第3話
「壊れてる?」
「蝶番の留め具が緩んでいるのです。鍵をかけても、扉を少し持ち上げれば開きます。修理の申請は出してありますわ」
手当を終えたロルフ卿は、包帯の巻かれた手を軽く動かした。
「申請の控えは?」
「鞄の中です」
「借りていいか。学園側の受付記録と合わせたい」
私は紙を取り出し、彼に渡した。
ロルフ卿は日付を確かめると、そばにいた騎士へ短く指示を出した。騎士が走っていく。
昨日まで、こういう用事も全部私が自分で片づけていたのだ。
ぼんやり見送っていると、油紙の端を指でつつかれた。
「その間に食え。冷めるぞ」
私は廊下の椅子に座り、アップルパイをかじった。
薄い皮がさくりと崩れ、リンゴの酸味が広がる。まだほんのり温かい。
もう一口食べてから、隣に座るロルフ卿を見た。
「殿下は、私を牢へ入れたいのでしょうか」
「本人に聞いてみねえとな」
「人前で頭を下げさせたいのだと思います。パウラを庇って、私を追い払った英雄になりたいのでしょう」
「そうだとしても、窃盗の言いがかりは放っておけねえ。明日は一人で相手にするな」
私はうなずいた。
パイの屑が膝に落ちる。慌てて払うと、ロルフ卿が自分のハンカチを広げた。
「ほら、下に敷いとけ」
「汚れますわよ」
「洗う」
あまりにあっさり言われて、返す言葉がなくなった。
白い布の端には、不揃いな糸で名前の頭文字が縫いつけてあった。
「ご自分で?」
「兵舎じゃ同じような布ばかり使うからな。目印だ」
「糸を引きすぎです。ここ、布がつれています」
「読めるだろ」
「読めますけれど」
直したくて指がむずむずする。彼はそれを見て、笑いながらハンカチを私の膝に置いた。
「今日は針を持つなよ。医者に言われただろ」
笑われたのに、不思議と腹は立たなかった。
パイを食べ終えるまで、誰にも何も頼まれなかったからかもしれない。
「いつも、そんなふうに人の世話をなさるの?」
「世話を焼かれるのが嫌いな新兵は、放っとくと無茶をするんだよ」
「私は新兵ではありません」
「似てるとこはある」
私は油紙を畳んだ。
「家では、できないと言うと余計に叱られました。母の娘ならこの程度もできないのか、と」
ロルフ卿は黙った。
つい、言葉が続いた。
「母は私が幼い頃に亡くなりました。覚えていることも少ないのに、あの人ならできた、あの人なら泣かなかったと言われるのです。できるまでやるしかないでしょう」
指先で、油紙の折り目を強く押さえる。
こんな話をするつもりではなかった。
「忘れてください。つまらない話です」
「お袋さんは、パイを食う時まで背筋を伸ばせって言ったか?」
思いがけない問いに、私は顔を上げた。
記憶の中の母は、庭でこっそり焼き菓子を分けてくれた。父には夕食前だと叱られるから、二人だけの内緒だと笑って。
「言いませんでした」
「なら、今はそのつもりで食えばよかったな」
「もう食べ終わりましたわ」
「また買ってくる」
簡単な約束だった。
なのに私は、畳んだ油紙をすぐには捨てられなかった。
翌朝、学園の昇降口には人だかりができていた。
先頭はフーベルト殿下。隣にはパウラ、その後ろには殿下の従者が控えている。
「来たな、アグネス! 昨日、宝物庫から『星屑の羅針盤』が盗まれた! 貴様がこのロッカーに包みを隠していたとの目撃情報がある!」
貸し出されたばかりの王室の宝物だ。周囲にざわめきが走る。
「目撃したのは、どなたですか?」
「今はそれを話しているのではない! やましくないなら開けてみろ!」
「その前に」
ロルフ卿が人垣を割って進み出た。今日は部下を二人連れている。
「捜索は近衛が行います。発見物には、どなたも手を触れぬよう」
「なぜ団長が来る!」
「王家の宝物の事件でしょう」
殿下は口を閉じた。
私は鍵を渡す代わりに、扉の下端へ指をかけた。軽く持ち上げると、鍵を回さないまま扉が開く。
中には紫の布包みがあった。
「ほら見ろ! 盗品が出たぞ!」
部下の騎士が布越しに持ち上げる。包みを机に置き、学園長の前で開くと、青い宝石のついた羅針盤が現れた。
私は包みより、殿下の顔を見ていた。
「殿下。今、私が鍵を使わずに開けたところをご覧になりました?」
「それが何だ!」
「先週から、誰でも開けられる状態でした。修理申請も残っています。ここにあっただけでは、私が入れた証拠にはなりません」
学園長が、受付印のある紙を掲げる。
周囲のざわめきが変わった。
パウラは従者の袖を引いた。従者は振り向こうとしない。
「それから、その包みです」
私は机の端からはみ出した、紙の札を示した。
「盗まれたにしては、ずいぶん丁寧な持ち出し方をなさいましたのね」




