第10話
「一国の近衛騎士団長が、なぜ私の隣に住むのです!」
私が尋ねると、ロルフ卿は担いでいた袋を下ろした。
「嫌なら、別の宿にする。まだ荷物は入れてねえ」
隣室の扉は開いていた。
大家が、にこにこと私を見ている。その顔は、話がまとまるまで待つつもりの顔だった。
「王宮のお仕事はどうなさるの」
「ここからなら走って通える。夜の当番の日は詰め所に泊まる。そもそも借りる場所は、勤務に差し支えなけりゃ自由だ」
「伯爵様のお住まいには、手狭ではなくて?」
「兵舎より広い」
妙に納得してしまった。
けれど、まだ聞きたいことがある。
「私に、護衛が必要なのですか」
「事件の関係者が接触する可能性はある。しばらく巡回を増やすのは近衛の仕事だ。俺がここを借りたいのは、別の話」
「別?」
ロルフ卿は大家をちらりと見た。
大家はますます楽しそうに笑っていた。
「お前が飯を食ってるか、気になる。昨日、手芸店で昼を過ぎても粘ってたろ」
「見本の相談をしていたのです!」
「知ってる。店の前で会った時も、そう言ってた」
私は唇を結んだ。
顔を合わせると安心することは、まだ認めたくなかった。
「勝手に部屋へ入らないこと。私の生活に、あれこれ口を出さないこと」
「おう」
「食事を取ったかどうか、毎回尋ねないこと」
「それは相談だな」
「そこも即答なさい!」
大家が声を上げて笑った。
私もとうとう笑ってしまい、彼はそれを見てから荷物を運び込んだ。
夕方、引っ越しの挨拶だと言って、ロルフが鍋を持ってきた。
非番の日にまで卿と呼ぶなと言われたので、そう呼ぶことにしたのだ。口にするたびに少し落ち着かない。
「これは?」
「鶏のスープ。こっちは市場の焼き鶏」
「一人分ではありませんわね」
「二人分だ。食うか?」
私は食卓から刺繍の布を片づけ、椅子をもう一脚引いた。
「パンなら、あります」
スープは少し塩が濃かった。
けれど、じゃがいもは柔らかく、鶏の脂が浮いた汁はひどく美味しかった。二杯目をよそう私を見て、ロルフは満足そうにパンをちぎった。
「王宮から金が戻るそうだな」
「ええ。私の報酬を、父が受け取っていたことが確認されましたので。差し押さえた口座から返すと」
昼間、法務官から届いた通知を見せた。
未払い分のうち、支払いの経路が確定した額は先に返還される。全部ではないが、半年ほど暮らせる。
「ですから、しばらく有給休暇です」
「辞めたんだから、休暇じゃねえだろ」
「気分の問題ですわ。今まで休めなかった分を、まとめて頂戴します」
ロルフは笑った。
王宮の様子も少し聞いた。殿下とパウラはそれぞれ別の場所で拘束され、父と継母の金の流れも調べられているという。
「建国祭は、どうなっておりますの」
「第二王子家が担当してた来賓の接遇で揉めてる。お前の引き継ぎ帳はあるんだが、殿下が勝手に増やした招待と支出が、帳簿に合わねえらしい」
「だから、変更は記録するようにと、あれほど」
私はスプーンを置きかけた。
ロルフが鍋を持ち上げる。
「おかわりは?」
その顔を見て、私はスプーンを取り直した。
「少しだけ」
建国祭は、まだ二か月近く先だ。
私が今夜、徹夜で帳簿を作り直す必要はない。
食事を終えると、私は二人分の皿を洗った。
ロルフが手を出しかけたので、布巾を渡す。
「作っていただいたのですから、洗うのは私です」
「肩は?」
「もう痛みません。重い鍋はお願いします」
彼は素直に鍋を引き受けた。
小さな台所に二人で立つのは狭かった。肘が触れ、私が避けると彼も同じ方へ動く。
「そっちじゃねえ」
「先に言ってください!」
食器棚へ皿をしまうだけで、やけに時間がかかった。
翌朝、私は手芸店へ出す刺繍の見本を包んでいた。
洗面台で手を洗い、蛇口を閉めた瞬間、足元で嫌な音がした。
がたん、と配管の継ぎ目が外れた。
水が壁へ吹きつけ、床へ広がる。
「えっ、ちょっと、待ちなさい!」
蛇口を捻り直しても止まらない。私は布で押さえようとして、頭から水を浴びた。
そんなことで塞げる量ではなかった。
「ロルフ! 大家さん! 水が!」
扉を開けて叫ぶ。
隣から飛び出してきたロルフは、顔を洗っていたらしく、シャツを着ていなかった。
「どこだ!」
「洗面台の下です! でも、その前に服を!」
彼は私の横をすり抜け、濡れた床へ膝をついた。
服の順番は、今ではないらしかった。




