第5話
翌日の放課後、第二王子の学内執務室で、私は机に紙の束を置いた。
「卒業舞踏会での発言案と、婚約解消の合意書です」
「ずいぶん分厚いな」
「大きな字で書きました。読み飛ばされると困りますので」
殿下が眉をひそめ、表紙をめくった。
婚約を解消すること。互いに復縁を求めないこと。私が第二王子家の仕事から退くこと。
後半には、壇上で述べる言葉を並べてある。
「『私に対する高圧的な物言いは、伴侶として受け入れ難い』。そこまでなら、殿下のお気持ちとして伺います。私は『承知しました。婚約解消をお受けします』と答えます」
「それでは、俺がただお前を嫌ったようではないか」
「違うのですか?」
殿下は紙をめくった。
「窃盗の疑いは」
「調査中です。新しい嘘を足せば、その発言も近衛に記録されますわよ」
昨朝連れていかれた従者は、まだ戻っていない。
殿下の手が止まった。
「パウラの台詞がないぞ」
「私たちの婚約の話ですから。そばにお立ちになるのはご自由ですが、泣き出す場所まで指定しないといけませんの?」
殿下は咳払いをした。
私は最後の頁を開く。
「王室の婚約を解く承認と、ベルツ家を離れる手続きは、王宮の法務官に預けます。父の同意書はこちらです」
「伯爵が、よく署名したな」
「パウラを次の婚約者にしたいのでしょう。私が家から出ていけば、都合がよいようです」
昨夜、父はろくに私を見ずに署名した。
継母は、持ち出してよい荷物は自分で買ったものだけだと言った。私は母の形見の裁縫箱を指し、これも私のものです、と返した。
それ以上は、話さなかった。
「王子妃になれる身分を捨てて、どうする」
「刺繍の仕事を探します。帳簿の清書もできますし、当面の生活費は貯めてあります」
「食い詰めて戻ってきても、知らぬぞ」
「戻らなくて済むよう、そちらの合意書にご署名を」
殿下は苛立った手つきで署名した。
その下に私も名を書き、二通の片方を受け取る。
「では、舞踏会で。台詞を勝手に増やさないでくださいませ」
扉を閉めると、中から紙を叩きつける音がした。
私は足を止めずに歩いた。
中庭へ出たところで、冷たい風が首元を抜けた。
たった今まで、私は誰に何を言われても平気だったはずなのに。
鞄から合意書と父の同意書を出して、もう一度署名を見る。
捨ててやると言われるより、自分から捨てる方が楽だと思っていた。二人の署名を見比べると、そう単純でもなかった。
「終わったか」
ロルフ卿が、回廊の柱から身を起こした。
「ええ。こちらを法務官へ。お約束した写しです」
差し出した指が震えた。
紙を受け取った彼は、その震えを見た。何か言うかと思ったが、黙って自分の外套を外し、私の肩へ掛ける。
「風邪を引きますわ。卿が」
「俺は歩けば温まる。お前、さっきから同じ場所に立ってたぞ」
言われて初めて、足が動いていなかったと気づいた。
私は外套の前を掴んだ。羊毛と革の匂いがする。
「おかしいですわね。せいせいすると思ったのに」
ロルフ卿は、ベンチを指した。
「座るか」
「座ったら、立てなくなりそうです」
「じゃあ、ここにいる」
それだけ言って、彼は隣に立った。
早く泣きやめとも、もう忘れろとも言われない。だから、言わずに済ませるつもりだった言葉が口をついて出た。
「父は、引き止めませんでした」
外套の留め金がぼやける。
「家を出たいと言ったのは私です。引き止められたら困るのも、わかっています。でも、ひと言くらい……」
残念だと言ってほしかった。
娘がいなくなるのは寂しいと、ほんの少しでも思ってほしかった。
「完璧でいれば、大切にしてもらえると思っていたのです。馬鹿みたいでしょう」
「馬鹿とは思わねえよ」
「だって、誰も。あんなに頑張ったのに、誰も私を」
言い切る前に涙が落ちた。
ロルフ卿がハンカチを差し出しかけて、手を止める。
「そういや、ハンカチはお前に貸したままだな」
私は鞄から、洗って畳んでおいた白い布を出した。
返すつもりだったのだ。端の、不揃いな頭文字を直してから。
「針は持っておりません。まだ、元のままです」
「今、それを申告すんのかよ」
困ったような声で笑われて、私の口元も少しだけ緩んだ。
けれど、涙は止まらなかった。




