第14話
「その部屋は、すでに別の使節へお約束しています。こちらの名簿を確認してください!」
建国祭まで、あと一週間。
復帰したばかりの頃は何度も口にした注意も、今は減っていた。担当官が、私に尋ねる前に名簿を確かめるようになったのだ。
「こちらへ移っていただく場合、馬車の手配も変更が必要ですね」
「そうです。先方へお詫びする文面も、併せて考えてください」
机へ向かう彼の背中を見送り、私は自分の分の書類を閉じた。
何でも私がやれば早い。それで全部抱え込んだ結果が、あの寝不足だった。
今度は、担当者が書いたものを確認して返す。
夕方になれば、帰る。
最初の日、呼び止めかけた尚書も、私が時計を示すと頭を下げた。
「続きは明朝に」
「お願いいたします」
王宮の門の外で、ロルフが待っていた。
勤務の終わる時間が合う日は、一緒に帰ることにしている。
「今日はどうだった」
「同じ部屋に二組泊める問題は、解決しました」
「そいつはよかった」
「卿は?」
「新兵が礼装の襟を留められなくてな。五人並べて、やり直しだ」
私は笑った。
私たちの話は、だいたいそんなことばかりだった。
今日は何を食べるか。手芸店に新しい糸が入った。大家の膝の調子はどうか。
事件の話をしなくても、帰り道は短く感じた。
建国祭の当日、私は来賓控室の隅で、最後の確認を終えた。
食事の制限がある客へ別の皿が運ばれ、到着の遅れた使節も無事に席へ案内される。
小さな行き違いはあった。けれど、担当官たちは名簿と連絡票を持って、自分たちで対処していた。
私は立ち上がりかけた腰を、椅子へ戻した。
出番がないなら、それでいい。
式典が終わり、約束の報酬を受け取った。
新しい尚書になる予定の官僚から、継続して働かないかと尋ねられたので、私は笑顔で断った。
「刺繍の注文がございますので。必要な時は、また条件をご相談ください」
書類に受領の署名をした。
今度のお金は、最初から最後まで私のものだった。
裏庭へ出ると、夕日がバラの垣根を照らしていた。
ロルフが門のそばに立っている。いつもの軍服だったが、襟元が妙にきっちり整っていた。
「お待たせしました」
「終わったか」
「ええ。帰ったら、大家さんも誘って何か美味しいものを」
「その前に、少しいいか」
私は足を止めた。
彼は私の顔を見て、懐へ手を入れた。その手が一度止まり、また動く。
「ロルフ?」
小さな箱が出てきた。
開かれた中に、青い石の指輪が見える。
彼が片膝をついた時、私はようやく息を呑んだ。
「アグネス。俺と結婚してくれ」
胸が、どくんと鳴った。
返事をしようとしても、声が出ない。
ロルフはそれを迷いと受け取ったらしく、慌てて言葉を続けた。
「急がせる気はねえ。店を持ちたいって話も、そのまま進めてくれ。俺の仕事を手伝えとか、伯爵夫人だから何をしろとか、そういうつもりで言ってるんじゃなくて」
「はい」
「一緒に暮らしたい。朝、壁を叩かずに、おはようって言いてえ」
私は口元へ手を当てた。
想像してしまったのだ。
寝癖をつけた彼が台所に立ち、私が味見をし、塩を入れすぎだと文句を言う朝を。
「嫌なことがあった日に、隣の部屋で一人で考え込まれると、気になる。嬉しいことなら、真っ先に聞きてえ。お前がそれでいいなら、これから先も」
箱の蓋が、かすかに揺れた。
私はそれを見つめた。
「卿、手が震えています」
「当たり前だろ。断られたらどうすんだ」
いつもの大きな声だった。
私はとうとう笑ってしまった。ロルフが恨めしそうに見上げるので、慌てて首を振る。
「ごめんなさい。嬉しいのです」
両手を伸ばして、箱を持つ彼の手を包んだ。
「口説くなら、もっと堂々となさいませ。私が、あなたと朝食を取るのをどれだけ楽しみにしているか、ご存じでしょう?」
彼の目が見開かれた。
今度は、ちゃんと声にできた。
「喜んで、お受けいたします」
ロルフはすぐには動かなかった。
私の顔を見て、もう一度返事を確かめるように、指先へ視線を落とす。
「本当か」
「二度も言わせるおつもり?」
「いや。言ってほしい気もする」
私は笑った。
「あなたが好きです。ロルフの奥さんに、なりたいです」
彼はようやく息を吐いた。
その顔を見たら、今度は私まで泣きたくなった。
差し出した左手に、指輪が通る。
青い石が夕日を受け、深く光った。
指を動かすと、石が少し横へ回った。
「少し、大きいですわね」
「そうか。悪い、店じゃ直せるとは言われたんだが」
「では、明日二人で直しに行きましょう。抜けてしまったら大変です」
ロルフが、ほっとした顔でうなずいた。
私は指輪を一度外し、彼の手へ戻す。
「それまでは、預かっていてください。直ったら、もう一度はめていただきますから」
「何度でもやる」
立ち上がったロルフが、私の頬へ手を添えた。
「キスしていいか」
私は答える代わりに、少しだけ背伸びをした。
触れた唇は思っていたより柔らかく、彼の手はまだ緊張していた。
離れてからも、顔を上げられなかった。
「帰るか」
「少し、待ってください」
軍服の胸元を掴む。
ロルフが動きを止めたので、私はその胸に額を預けた。
「もう少し、このまま」
背中へ、腕が回った。
「いくらでも」
庭を抜ける風にバラの葉が揺れた。
私は目を閉じたまま、彼の上着をもう少しだけ強く握った。




