第7話
壇上から五歩ほど離れたところで足を止め、私は一礼した。
「お呼びでしょうか、フーベルト殿下」
殿下は紙を握り締め、わざと大きく息を吸った。
「アグネス・フォン・ベルツ! 貴様の、私に対する高圧的な物言いは、伴侶として受け入れ難い! よって、本日をもって貴様との婚約を破棄する!」
破棄。
解消という台詞を変えたのは、自分から切り捨てたことにしたいからだろう。
けれど、こちらの目的は同じだった。
「承知いたしました。婚約解消をお受けします」
会場が静まった。
泣く者も、縋る者もいない。私は念のため、もう一度口を開いた。
「双方の署名した合意書に従い、殿下のお仕事の補佐も本日で辞退いたします。以後のご連絡は、王宮の法務官を通してくださいませ」
「う、うむ」
学園長の隣に控えた法務官が、書面を掲げた。
これで殿下にも父にも、口約束だったとは言わせない。
私はようやく、肩の力を抜いた。
「アグネス様、お気を落とされないで」
近くにいた令嬢が、困った顔で囁いた。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですわ」
本心だった。
父も継母も、会場の後ろにいる。父は不機嫌そうだったが、パウラが殿下の隣に立っているためか、こちらへ来る気配はなかった。
帰ったら、荷造りの続きをしよう。
裁縫箱だけは馬車へ積まず、自分で抱えていくのだ。
「お待ちください!」
壇上から声が飛んだ。
パウラが、殿下の腕を掴んでいる。
「これだけで済ませてしまって、よろしいのですか!?」
殿下が眉を寄せた。
彼女にも発言の筋書きは見せてある。ここで口を開く予定はない。
「お姉様は、私に謝ってもいません!」
「パウラ」
「皆様がお姉様を気の毒だと仰っているわ。ひどいことをされたのは私なのに!」
その声は、拡声魔導具に拾われていた。
私は扇を持ち直した。
気の毒な姉から婚約者を奪った妹。その見られ方に、彼女は耐えられないらしかった。
「何についての謝罪をお望みなの?」
パウラが私を睨んだ。
先ほどまで目元へ当てていたハンカチを、今度は口元へ押しつける。
「今日の夕方、控室でお姉様からいただいた紅茶を飲んでから、ずっと気分が悪くて。私、黙っていようと思ったの。でも……!」
彼女の膝が折れた。
殿下が慌てて身体を支える。その胸元に、赤い液体が滴った。
「パウラ!?」
「く、苦し……ごほっ!」
白いドレスにも、赤い染みが広がっていく。
間近にいた令嬢が悲鳴を上げた。
「血を吐いているわ!」
「医師を!」
ロルフ卿が壁際の騎士へ合図を送った。騎士が医務係のいる控え室へ走る。
別の騎士は、会場へ届いた封書を彼に差し出していた。ロルフ卿は封を確かめ、目を通すと、すぐ壇上の方へ歩き出した。
「アグネス、貴様……!」
フーベルト殿下が私を指差す。
「追い出される腹いせに、パウラに毒を盛ったのか!」
私は答える前に、学園長を見た。
老学園長も、険しい顔でこちらへうなずいた。
少なくとも、今日の私がどこにいたか知る者はいる。
「殿下。まずは医師の診察を」
「逃げるつもりか! その女を捕らえろ!」
殿下付きの護衛が動きかける。
その前に、近衛の騎士が間へ入った。
「診察と事実確認が先です。団長の指示に従ってください」
私は騎士の脇から、壇上を見た。
パウラは片手で胸を押さえ、もう片方の手をドレスのひだへ隠していた。
赤く汚れたハンカチの下から、小さな銀色の口金が覗いている。
さっきまで、そんなものは持っていなかったはずだ。
「パウラ。その手に、何を持っているの?」
彼女の肩が跳ねた。
私はため息をつく代わりに、駆けつけた医師へ道を空けた。
今度の芝居は、裾についたインクだけでは済まない。




