菓子を並べていた若い職人が、恐る恐る進み出た。
「舞台用の赤いシロップを持ち運ぶ容器で、底に店印があります。先日、パウラ様の侍女さんに、余興に使うからと頼まれまして」
騎士が容器の底を確かめる。
パウラの隣で控えていた侍女が、青くなった。
「お嬢様、私は、ただ余興に使うと……! こんなことになるとは!」
「黙りなさい!」
パウラが立ち上がりかけ、慌てて座り直した。
紅茶を飲まされたという証言は崩れ、隠していた容器と、その注文を知る者まで揃った。
法務官は一つずつ書き留めている。
私はパウラを見た。
「アドリブを入れるなら、せめて稽古をしてからになさい。倒れていたはずなのに、さっきからずいぶんお元気ですわね」
彼女が顔を歪める。
「だって、お姉様が悪いのよ!」
「何が?」
「いつも私ばかり馬鹿にして! 殿下だって、困るとお姉様に聞けと仰るし! いなくなるなら、ちゃんと嫌われてからいなくなってよ!」
叫び終えたパウラは、広間を見回した。
誰も同意しなかった。
私は閉じた扇を、両手で持った。
「あなたが好かれるために、私が嫌われて差し上げる必要はありません」
パウラの口元が震えた。
今度は、本当に泣きそうな顔だった。
「フーベルト殿下。双方から事情を伺います。別室へ」
法務官が促す。
殿下は動かなかった。周囲の視線から逃れるように顔を振り、それから私を睨みつける。
「貴様が、大人しく謝っていれば……!」
儀礼剣の柄へ手がかかった。
「無礼者! その口を閉じろ!」
刃が半ば抜かれた瞬間、ロルフ卿がその手首を押さえた。
金属の硬い音。剣が鞘ごと取り上げられ、近衛の騎士へ渡る。
私が息を呑んだ時には、もう殿下の腕は背中へ回されていた。
「痛っ、離せ! 俺は王子だぞ!」
「知ってる」
ロルフ卿の声から、いつもの笑いが消えていた。
「だからこそ、やっていいことと悪いことくらい、覚えとくべきだったな」




