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第3話 監査官は蜜柑を剥く

「質問は三つです」


黒い監査服の男は、リズの机に座っていた。


右手には、ヴォス公爵の婚姻記録。


左手には、蜜柑。


中央収容院へ向かうため王宮へ必要な書類を取りに戻ったリズは、扉を閉めることも忘れて立ち止まった。


ノアの仮台帳が焼かれるまで、あと七時間四十二分。


そのうち何分を、この男に奪われるのか。


「婚姻監査局のカイです」


男は名乗り、蜜柑のへたへ親指を入れた。


背が高く、座っていても机が小さく見える。黒い監査服は、今しがた仕立て屋から届いたように皺一つなかった。


ただし、こんな時刻まで仕事をしている人間らしく、目の下には薄い影がある。


「リズ・ノル戸籍官。閉庁後の執務室へ入る場合は、入室記録を残してください」


「残しました」


机の端に、監査局の入室票が置かれていた。


時刻、目的、閲覧対象。


必要事項がすべて埋まっている。


署名欄の下には、使用した椅子の番号まで書かれていた。


リズはその票を見て、少しだけ嫌な予感がした。


規則を守る人間には二種類いる。


規則に書かれたことだけをする人間。


そして、規則に書かれていることをすべてする人間。


目の前の男は後者だった。


「第一の質問です」


カイは蜜柑の皮を剥き始めた。


皮は途中で切れず、細い一本の螺旋になって机へ垂れていく。


「昨夜、閉庁の鐘が鳴った時、あなたはどこにいましたか」


答えは分かっているはずだった。


窓口の勤務記録を見ればよい。


「婚姻課の第三窓口です」


「一人で?」


サラの顔が浮かんだ。


これは最初の質問への確認なのか、二つ目なのか。


リズは数えた。


「質問は三つでは」


「一つ目に付随する確認です」


カイは蜜柑から目を上げなかった。


「一人で?」


「相談者が一名いました」


「サラ・ヴォス公爵夫人ですね」


リズは答えなかった。


カイは否定されなかったことを記録するように、婚姻票の余白へ短い線を引いた。


蜜柑の皮はまだ切れていない。


「第二の質問です」


カイは続けた。


「ヴォス公爵には、サラ夫人との婚姻以前に、正式な妻がいましたか」


台帳には、いたと書かれている。


事実としては、いなかった。


「記録上は、存在します」


リズは答えた。


「記録については聞いていません」


「婚姻監査官が婚姻記録以外の何を確認するのですか」


「事実です」


カイが初めて顔を上げた。


灰色がかった目だった。


声を荒らげてはいない。睨んでもいない。


ただ、答えが出るまで次へ進まない目をしていた。


「ヴォス公爵には、先妻がいましたか」


リズは喉の奥が固くなるのを感じた。


書類であれば、いくらでも答えられる。


婚姻年月日も、式を挙げた教会も、証人二名の名も書いた。


三十年前に存在したと証明する一式を、彼女自身が完成させた。


だが、人の目を見ながら、いなかった者をいたとは言えない。


「証明に必要な三条件は満たされています」


「質問を変えます」


「それで四つになります」


「二つ目を、あなたが答えられる形へ直しているだけです」


カイは蜜柑を一周させた。


「あなたは、ヴォス公爵に先妻がいたと信じていますか」


リズは黙った。


答えは、沈黙の中に出てしまった。


カイはまた短い線を引いた。


二本目だった。


「第三の質問です」


蜜柑の皮は、あと半分ほど残っている。


「この紙を、どこで手に入れましたか」


カイが掲げたのは、昨夜リズが使った七つ穴の用紙だった。


台帳から外され、証拠保全用の透明板に挟まれている。


「婚姻課の遡及訂正用紙の束に入っていました」


「受け取った時点で、通常用紙と穴の数が違うことに気づきましたか」


「気づきました」


「管理番号が削られていることにも?」


「気づきました」


「廃版印も、所属印も、移管印もないことには?」


「気づきました」


カイの手が止まった。


蜜柑の皮は、まだ切れていない。


「それでも使用した」


「質問は三つまででは」


「今のは確認です」


「確認が多いですね」


「あなたの回答が少ないので」


正しい指摘だった。


リズは反論をやめた。


カイは蜜柑を剥き終えた。


橙色の皮が、一本の螺旋になって机の上へ落ちている。


途中で一度も切れていない。


カイは実を一房ずつ分けながら、机に並べた。


三房。


三つの質問と同じ数だった。


「閉庁後、あなたはサラ夫人と窓口に残った」


一房目を指で押す。


「実在しない先妻の記録を受理させた」


二房目。


「出所不明で、管理番号を削られた特殊紙を、異常に気づきながら使用した」


三房目。


「以上で、私の質問は終わりです」


「結論は?」


「あなたが婚姻記録を偽造した」


あまりに簡単に言われた。


公爵の力でも、教会の癒着でも動かなかった婚姻を、一夜で壊した偽造だった。


文書。


印章。


社会的証人。


三つの条件を完全に揃えた。


それでも、カイは三つの質問でリズへたどり着いた。


「証拠は、私の受け答えだけですか」


「いいえ」


カイは透明板を魔法灯へ向けた。


「一つ目。七つ穴」


光を通すと、普通の用紙より複雑な魔法式が紙の内部へ走っているのが見えた。


「婚姻課の現行用紙は四つ穴です。七つ穴の用紙を使用する規定は、現行法にも廃止法にもありません」


カイは透明板を下ろした。


「二つ目。青インク」


紙の左下を指す。


「署名欄の表面だけが乾き、繊維の内部には水分が残っています。三十年前の原本では起こりません。保存魔法をかけたのは、昨夜です」


リズの左親指には、まだ青い染みが残っていた。


カイはそこを見たが、指摘はしなかった。


必要以上の証拠を並べない男らしい。


「三つ目。受理時刻」


監査票を開く。


「先行婚姻の受理時刻は、閉庁後の第六鐘十二分。遡及記録なので、本来なら過去の日付だけが台帳へ反映されます。しかし昨夜の変更履歴には、現在時刻が刻まれている」


「それだけなら、記録修復の可能性もあります」


「あります」


カイは即座に認めた。


「だから、あなたへ質問しました」


証拠があるから犯人と決めつけたのではない。


証拠から複数の可能性を残し、そのうち一つずつを質問で消した。


最後に残ったのが、リズだった。


「公爵夫人に強要されましたか」


カイが尋ねた。


四つ目の質問だった。


先ほどとは声が違った。


罪を確かめるためではない。


誰の罪なのかを分けるための質問だった。


「いいえ」


リズは答えた。


「夫人は、夫を殺したいと言いました。婚姻を偽造してほしいとは頼んでいません」


「脅迫は?」


「ありません」


「報酬は?」


「受け取っていません」


「では、あなた一人の判断ですか」


「はい」


今度は、喉が固くならなかった。


事実だったからだ。


カイは小さく息を吐いた。


追及が終わった安堵ではない。


最も重い答えが出てしまった時の息だった。


「では、順番に」


彼は監査服の内側から、黒い報告票を取り出した。


その中央には《緊急不正受理》と印刷されている。


「婚姻原本の偽造。公印の不正転記。死亡者二名の署名盗用。権限外の遡及訂正。出所不明用紙の使用。現時点で確認できるのは五件です」


「三件だと思っていました」


「昨夜の時点での数え方が甘かったようですね」


「勉強になります」


「次に生かさないでください」


カイは報告票へ日時を書き始めた。


この票へ監査印が押されれば、王宮警備局へ即時通報される。


リズは拘束される。


婚姻課は封鎖。


ヴォス公爵の記録は証拠として凍結される。


サラの婚姻失効も、監査終了まで保留へ戻る可能性がある。


そしてノアは。


リズは机の上へ、中央収容院の移送票を置いた。


「報告の前に、こちらを見てください」


「証拠と関係のない事情は、量刑審査で扱われます」


「証拠と関係があります」


「どの部分が?」


「この少年が家族資格を失った原因は、私が偽造した婚姻の失効です」


カイの筆が止まった。


彼は移送票へ目を通した。


対象者、ノア。


出生記録、未確認。


家族資格、失効。


移送先、中央収容院。


処理期限、翌朝第一鐘。


「仮台帳の焼却?」


「はい」


「異議申立ては」


「窓口が開くのは第二鐘です」


カイは時計を見た。


「夜間の緊急保護制度があります」


「対象は、市民番号のある未成年です」


「教会保護は」


「出生証言か、教区の洗礼印が必要です」


「臨時雇用」


「本人の市民番号が必要です」


カイは質問するたび、自分で答えへたどり着いていった。


一度目より声が低くなる。


二度目より間が短くなる。


三度目で、何も言わなくなった。


リズは続けた。


「正式捜査を開始すれば、私が作成した書類だけでなく、この件から派生する申請もすべて凍結されます」


「当然です。不正の上へ新しい権利を積み重ねることはできない」


「そうすれば、ノアの新しい所属を作れません」


「あなたを自由にしておけば、作れると?」


「方法を探します」


「まだ見つけていない」


「見つけるために、戻ってきました」


「見つからなければ?」


リズは答えられなかった。


カイは移送票を読み返した。


紙の上には、ノアがどんな少年なのかは書かれていない。


サラを見て最初に、自分ではなく彼女が逃げられたことを喜んだこと。


書庫の本を布袋へまとめて収容馬車へ乗ったこと。


家族資格を失った理由さえ理解しきれないまま、奥様と呼んだこと。


書かれているのは、分類だけだ。


《仮登録者》。


《所属なし》。


《処理期限》。


「ノア本人は、偽造を知っていますか」


「いいえ」


「加担は?」


「していません」


「公爵邸で犯罪行為を?」


「していません」


「では、彼の記録が焼かれる理由は?」


「私が婚姻を消したからです」


リズは初めて、声を落とした。


「私が、扶養資格まで見なかったからです」


カイは報告票を見た。


次に、移送票を見る。


再び、報告票。


机に並べた蜜柑の三房は、そのまま残っていた。


やがて彼は一房を手に取り、口へ入れた。


薄皮まで丁寧に噛んでから飲み込む。


「甘くありませんね」


「季節が早いので」


「そうですか」


事件には何の関係もない会話だった。


それでもリズは、カイが結論を出すまでの時間を稼いでいるのだと分かった。


リズは待った。


人が迷う時間を、普段の彼女は無駄だと思う。


必要な書類が分かっているなら書けばいい。


救う相手が決まっているなら動けばいい。


だが、この男が迷っている間だけは、急かせなかった。


カイは報告票の上へ監査印を置いた。


押せば終わる。


彼の親指が、印の柄をなぞった。


「私は以前、証拠が揃うまで待てと言ったことがあります」


カイが言った。


「誰に?」


「妹に」


それ以上は説明しなかった。


ただ、証拠が揃った後に何が間に合わなかったのかは、その声だけで分かった。


「だから証拠を曲げるつもりはありません」


カイは報告票へ視線を落とした。


「あなたが偽造した事実も、私が今それを確認した時刻も変えません」


「では、通報を」


「します」


カイは答えた。


「一時間後に」


リズは目を瞬いた。


カイは黒い報告票とは別に、灰色の用紙を取り出した。


《現場証拠保全命令》。


監査官が不正の全容を確定するまで、現場を一時封鎖するための書類だった。


「監査規則第二十八条。証拠の散逸、汚染、または不正な連鎖を確認する必要がある場合、担当監査官は通報前に最大一時間、現場を単独保全できる」


「単独保全中は、容疑者を拘束しなくてもよい」


「必要がないと判断すれば」


「容疑者が現場から出ても?」


カイは一瞬、黙った。


「証拠の所在を確認するため、監査官が同行する場合があります」


「それは規則の解釈を広げすぎでは」


「偽造官に言われたくありません」


カイは灰色の用紙へ、現在時刻を書き込んだ。


続いて、保全終了時刻。


きっかり一時間後だった。


「一時間です」


「夜明けまでは七時間以上あります」


「私が遅らせられるのは一時間です。それ以上は、救命ではなく隠蔽になる」


「一時間で所属を作れと?」


「一時間で、作れる可能性のある場所へ着いてください」


カイは黒い報告票を封筒へ入れた。


封をする。


自分の監査印を押す。


その上から、時刻を記す。


後で書き換える余地を、自分で消した。


「一時間後、この封筒は警備局へ提出します。あなたの偽造も、私が報告を遅らせた事実も、すべて記録に残します」


「自分の違反まで?」


「当然です」


「私を逃がすのに」


「逃がしません。同行します」


「報告を遅らせて、容疑者へ救済方法を探す時間を与える。一般には共犯と呼びます」


「呼びません」


「記録上は?」


カイは灰色の保全命令へ、最後の印を押した。


《保留》。


「現時点では、保留です」


机の端に置かれていた古い受理ゴーレムのハンが、わずかに頭を動かした。


胸の《保留》印を一度持ち上げる。


誰にも押さず、そのまま戻した。


賛同なのか。


単なる故障なのか。


確かめている時間はなかった。


「ノアを社会へつなぐ方法は?」


カイが立ち上がった。


座っていた時より、さらに背が高く見えた。


リズは頭の中で制度を並べる。


家族。


雇用。


教会保護。


医療保護。


教育籍。


どれも出生記録か市民番号を求められる。


ただ一つ、番号のない孤児を現場の技術によって引き取れる古い制度があった。


「認可職人の徒弟です」


リズは答えた。


「職人本人が技能を確認し、二人の立会人の前で徒弟儀礼を行えば、《職能限定仮登録》を作れます」


「立会人は、あなたと私で足りる」


「認可職人が必要です」


「心当たりは?」


王都の職人名簿が頭に浮かぶ。


無戸籍の少年を夜中に引き取り、監査官に追われる偽造官の説明を聞き、その場で技能試験までしてくれる人物。


普通の職人では無理だった。


だが、普通ではない婚礼商を一人だけ知っている。


「モナ・ベル商会」


「王都最大の婚礼店ですね」


「店主は認可仕立職人です。孤児の徒弟登録歴もあります」


「公爵家との取引は?」


「王都の貴族で、あの店と無関係な家を探す方が困難です」


「信用できますか」


リズは考えた。


「信用を、必ず代金へ換算する人です」


「信用できるという意味ですか」


「少なくとも、無料では裏切りません」


カイは理解できないという顔をした。


それでも反論はしなかった。


机の上の七つ穴の紙を、透明板ごと鞄へ入れようとする。


その直前で、彼の手が止まった。


「待ってください」


カイは紙を取り出し、魔法灯へ近づけた。


今度は表からではなく、裏側から光を当てる。


七つの穴を結ぶ魔法式が浮かんだ。


さらにその外側へ、肉眼では見えなかった細い線が現れる。


用紙の端を一周する、保存式だった。


カイの表情が変わった。


三つの質問をした時にも。


リズの自白を聞いた時にも。


報告を遅らせると決めた時にも。


崩れなかった顔だった。


「何ですか」


リズが尋ねる。


「この用紙を、廃版の古紙だと思いましたか」


「保存魔法は新しいと思いました。ただ、管理番号が削られていたので、誤廃棄された用紙かと」


「違います」


カイは用紙の透かしへ指を当てた。


王宮の紋章に似ている。


だが中央にあるはずの王冠が、黒い長方形で塗り潰されていた。


「用紙の製造年は、今年です」


「今年?」


「紙の繊維へ、今年収穫された亜麻が使われています。保存式も現行型です」


「では、どの部署の紙ですか」


カイは透かしを見つめた。


「分かりません」


監査官が、初めて分からないと言った。


中央収容院の方角で、馬車の車輪が遠く響いた。


残り時間は五十九分。


カイは七つ穴の紙を光へ透かしたまま、低い声で告げた。


「これは古紙ではありません」


黒く塗り潰された紋章が、二人の間に浮かんでいる。


「存在しない部署の、現行紙です」

第3話をお読みいただき、ありがとうございます。


三つの証拠と三つの質問だけで、リズの偽造へたどり着いた婚姻監査官カイ。彼は罪を見逃したのではなく、罪も自分の遅延も記録へ残したうえで、ノアを救うための一時間だけ法を止めました。


しかし、その一時間で頼れる相手は、王都最大の婚礼店を営む一風変わった女性だけ。次話では、収容馬車を追う最中に、ノアの人生を決める就職面接が始まります。追手が迫る中でも礼儀、糸結び、希望賃金を真面目に問う店主モナは、果たして少年を徒弟として認めるのでしょうか。


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