最終話
香ばしい匂いで、目が覚めた。
カーテンの隙間から朝の光が差している。時計を見ると、もう八時だった。
私は掛け布団を鼻まで引き上げた。
「あと、少しだけ」
「さっきも聞いたぞ、それ」
扉の向こうで、ロルフが笑った。
結婚して三か月。職人街に借りた小さな家には、彼の声がよく響く。
「朝食は?」
「できてる。卵を焼くのは、お前が起きてから」
私は布団の中から片手を出した。
「起きます」
「それ、毎回俺を呼ぶ合図になってねえか」
「気のせいですわ」
大きな手が、私の手を取った。
そのまま身体を起こしてもらい、ベッドの縁へ座る。ロルフが屈んだので、寝癖のついた頭のまま頬へキスをした。
「おはようございます」
夫は一瞬黙り、それから私の額へ唇を押し当てた。
「おはよう」
台所へ向かう彼の耳が、少し赤い。
私は声を出さずに笑った。
朝食は焼いたパンと卵、ベーコン、それに昨夜のスープだった。
私は一口飲み、うなずいた。
「今日は、ちょうどいい塩加減です」
「今日は、は余計だ」
「それから、玄関の軍靴について」
「そっちは食後にしようぜ」
「昨夜、片方が廊下の真ん中にありましたわよ! 暗かったら転びます!」
ロルフは素直に謝った。
珍しいと思ったら、私の方へパンを差し出してくる。
「お前の糸巻きも、寝台の下に転がってた」
「えっ」
「踏むと痛えんだよ、あれ」
私はパンを受け取った。
「片づけます」
「よろしい」
彼が私の口調を真似たので、足先で軽く小突いてやった。
食後、私は店の窓を開けた。
家の通り側の一室を、刺繍の工房にしている。看板には『アグネス刺繍工房』と、ロルフが少し不揃いな字で書いてくれた。
直しましょうかと聞いたら、読めるだろ、と返された。
確かに読めるので、そのまま掛けてある。
手芸店を通した仕事に加え、最近は直接注文に来る人も増えた。
お祝いのハンカチ。子供の晴れ着。大事に着てきた服のほつれ直し。
受けられる分だけ引き受け、間に合わなければ先にそう伝える。それで離れていく客は、思っていたほど多くなかった。
伯爵夫人になったから店を閉めるのかと聞かれた時は、笑って首を振った。
家名のある名刺は、必要な席で使えばいい。
この通りでは、私はアグネスのままでよかった。
大家だった女性が、焼き立てのパンを抱えて顔を出した。
「新婚さん、ちゃんと仕事してるかい?」
「もちろんです! ご注文の襟飾りも、あと少しで」
「急がなくていいって言っただろう。お祭りは来週だよ」
机の端にパンを置き、彼女は私の左手を見て笑った。
指輪のことをからかわれる前に、お茶を淹れる約束をして追い返す。
戸口で入れ違ったロルフが、愉快そうに肩を揺らした。
「俺の時より、扱いが雑じゃねえか?」
「あの方は、油断すると一日中ここにいらっしゃいますから」
「賑やかでいいだろ」
「ええ」
答えてから、私も笑った。
ロルフは今日も仕事だ。
襟元が少し折れていたので、私は手を伸ばして直した。胸元には、あのハンカチが入っている。
使って洗ってを繰り返し、縁の糸は少し薄くなっていた。
「そろそろ、新しいものを縫いましょうか」
「これでいい」
「気に入ってくださるのは嬉しいですが、穴が開いてからでは遅いですわよ」
「じゃあ、もう一枚頼む。これは捨てねえ」
胸の奥がくすぐったくなった。
私は襟を直すふりで、もう少しだけ彼に触れていた。
「何だよ」
「別に」
「別にって顔じゃねえな」
覗き込まれたので、顔を上げた。
「今日、早く帰れます?」
「夕方には。何かあるか」
「アップルパイを焼こうと思っています」
ロルフの顔が明るくなった。
「そりゃ、遅れられねえな」
「失敗するかもしれませんわよ。お菓子は、刺繍ほど上手ではありませんから」
「焦がしたら、端っこを俺に寄越せ」
「半分にします。私も食べたいですもの」
彼は笑って、私の腰へ腕を回した。
額へ、頬へ、それから唇へ。
朝から甘やかしすぎだと文句を言うつもりだったのに、私も彼の袖を掴んでしまった。
「アグネス」
「はい」
「好きだぞ」
何度言われても、少し困る。
嬉しい顔を隠すのが、以前よりずっと下手になった。
「私もです。だから、無茶をせず帰ってきてくださいね」
「約束する」
腕がほどける。
私は机へ戻り、今日の仕事の予定を書こうとした。インク壺の蓋を開けると、戸口にいたロルフが振り返った。
「そういや、最初もインクだったな」
「嫌なことを思い出させないでください」
「あの時は、まさかお前が俺の嫁になるとはな」
「私だって、笑っていた男と結婚するとは思いませんでしたわ」
彼が吹き出した。
私はペンを置き、もう一度そばへ行った。
差し出された手へ、自分の手を重ねる。最初に会った時と同じ、傷の多い大きな手だった。
「あなた、私を甘やかすのがお上手になりましたね」
「まだ足りねえくらいだ」
「では、帰ったら続きを」
ロルフは私を抱き寄せ、耳元で笑った。
「いってくる。俺の悪役令嬢」
「その呼び方、気に入っていらっしゃるの?」
「嫌か?」
私は彼の胸元をつついた。
今度は、あの頃のように腹を立ててはいなかった。
「私を悪役にするなら、もっと上手くやってください」
少しだけ背伸びをして、自分から唇を重ねた。
「こんなに幸せでは、誰も信じてくださいませんわ」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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