第6話
「……見ないでください」
「向こう、向いてりゃいいか」
ロルフ卿は本当に顔を背けた。
中庭の噴水だけを見つめている横顔が妙に真面目で、私は泣きながら腹が立った。
「そこまで露骨に避けなくても!」
「難しい注文だな!」
言い合った拍子に、しゃくり上げてしまった。
彼は何も言わず、私を回廊の奥へ連れていった。人の通らない長椅子に外套の裾を広げ、私が座るまで待っている。
腰を下ろすと、立っているよりずっと楽だった。
「パウラは、泣くのが上手なのです」
湿ったハンカチを握り、私は口を開いた。
「欲しいものがあると泣く。失敗しても泣く。そうすれば誰かが何とかしてくれると、知っていますから」
「お前は?」
「一度、母の形見を取られて泣いたことがあります。父に、姉のくせにみっともないと叩かれました」
頬を押さえた手の感触は、まだ覚えている。
「だから、泣いても無駄だと思いました。私が困った時に来てくれる人など、いませんでしたもの」
ロルフ卿は自分の膝に肘を乗せ、しばらく黙っていた。
「俺がお前の家で何があったか、全部わかるとは言えねえけどな」
包帯の端を指で撫でてから、こちらを見る。
「今、ここから追い払う気はねえよ」
私は唇を噛んだ。
ハンカチを目に当てる。押さえても押さえても、涙が染み出してくる。
隣で、彼が小さく衣擦れの音を立てた。
「背中、さすっていいか」
私はうなずいた。
大きな手が、そっと背中に置かれた。子供の頃に熱を出した夜のことを、ふいに思い出した。
ようやく涙が止まると、今度は顔が熱くなった。
「こんなに泣いたこと、誰にも言わないでくださいね」
「わかった」
「あと、私がこの先どう生きるかは、私が決めます」
「おう」
「勝手に父のところへ連れ戻したり、別の縁談を探したりなさらないで」
彼は少しだけ眉を寄せた。
「それはしねえ。俺の都合でお前を押しつける先を変えても、意味がねえだろ」
胸のつかえが、一つ下りた。
私は鞄から、もう一枚の紙を出した。
「舞踏会の翌々日から、職人街の部屋を借りるつもりです。手芸店にも、見本を持ち込む約束を取りました」
「ずいぶん準備してたんだな」
「夢を見るくらい、構わないでしょう」
家賃を書いた欄を、彼の指がなぞる。
「この辺なら知ってる。大家もまともだ。俺から一声かけようか」
「お願いしてよろしければ」
こんな頼み事なら、言えるのだと思った。
全部助けてと叫ぶ代わりに、紙のこの欄を見てほしい。あの人に会わせてほしい。それなら、喉につかえずに済んだ。
「もう一つ。第二王子家の仕事の報酬が、半年分、支払われていません」
殿下の式典事務を補佐する名目で、私は正式な委嘱状を受け取っていた。けれど振り込みを尋ねるたび、父から家計で預かると返されるだけだった。
婚約者の務めだと、私もそれ以上言わずにいた。
「働いた記録はあるか」
「全部」
「だろうな。そいつも法務官に渡そう」
ロルフ卿は紙を丁寧に畳んだ。
「窃盗の方も調べが進んでる。従者は殿下の命令で包みを入れたと話した。ただ、王族の身柄を押さえるには陛下の裁可が要る。証言と記録を揃えて、法務官から上げているところだ」
「それまで、殿下は自由なのですね」
「呼び出しには応じさせてるし、見張りもつけてる。お前と二人きりで会わせるつもりはねえ。舞踏会の件も、嫌なら書面だけで進められるぞ」
私は少し考え、首を振った。
「行きます。皆の前で縁が切れたと知っていただきたいのです。後から、私がまだ殿下に未練があるなどと言われたくありませんもの」
「なら、学園長にも立ち会ってもらう。何かあれば、すぐ止める」
彼はそこで、私の顔を覗き込んだ。
「腹は?」
「空きました」
「素直でよろしい」
笑われても、今度は言い返さなかった。
温かいスープが飲みたいと伝えたら、彼は近くの店へ連れていってくれた。
それから舞踏会までは、慌ただしく過ぎた。
近衛への証言、荷造り、引き継ぎ。肩の痛みが引いてから、借りたハンカチの頭文字を縫い直した。
返した時、ロルフ卿は布をしばらく眺めていた。
「読めましたが、気になりましたので」
「これ、使いにくくなったな」
「ハンカチです。使ってください!」
彼は笑って、胸の内側へしまった。
そして、卒業記念舞踏会の夜。
私は濃紺のドレスを着て、大広間へ入った。
学園長室で卒業行事の会計記録を引き継いでいたため、ぎりぎりの到着だった。控室へ寄る暇もなく、鞄を係の女性に預ける。
会場の端には、黒い礼装のロルフ卿が立っていた。
私が小さくうなずくと、彼も顎を引いた。
やがて楽団の演奏が止まった。
壇上のフーベルト殿下が、拡声魔導具の前に立つ。
「皆に聞いてもらいたい! アグネス・フォン・ベルツとの婚約についてだ!」
私は扇を閉じた。
これが済んだら、明日の朝は寝坊する。
そのために、最後の一仕事だった。




