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私を悪役にするなら、もっと上手くやってください  作者: 九葉(くずは)


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第11話

「そこ、滑るぞ。壁につかまってろ!」


 ロルフは洗面台の奥へ腕を伸ばし、壁際の栓を回した。

 水の勢いが弱まり、やがて細く途切れる。

 私は濡れた髪を顔から払い、ようやく息をついた。


「止まった……」

「継ぎ目が外れてる。こりゃ大家に見てもらわねえと」


 階段を上がってきた大家が、床を見て額に手を当てた。


「ああ、下の部屋と同じところだね。昨日、配管屋を呼んでおけばよかった」

「私、捻りすぎました?」

「そんなことで外れるようじゃ困るよ。ごめんね、すぐ手配するから」


 大家は階下へ声をかけ、古い布を集め始めた。

 私もしゃがもうとしたが、ロルフに肩を止められる。


「お前は着替えろ。震えてる」

「でも、床を拭かないと。刺繍も濡れて」


 椅子の上の包みまで水が飛んでいた。

 慌てて開くと、見本の布は端まで濡れている。何度もやり直して、ようやく納得できた花柄だった。


「あ……」


 手芸店の主人は、今日ならゆっくり見られると言ってくれた。

 濡れた布では持っていけない。乾いても染みが残るかもしれない。

 私はその場に立ち尽くした。


「貸せ」


 ロルフが受け取ろうとするので、思わず引き寄せる。


「引っ張らないでください。糸が」

「わかった。どこを持てばいい?」


 彼の手が止まった。

 私は布の端を示す。


「ここを。絞らず、乾いた布で挟んで」

「布はどこだ」

「棚の二段目です」


 彼は私の言った通りにした。

 たったそれだけで、少し呼吸がしやすくなった。


「部屋のことは任せときな。着替えたら、こっちで温かいものでも飲んで」


 大家が隣室を指した。ロルフも、無言でうなずく。

 私はようやく着替えを取り出した。


 乾いた服に替え、ロルフの部屋へ行くと、彼もシャツを着ていた。

 当然のことにほっとしてしまい、腹が立つ。

 小さなストーブのそばへ椅子を寄せてもらい、毛布を膝に掛けた。


「一人で暮らせると、偉そうに言ったばかりですのに」


 濡れた髪を拭きながら呟くと、ロルフは湯を沸かす手を止めた。


「配管まで一人で直せるとは、言ってなかったぞ」

「水が出てきたくらいで、大騒ぎして」

「呼んだから止まったんだろ」


 私はタオルを口元まで引き上げた。

 隣から、大家と配管屋が話す声がする。壊れた金具を交換すると言っている。

 私を叱る声ではなかった。


「大家が手芸店まで事情を伝えに行ってくれた。店の方は、見本は乾いてからでいいってさ」

「そこまでしていただいて、申し訳ありません」

「お礼は後で言え。まず、それ飲め」


 生姜と蜂蜜の香りがする湯を渡された。

 一口飲むと、冷えていた指先がじんじんした。

 ロルフは向かいに座り、布に挟んだ刺繍を覗き込む。


「これ、売るのか」

「注文を取るための見本です」

「こっちの小さい花、ハンカチのやつと同じだな」


 縫い直した頭文字の横に、一輪だけ添えた花のことだった。


「よくお気づきになりましたね」

「毎日見てるからな」


 私はカップを持ち上げすぎて、鼻先に湯気を浴びた。

 ロルフが笑う。私は、熱かっただけです、と言い訳した。


 昼過ぎには床も片づき、配管の修理も終わった。

 私は大家に礼を言い、自室へ戻った。少し身体が重かったので、その日は針を持たずに横になった。


 夕方、目を覚ますと、ひどく寒かった。

 毛布を重ねても震えが止まらない。喉が渇いて起き上がろうとすると、床が傾いたように見えた。


「ロルフ……」


 声が掠れて、扉まで届かない。

 私は枕元の壁を叩いた。朝、何かあれば壁を叩けと言われていたのだ。

 隣で椅子の動く音がした。


「アグネス?」


 すぐに足音が来て、扉が叩かれる。


「具合が悪いのか。開けられるか?」

「無理、です」

「大家を呼ぶ。合鍵で開けていいな?」


 返事をすると、ほどなく鍵が回った。

 大家の顔と、その肩越しに覗き込むロルフの顔。

 額へ手が触れた。


「熱があるね。医者を呼んでくるよ」


 大家が出ていく。

 私はロルフの袖を掴んだ。指に力が入らなくて、布をうまく握れない。


「ごめんなさい。今日は、何もできなくて」

「何をする気だ。寝てろ」

「夕食、昨日のお礼を」


 ロルフはベッドのそばへ椅子を引いた。


「礼なら聞いた。飯は元気になってから、一緒に食おう」


 私の手を袖から外し、毛布の中へ戻そうとする。

 私はもう一度、その指を掴んだ。


「行かないで」


 声に出してから、慌てた。

 こんな頼み方をしてはいけない。困らせる。重いと思われる。

 けれど、彼は椅子を少し近づけただけだった。


「医者が来るまで、ここにいる」


 私は目を閉じた。

 手は、離されなかった。

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